4-5 高藤立志=破裂





「ぎひひひぃぃ――――きひははは、っくきひひひはハハははハ――――――!」


 ――――それはまるで、表皮を破って膿汁が破裂するように。


 汚らしい膿みを撒き散らすかの如く高藤は笑う、笑う、笑う。

 原形もなく壊れ切った自分の右拳を見ながら、どこまでも笑い続ける。


「っくく、ひひひ、きひひひひ――――痛え! 痛え痛え痛えなぁッ! 死ぬほど痛えぜこりゃあ! っくはは、うひっひひひ、いつ振りだよ! っはははは! なんてこった、笑えてくんぜ! 死ぬほど痛え、糞ほど痛えェッ! っく、ぐへひひひひっいひひヒひ、きははははハハハぁ―――――!」


 高藤は大笑しながら潰れた右拳を空へと掲げる。

 瞬間に、血塗れの拳は再生していく。機能を取り戻したその手を高藤は再び握り込み、そして――――


「おらよぉっ――――――!」


 ――――もう一度鉄骨へと打ち付けた。金属音が鳴り、拳は砕けて。

 そして、高藤の狂行は繰り返される。何度も、何度も、何度も、何度も。

 金属の鉄骨を素手で打ち付け、拳をぐちゃぐちゃに壊して、治して、再び鉄塊に殴りかかる。

 やがて、右手を治す間は左手で殴り、左が壊れれば右を使い始めて。がちん、がぎん、と撃鉄の音が連続で響き、その度に奴の拳が壊れていく。


 ――――なんなんだこいつ……! いったいなにがしたい……!?


「っはははははァ――――――! 痛えなあ、痛えなあああっ! ぎひひ、くひひひはははは――――――!」


 己の拳からの血飛沫を浴びながら、高藤は笑い続ける。黒のパーカーにどれほど血液が染み込んだかわからない。それでもなお、奴は狂ったように鉄骨を殴り続けて。

 そして、気付く。同じことを繰り返す高藤に起き始めた、その変化に。


 ――――拳の壊れ方が、軽くなってる……?


 そう、いつしか血飛沫の量は減り、砕けずに残る指も出始めていた。

 なにが起きているのか。なにが変化しているのか。それは恐らく、奴のこの狂った行動の理由でもあり――――。

 ……まさか、と。その答えに辿り着きそうになった、その瞬間に高藤が叫ぶ。


「おい癖毛、知ってっかァ!? 拳ってのはよォ、砕けて治る度に強くなんだよ! そうやってだんだん強くなった拳はなァ、ぶってえ木だってへし折れるようになんだぜェ!? ガキの頃読んだマンガにそう書いてたんだァ! っききひひひひぃ、っはははははァァァ――――――!」


 ――――そういう、ことかっ……!

 狂ったように語り始めた高藤の言葉でようやく俺は、奴の行動を理解する。


『砕けて治る度に強くなる拳』。それこそが、高藤の妄執であり信仰。


 奴のイドルム『単弾衝撃耽溺症フォスタースラッグ・ドラッガー』は、単に打撃力を強化するだけのイドルムじゃない。

 本質は強化ではなく、そのにある。壮絶な威力の拳はただの付随効果に過ぎない。つまりはそう――――、砕いて治して強くするためだけに、奴は殴打を強めるイドルムを生んだのだ。


 ――――その思考は正しく狂気、妄執。高藤はタガが外れたように狂乱する。


「感謝してやるぜ癖毛ェ! てめえのおかげで久々に拳を壊せんだからなァ! もっと強くなる、もっと硬くなる、もっとエグくなる……! 楽しみで仕方ねえなあ、おい! っきひひ、ぎいひひひひひひ、っくききははははははハハははは――――――!」


 同時に理解する。奴が淀んだ空気をまとっていた理由を。

 ――――なるほど、強くなり過ぎたってことか。

 強化が行き過ぎ、己の拳を壊せるほどの対象が無くなっていたのだろう。

 それはつまり、奴自身が持つ最も強い願望や妄想がということであり。


 だから高藤立志は膿んで……そして破裂した。拳を壊せないというフラストレーションを破る存在が、現れたから。


 ――――くそ、いくらなんでも狂い過ぎだっ……!


