4章 コスモスは何処へ、あるいは夢の世界のプロトコルに関する考察
4-1 柳英美里=善人
――――触れた瞬間、その白い少女は突然に消えて。
――――それに気付いた瞬間俺は、
階段を駆け下りる。全力で脚を回転させる。速く、速く、なによりも速く。
――――近くに、近くにいるっ! 必ず行く、絶対に見つける、迎えに行く! だから待ってろ、カナメ――――!
息が荒れる。酸素を求めてあえぐ。脚も痛む、動きも機敏ではなくなってきている。このビルに辿り着くまでに相当体力を使っていた。
だが、そんなことなど知ったことか。
今、目の前に、カナメが居たんだ。居るんだ。
なら――――今走らずにどうするというのか。今命を懸けずにどうするというのか。
走る、走る、駆け下りる。目的を果たすために。
今すぐにでも、あいつを叩き起こしてやりたい。こんな世界からさっさと逃がしてやりたくて、仕方がなかった。
夢の世界に来て、まだ数日と経っていないが、それでもこれだけははっきりわかる。――――――この世界はイカレてる。なにひとつ、真っ当なものが見当たらない。
――――こんな、こんな狂った場所に、あいつを置いておくわけにはいかない。
だから走る、駆け下りる。階段が無くなり、正面に無人のエントランスが見えた。
阻むものはなにもない。軽微の人間も見当たらなかった。恐らくは、襲撃してきた『市街』の警邏局員の対処に追われているのだろう。
この領域は混乱の最中にあるのだろう。なら、この機会を利用しないわけにはいかない。
混迷が完全に収まる前に駆け抜けて、あいつを探し出す。そして連れ戻す。
目的とその方法は既に見定まっていた。だから全力で駆ける。エントランスを突っ切って、ガラスのドアを勢いよく押し開けて、ビルの外へと駆け出て――――
「――――ごめんなさい」
上空からの声。そして――――――悪寒。
咄嗟に急ブレーキを掛け、疾走の勢いを完全に殺す。その直後――――目の前に落下してきたのは、大量の机と椅子だった。
がらがらとやかましい音を立ててそれらは、次々にコンクリートの地面へと落下してくる。様々な形のデスクやチェア……だけではなく、書棚やパーテーションらしきものまでが、がちゃがちゃと無節操に。
そして、そのインテリアの雪崩は性質の悪いことに、俺の眼前に即席のバリケードを形作って。
目の前に出来上がった、瓦礫の山。その傍に降り立ったのは――――黒髪の少女。
恐らくは最上階から、瓦礫を伴って直接飛び降りてきたのだろう。
「要太郎さん。……あなたをこれ以上、先へ進ませるわけにはいきません」
艶めく長い髪を夜風になびかせ、彼女は粛々と、そしてどこか痛ましげに言う。
砂埃で少しだけ汚れた真白のシャツワンピースの裾も、冷たい風にひらひらと揺れて。
「『市街』の平穏のために。あなたの目的を果たさせるわけにはいかない」
――――立ち塞がるのは、柳英美里。
俺が唯一、夢の世界で『まとも』だと感じた少女。
彼女が俺を阻むのは、ある意味予想どおりではあって。
そして、だからこそ――――――避けられるのならば、避けたかった。
◇
「最初、『第二監獄』で看病をしていたときは、話半分で聞いていたんです。
連れ戻したいなんて言っても、結局は出来っこない。だって、この世界からまともに目覚めることの出来た人なんて、今まで一人もいないんですから。
だから、そんなこと出来るわけないって。そう思って話半分にしか聞いてなかったんですよ」
「……だろうな」
前例がない。だから不可能。そもそも方法がわからない。
この世界に長くいる人間は普通、そう考えるのだと思う。
加えて、積極的に目覚めようとする人間も少ない。当然だ。願いがなんでも叶う場所にいて、わざわざ現実に戻ろうとする理由などそうそう無いだろう。
――――だから、皆目覚めない。
先入観や思い込みは、その通りに夢を形作ってしまうから。
彼らは夢から目覚められないと思っている。目覚めたくないとも思っている。
だから、目覚めない。夢を見続ける。けど――――
「でも、今は違います。『第二監獄』での脱獄や、この『ファクトリー』でのこと。そして、さっきあなたがカナメの『分体』を消したこと。それらをずっと見てきて、どうしたって否定しきれなくなった。
――――もしかしたらこの人は、本当に彼女を目覚めさせてしまうかも、って」
可能性を生み出せたのなら、話は別だ。
それは、俺に宿っているイドルムも大きく影響しているだろう。
夢の無効化。その特異な力が柳に、もしかしたらという疑念を抱かせた。
