2-ex ハルシオン行政府:執務室





 ――――ぐしゃり、と。

 達筆たっぴつ色褪いろあせた羊皮紙ようひしを、思い切り握り潰し。

 木製の執務デスクに拳を叩きつけて、吐き捨てる。

 

「やってくれたわね、冴……!」


 ろうで封がなされていた、嫌に古臭い手紙。

 宛名を見ずとも誰から来たのかは容易に察せられた。こういった手の小道具を好んで使いたがるのは、あの中世ファンタジーにかぶれた『女王様』しかいない。


 中身を見る前から、嫌な予感はしていた。

 そもそも冴がこんな手紙を寄越すのは初めてだったから、碌なことは書いていないだろうと予想はしていたのだ。

 

 ……だけど、まさか。

 ここまでの厄介ごとが持ち込まれるなんて、想像だにしていなくて。


 ――――? ふざけんじゃないわよ……! アンタがそんなもの、万に一つでも見逃すわけがないでしょうがっ……!


 酒匂冴は純粋培養の化け物だ。狂っていると同時に、突き抜けている。

 容姿、精神性、頭の出来、運動神経、その全てが埒外らちがい

 特に、頭の回転に関しては怪物と称して差し障りがない。


 だからこそ、あり得ない。

 あの子が不意を突かれて脱獄を許すなどということは、決して起こるはずがないのだ。などという予想外の出来事があったところで、冴の頭脳は揺らがない。

 まして、冴の傍にはリリアンがいる。彼女のイドルムはこと特定対称の追跡という点において、他の追随を許さない性能を持っている。


 女王の頭脳と猫の嗅覚。

 鉄壁の『第二監獄』をさらに堅牢足らしめるその二つの要素をして、囚人を取り逃がすことなど絶対にあり得ない。つまり。


 ――――あの子は、


 分かっていながら見逃したのだ。そうとしか考えられない。

 なぜ、と。その問いは抱く意味がない。あの子の神経は根っこからイカレているから、私たちが理由を聞いたところでそれを理解できる確証はない。

 重要なのは、『第二監獄』で脱獄が発生したという事実だけ。

 

 その事実がどれだけ重大かということに気付ける人間は、そう多くはない。

 

 人の願望なんてものは、基本的に不安定だ。

 願いを叶えたい、というプラスの感情と、無理かもしれない、というマイナスの感情が必ず同居してせめぎ合っている。

 私たちが普段使う『願いの強度』という言葉はつまり、この同居する感情がどちらに振れているか、を意味している。


 例えばそう、『第二監獄』に働く、囚人の夢を奪う夢。

 その根源は、囚人が逃げてしまわないように自由を奪ってほしい、という願いにあるけれど。

 もし、当の囚人がひとりでも逃げてしまった場合、いったいどうなるか。


 単純な話だ。囚人が逃げた――――つまりという例が生まれることによって、願望の強度がマイナスに振れてしまう。願いが弱くなってしまうのだ。


 そうなれば、『第二監獄』に余計なが出来てしまうことになる。

 それだけならまだ構わない。その程度の陥穽かんせい、冴ならものともしないだろうから。問題なのは、『第二監獄』の穴が『法典』にまで広がった場合だ。


 ……と、ごく真剣な考え事の途中で。



「にゃーっはははははぁ! やあやあやあやあ、ごきげんうるわしゅーですわぁ、カナメちゃーん?」



 突然、底抜けに馬鹿らしい笑い声が響き。

 いつの間にやら馴染みの紫髪が、執務室の中空をくるくると飛び回っていて。

 オーバーオールのポケットに手を突っ込みながらにやにやと笑うフェノは、いつもの通りに鬱陶しく。内心で舌を打つ。


「いやいやいやいや、たーいへんなことになっちゃったねぇ? まっさかあの難攻不落の『第二監獄』からついに脱獄者が現れちゃうなんてさあ? これは問題も問題、大問題だよぅ? 『法典』が裁いた犯罪者に自由が与えられたとなっちゃあ、ハルシオンとしては超大打撃だ♪ キミの『法典』の絶対性が揺らいじゃうかもしれないねえ?」


「……そうならないように、今考えを練ってたのよ」


「おやおや、またまた激おこちゃんのご機嫌斜めちゃん? ひょっとしなくてもお邪魔しちゃった感じ? ま、だからっつってフェノちゃん全く気ぃ遣おうとか思ってないんですけどね? なっはっは♪」