 そのあまりにも常人離れした思考回路に、内心で舌を打つ。

 先ほどから俺は、高藤に対して拳の治療を阻害しようとしているのだが、思うように無力化が働かないのだ。


 奴のイドルムは殴打力強化の撃鉄だけでなく、拳の再生・強化能力までがパッケージングされている。つまりは拳の治療効果もイドルムの内なのだろう。

 だから、完全には阻み切れない。願望への狂信が過ぎるせいで、イドルムの強度が異常なのだ。

 

 ――――ならどうする、どうすればいい。


 考える。……奴を無視してここから逃げることは出来ないだろう。

 高藤は恐らく、俺の無効化能力で奴自身のイドルムを弱らせているこの状況をこそ最も望んでいる。だから、俺がイドルムを緩めることや、ここを離れることを許さない。


 かといって高藤をこのまま放っておいてもメリットなどなに一つない。

 俺はカナメの元に辿り着けず、奴はただただ己の拳を強化していくだけ。

 加えて、強化に満足した高藤が次になにをするかを想像すれば、この状況を続けるわけにはいかなく――――


 ――――待てよ、そうか。……奴は今まで拳を壊せなかった。だから、満足するまで拳を壊し続けたい。奴の行動原理はたったそれだけのことなんだ。なら――――


 閃く、思いつく。恐らくは俺が可能な唯一の、高藤を突破するための方策を。

 それはなにも難しいことではない。わざわざ知恵を回す必要もない手段だった。

 ――――必要なのは、胆力だけ。

 唾を呑む。乱れかけた呼吸を整える。これしかないんだ、覚悟を決めろ。そう自分に言い聞かせる。


 ――――やるしかない。カナメのためにも。


 大きく息を吸って、覚悟を決めて俺は――――――己のイドルムを


 ――――瞬間、轟音とともに、突き出ていた鉄骨がぐにゃりと折れ曲がった。

 高藤の拳の強度が鉄骨を完全に上回ったのだ。そして、撃鉄によって打撃力を強められた鋼鉄の拳がそれを完全にへし折った。


 それは、拳が強化されていった末のことではない。

 単純に、俺が自分のイドルムを意識的に止めたからだ。弱まっていた奴のイドルムがだけ。


「――――――――――――はァ?」


 大笑が止み、高藤はこちらへと振り返る。

 大量の返り血を浴びたパーカーは湿っており、殺気立つ顔にも赤色の飛沫の跡が残っている。――――フードの影からの量の目が、かっ、と見開いた。瞬間に圧となって襲う怒気、殺意。

 

「――――てめえ、なに勝手に手ェ抜いてやがる。殺されてえのか?」


「殺していいのか? になるぞ」


 そう言った瞬間、高藤は言葉と殺意を鈍らせた。……そうだ、鈍らせざるを得ない。奴は狂いながらも、現状をよく理解している。


「分からないのか? 拳で壊せないものが無くなって、拳を壊せるものが無くなって、伸びしろの消えた状態に逆戻りするってことだ。俺を殺せばそうなるが、あんたはそれでいいのかって聞いてんだよ」


 言いながら一歩ずつ、前に進む。血に濡れた高藤に近付いていく。


「……随分上から口聞くじゃねえか、ええ、おい」と、ねめつけるように威圧する高藤の言葉を遮るように俺は、「話は変わるが」と口を挟む。


「あんたみたいな狂った奴がなんで『市街』なんてまともな場所に収まってたのか、俺にはなんとなく分かる。

 ――――『法典』だろ。その圧倒的な力にあんたは頼った。こいつなら俺の拳を壊し得るかもしれない、って。まあ、結果は芳しくなかったんだろうが」


 フードに隠れた高藤の眉が、ぴくりと動いた気がした。――――反応から察するに、俺の予測は外れていない。

 こんな明らかに人間社会に馴染めそうもない人格の高藤が、奴にとっては大層窮屈だろう『市街』にわざわざ収まっているなど、余程の理由があるに違いない。そして、高藤の行動原理を考えれば……答えは自明だった。

 

「それでも、あんたの中では『法典』が一番、自分の望みを叶え得るに近い存在だった。だからハルシオンに留まってたし、警邏局長なんて明らかに似合わないポスト――――たぶん首輪代わりなんだろうが――――にも収まった。