――――だから、彼女は今俺の目の前に立っているのだろう。
肝心なのはイドルムそのものではなく、周囲にもしかしたらと思わせたその事実。
願いが叶い、思いが形になることが確約された夢の世界において、誰も信じないものはそもそも発生し得ない。だからこそ、可能性が生まれたという事実が致命的になる。
想像し得るのだから叶い得る、と。――――だから、彼女は俺を阻むのだ。
必死に、熱心に、懇願するように。
柳は涙ぐみながら、絞り出すように叫ぶ。
「カナメは、『市街』にとって必要なんです。彼女を欠いてしまったら、『市街』の安寧は保てなくなってしまうんです……! また昔のように、間違った世界になってしまうっ……!」
「そう、だろうな」
「だったらっ!! ……だったらどうか、お願いします。ここで立ち止まってください。カナメに会わずに、どうかこのまま領域を出て――――――」
「断る。それは出来ない」
迷いなく言い切った瞬間、柳は目を見開いて、言葉を詰まらせ、その表情を悲哀に染める。……同情に揺らぎかけた心へ、蓋をして。
「俺の目的は一つだけだ。あいつに会って、叩き起こす。それ以外は知ったことじゃない」
「そんな、どうしてっ……!? あなたもわかるでしょう!? 『法典』なくして『市街』の平穏は保てない! 彼女を失えば、『市街』がいつここのような場所になってもおかしくは無いんです! こんな明らかに間違った、狂った場所をこれ以上増やすなんて……そんな選択、間違ってます!!!」
「違う。柳さん、そうじゃない」
この場所は、『ファクトリー』は確かにイカレている。
妙な薬で常時ハイになった集団が、四六時中おかしな行動をしながら時に暴れまわり、時に殺し合う。確かにカオスだ、それは間違いない。けど――――
「『市街』がどうとか、『ファクトリー』がどうとか、『第二監獄』がどうとか……そういう話じゃないんだ。そんな次元の話じゃない。
俺は、夢の世界そのものがどうしても受け入れられない。どこをどう切り取っても、狂った世界にしか感じられない」
初めて、己の口で自分の本心を発露する。すると柳は、「っ……!」と唇を噛み、二の句を継げなくなって。
……反論が来ないということは、思い当たる節があるのだろう。
「皆狂ってるよ。イカレてる。願いが自由に叶うなんてそもそもが馬鹿げてるんだ。そんな場所にずっと居ておかしくならないわけがない。
……柳さん、覚えてるか。あんた何日か前、俺が負った即死モノの傷を見て言ったんだ。『この程度なら一日か数日程度で蘇生と治療ができる』って。
――――なあ、自分でそれ口にしてて、頭おかしいって思わなかったのかよ?
それとも、ちゃんと言われなきゃ理解できないのか? だったら言わせてもらうけどな、死んだ人間は生き返らないんだよ……!」
「そ、れはっ――――!」
反論しようとしてしかし、柳は続く言葉を継げずに口ごもる。
悔しげにこちらを見るその潤んだ瞳から俺は、絶対に視線を外さない。
「ここが本当の現実なら別に構わないだろうさ。願えばなんでもできるってのが原理原則の世界がリアルになったんならそれでいい。時代が変わるなら常識だって変わってく。当たり前だ。でもな――――」
そう、事実そうはなっていない。だから俺は認められないし許せない。
なにより、お前ら自身がそうじゃないと言っているじゃないか――――
「――――全部、全部夢なんだよ……! そうだろ!? あんたら自身がずっとそう呼んでるじゃねえか、夢の世界って! ならいつかは醒める、無くなるんだ! あんたら自身が心のどっかでそう思ってる!
願いは叶う、思いは形になるんだろ!? だったらこの世界はどこまでもいつまでも夢のまんまだ! そんな現実でも何でもない、薄っぺらな妄想ばっかのくだらねえ場所に、これ以上俺の妹を閉じ込めさせてたまるか!!」
堪え切れず俺は、感情を激発させ……それが呼び水となったのか、柳もまた顔を赤くして、涙ながらに叫んでくる。
「それでも、この世界に暮らしてる人はいるんですよ!? 薄っぺらでもくだらなくても、そこに生きてる人がいるなら守らなきゃいけない、大切にしなきゃいけないんです! 当然じゃないですか!? だからカナメだって『法典』を作った! なのに、そんな言い草……っ、酷過ぎますっ!!
それとも要太郎さんは、わたしたちが、他のみんながどうなろうと知ったことじゃないって言うんですか!?」
「ああ、そうだ! それ以上にこうも思うよ、そんなもんてめえら自身でなんとかしやがれってなぁっ!