 さて、ここで改めてあんたに聞くが――――――」


 そして俺は、高藤へと近付いて。間近に迫った大男へ向けて、左の手を差し出し。

 にやりと口元を歪ませて、そのを持ち掛ける。


「――――これ以上、ハルシオンに留まっておく理由ってあるのか?」


 つまりは、裏切りの示唆。それに対して高藤は、わずかに口の端を吊り上げて。


「そうか、そういうことかよ。……確かに、俺があいつらに義理立てする必要はもう無えな」


 言って高藤は、俺が差し出した手を奴自身の左手で握り込んで――――


「ただよ」


 ――――そのままぎりぎりと、俺の左手を潰さんばかりに力を籠めて。にたりと粘っこく笑い、食いしばった歯を見せ――――



「だからってなんでてめえに肩入れしなきゃなんねえんだ、よッ――――――!」



 空いた右手を全力で俺の顔面へと叩き込みにかかり――――――



「――――ああ、あんたならそう言うと思った」



 俺は素早く反応して左手を思い切り引き込み、己の体を高藤の方へと密着させる。――――直後、頭の背後で拳が空を切る音がした。


 鼻を付くのはむせかえるほどの鉄分の臭い。びちゃり、と詰襟にどす黒い染みが付く。その気味の悪さに悪寒が奔るも、奴の体から離れるわけにはいかなかった。


「確かにあんたのイドルムは強いのかもしれない。でもな、直接触れ続ければ無力化できんだよ。一応、でな……!」


 ……『第二監獄』での件を思い出す。酒匂のイドルムに関して俺は、紙飛行機の爆弾は無力化し切れなかったが、爆発する囚人服についてはその効力を完全に消せていた。

 ……それはつまり、俺のイドルムは、対象に触れ続けてさえいれば他者のイドルムすらも完全に無力化できることを意味している。


「糞ッ、てめえ――――!」


 至近距離で揉み合いになる。握り込んだままの左手を離す気はなかった。

 時折背中や頭に拳が打ち下ろされるが、それは単に痛いだけ。別段超常の威力を持っているわけでもない。その事実は、夢の無力化のおかげで奴のイドルムすらも掻き消されている証だった。


「大人しくしろよっ……! つっても無理だろうがな――――ッ!」


 俺の方も空いた右手を奴の脇腹や背に打ち付ける。上手く力は入らず、効いているのかどうかは定かでないが、なにもしないよりはいくらかましだ。

 無様で泥臭い、お互い張り付いたままのクロスレンジの殴り合い。もはや喧嘩としての体裁すらまともに整っておらず、ひたすらに汚く、血生臭い争い。


 息が荒れる、視界がかすむ。口の中は血の匂いに溢れている。

 それでも抗い続けなければならない。全てはカナメを助けるために必要なことだから。そして――――


「しまッ――――――」


 そう口にしたのは俺だった。ふとした瞬間に足元がよろめき、離すまいと握っていた左手から力を抜いてしまったのだ。

 これを好機と踏んだ高藤は、一瞬の隙を付いて俺の体を突き飛ばした後、思いっきり後方へと跳び下がる。


「……残念だったなぁ、おい」


 にやつく高藤の表情には、冷静さが完全に消えていた。

 狂っていてもそれなりに思考が回っていた先ほどまでと違い、周りを警戒している様子が全くない。完全に血が上っているのだということは一目でわかった。

 体制を低くし、今にも高藤はこちらへと飛び掛かろうとしている。 


 ――――だから奴は気付かない。自分が跳び下がった距離の長さに気付かない。


「舐めてかかった代償はでけえぞォ。これで――――――」


 奴は気付かない。自分が無意識に身体強化の夢を使っていることを。

 奴は気付かない。なぜ無力化能力を持つ俺の目の前で夢が使えたのかを。

 奴は気付かない。発動を認識している夢なら俺は、いつでも消せるということに。


「しばらく死んどけやオラァ――――――!」


 高藤が叫んで襲い掛かってくるのとほぼ同時に、俺もまた口を開いた。

 ……あくまで、冷静に。その瞬間の攻防は不思議なことに、時間が停滞して見えて。


「――――左、力抜けるぞ」


 言った直後に――――全力で横っ飛び。高藤の進行方向から体を逃がす。

 本来ならば到底間に合わない。夢で強化された人間の突撃を、常人の身体能力でまともに躱すのは不可能だ。ただ――――相手の狙いが逸れれば、話は別になる。


「―――――――――――あ?」


 俺の眼前で高藤は急に体勢を崩し、その体がふわりと宙に浮く。当然だった。右で殴るために踏ん張る必要のある左足から突然力が抜けたのだから。――――正確に言えば俺が、のだ。


 左のブレーキングが効かず姿勢を維持できなくなった高藤は、己の夢によって強化された勢いを消しきれずに、そのままあらぬ方向へと吹っ飛んでいく。

 その一瞬、俺の肩に高藤の体が激しくぶつかって――――瞬間に俺は、自身のイドルムを全力で振るう。一時的にでも、奴の夢を全て封じるために。

 接触されて強く突き飛ばされながらも俺は、目論見が成功したことにほくそ笑み、そして――――


「終わりだ、高藤」


 奴が宙を舞っていく先には――――――――ひしゃげた鉄塔の残骸。突き出た鉄骨が群れを為している場所に、高藤は吸い寄せられるように飛んで行って。



「あっ――――――――――――――――が」



 ――――ずぶん、と鈍い音。びちゃり、となにかが飛び散る音。

 月の逆光に浮かぶ串刺しのシルエットは、しばらくもぞもぞと蠢きあがいて……やがて、その動きを完全に止めた。

 

 


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