聞きゃあなんでも『法典』がどうの主席がどうのと……! いい加減うんざりだ! 人の妹をいつまでも道徳の教科書扱いしてなきゃ自分を正すこともできねえのかよ!? ふざけんじゃねえ、十五やそこらのガキに託すようなことじゃねえだろそんなもん!? 重荷を負わすのも大概にしやがれ、くそったれが!!」
なんでだ。なんでカナメにそんな大荷物を背負わせる?
それはおそらく、あいつのことを聞いた時からずっと心の内にあった疑問であり、怒りだ。
カナメは普通なんだ。どこにでもいるような、ちょっと生意気なただの子供だ。
勝手な理由ですぐ不機嫌になるし、感情を抑えられずにすぐ怒ったりする。
くだらないことで馬鹿みたいに笑ったりもするし、悲しい時はどん底まで行くぐらいの勢いで泣いたりする、別に珍しくもなんともない普通の、けど誰より大事な俺の妹なんだ。
それがなんだ、主席? 『法典』? ――――人の大切な妹に、なに妙なもん押し付けてやがる。
こんなイカれた世界の馬鹿みたいな連中が担ぐ糞みたいな
認められるか、許せるか、我慢なんて出来るものか。そんなもの、兄貴である俺が絶対に許可しない。だから――――
「だから俺は、なによりも早く、あいつを目覚めさせてやらなきゃならない。
こんな馬鹿げた世界に染められたんなら、とち狂った常識を刷り込まれたんなら、過ぎる荷物を背負わされたんなら……! 一刻も早く、現実に戻してやらないといけないんだよっ!!」
「もう、黙って―――――――――!」
裏返るほどの悲痛な声で柳が叫んだと同時に、椅子と机のバリケードが、その山の形のままにふわりと浮いて。
竜巻にでもさらわれたかのように渦巻いて宙を飛んだかと思えば、インテリアの瓦礫たちは、俺の丁度真上にその位置を留めた。
不自然にふわふわと浮遊する、書棚やチェアやパーテーション。
その光景を見て俺は――――自分自身の行動の甘さと遅さを呪う。
息も絶え絶えに、まなじりに涙を浮かべた柳は、鋭い視線をこちらへ向けて。
「あなたの力は、夢ならなんでも際限なく消せるわけじゃない。
しっかりとした意識下で完全消去できるのは、あなた自身がはっきりと『あり得ない夢だ』って自覚したものだけ。そうじゃなきゃ、殴られたりナイフで刺されたりして怪我を負ったことに説明が付かない」
そうだ。ついさっきまで、俺が例の中毒者たちの攻撃を完全に無効化できていたのは、あいつらの扱う夢があまりにも現実離れし過ぎていたから。
端的に言えば、否定材料が多かったのだ。口にするまでもなく、あんな光の弾はあり得ない。だからこそ容易に無力化できていた。だが――――
「つまりあなたは、『椅子や机が勝手に浮いている』夢は簡単に無力化できるけど――――机や椅子そのものを消し去ることは、できない」
ゆえに、この状況はほとんど詰みに近い。
浮遊の夢を消してしまえば、俺はインテリアの雪崩に巻き込まれて押し潰される。
加えて、夢による強化が一切ない生身の身体能力では、降ってくる椅子や机を避けることもできなければ、そのダメージに耐えることもできない。
瓦礫に押し潰されて死ぬか、落ちたモノの当たり所が悪く死ぬか。
あるいは命が助かったとしても、インテリアの雪崩によって生き埋めになってしまうか。
――――舐めてた。これは俺のミスだ。
恐らく柳が立ちはだかるだろうことは予測していた。ただ、彼女は攻撃的な夢を使えない上、あまり荒々しい性格でもない。
だから、本気で抗えば容易に突破できるだろうと高をくくっていたのだ。
――――その結果が、これか。……嫌になる、本当に。
本当に嫌になる。できることなら強引に突破したかった。
知恵も工夫も使うことなく、勢いだけで突っ切ってしまいたかった。
けど、現実にそうはならなかった。迂遠に攻略せざるを得ない、
そんな自分の浅はかさと、考えの甘さとそして……性格の悪辣さを、恥じる。
もっと用心していれば。
もっと深く考えを巡らせていれば。
もっと真っ当な方法を思いついてさえいれば。
そうすれば俺も――――――彼女の秘密を、暴かずに済んだというのに。
そんな後悔を抱きながら俺は、口を開く。
「……悪い。あんたにだけは、俺は止められない。
――――――あんたはまとも過ぎるから。それはもう、不自然なくらいに」
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