 今度はしっかり、自分の口で舌を打つ。――――全く、鬱陶しいことこの上ない。

 とはいえ、フェノが言っていることは間違ってはいない。


 私の『法典』の力の源は、不特定多数の人間が抱くモラルへの願いだ。

 その『法典』が直に裁いた人間が野に放たれることになれば、それは『法典』へ集う願いの弱化に繋がってしまう恐れがある。


 絶対の法が、崩れてしまいかねない。だからこそ、今回の事態は重大なのだ。


「こうなったら……完璧に事態を収めなきゃいけない」


「完璧に? 逃げたやつを捕まえちゃう以外になにかできることってあるもの? フェノちゃんその辺の知恵あんまり回らないからぜひぜひ教えてほしいなぁ?」


 馬鹿にしたような口ぶりのフェノ。

 ……この子は、今の危機的状況を本心から面白がっている。

 その様子にイライラはするものの、フェノの性格は直しようがない。

 だから腹を立てても仕方が無いんだけど……どうしても頬がひくついてしまう。


 表情が険しくなっていることを自覚しながら、言葉を紡いでいく。自分の精神を落ち着かせ、考えをまとめる意味も込めて。


「脱獄した人間の場所は割れてる。向こうにはリリアンがいるからね。

 だったら、大して焦る必要もない。情報の封鎖もある程度はもつだろうし……そうでしょ、人員管理局長?」


「いぐざくとりぃ♪ 情報統制はフェノちゃんのお手の物だからねっ♪ 本音を言うと『脱獄者が出たぞ~!』って『市街』どころか夢の世界中を叫んで飛んで回りたいところなんだけど、流石に今回のは事態が事態だからねえ? 『市街』の平穏のため、全力でお仕事に当たらせてもらってるわけでありますよ主席殿っ♪」


 ちゃらけて敬礼の真似をするフェノに鼻笑びしょうをくれてやって。


「……高藤を呼ぶわ。警邏けいら局から呼べるだけ要員を回してもらう。

 それから――――」


 言うべきかどうか、一瞬悩む。

 一度言ってしまえば覆せない。全てが私の言葉通りに動いていく。主席の立場とは、責任とはそういうものだ。

 迷う。なぜだか脳裏にの顔が浮かんで、消えて――――。そして。



「――――私も出る。直接事態の収束に当たるわ」



 私がそう告げると、フェノは意外そうに目を丸くして。


「あらら、そう来ましたかカナメちゃん? こぉれは相当本気みたいだねえ? ていうか、分かってる? キミが出るってことは、ちっちゃい領域なら余裕でブッ飛んじゃうレベルの戦闘になるかもしれないってことなんですけど?」


「当たり前よ。ここまで来たら領域の一つや二つ、跡形も無く消すつもりでやる」


「ひゅー♪ 言うねえ、流石は我らが主席殿♪ じゃあじゃあ思い知らせてやろうじゃないか、ボクたちハルシオンに逆らったクソザコナメクジがいったいどういう末路を迎えるのかってことをさあ! いっひっひっひ、楽しくなってきたぞぉ♪」


 そう喜色ばんだフェノは、楽しげにくるくると宙を回りながら、すうっと姿を消していった。……理由はなんにせよ真面目に仕事をしてくれるなら、それに越したことはない。

 フェノの仕事については、任せておいて大丈夫だろう。

 諸々の情報の取り扱いに関して、あの子以上のことができる人材はいないから。


 だからあとは、私たちが上手くやるだけ。


 自然と拳に力が入る。……けれど、ふと。自分の手元に目を遣れば。

 固く握った右の手が、細かく震えていることに気付いて。


 ――――なに、これ。


 無意識だった。手を震わせている自覚はなかった。

 右手に力を込める。左手を添える。けれど震えは止まらない。

 

 ――――なんで、なんで。


 無意識だった……んだろうか。本当に?

 自覚はしていたのかもしれない。それを見ようとしていなかっただけで。

 認めてしまえば足がすくむから、動けなくなってしまうから。


 でも……でも。見てしまった。気付いてしまった。

 だから認めないといけなかった。認めさせられてしまった。


 ――――今の状況が、恐ろしくてたまらないことを。


 震えが広がる。がたがたと。両手で両肩を抱いてもそれは止まらない。

 下唇を噛む。その痛みが無ければ、恐怖に涙がこぼれてしまいそうで。


 それは、守ってきたものが崩れてしまうかもしれない恐怖?

 築き上げてきたものが壊れてしまうかもしれない恐怖?

 違う……違う。そんなものでは決してなくて。


 ――――は誰?


 ――――なぜここにやってきたの?


 ――――私の周りで、なにが起こってるの?


 なにもかもがわからないという、恐怖。

 はいったい何者なのか。その謎が、私の心を凍えさせている。


 いやだ、いやだ、わからない、わからない。

 ただただ恐れる。なぜ自分がここまで怯えてしまっているのかもわからないまま。

 得体の知れない恐怖に耐える。

 心が麻痺してしまうまで我慢をすれば楽になると、自分に言い聞かせながら。


 呼吸が荒くなっていく。視界がもやもやとぼやけてくる。

 忘れてしまえばいい、見なければいい、思い出さなければいい。

 そうは思う。けれど、運命がそれを許してくれているようにはどうしても、思えなくて。


 引力が働いている。に、引き寄せられている。そのことが怖くてたまらない。触れてしまえばどうなるか、そのことを考えるだけで恐ろしい。


 ――――触れる? なにに?


 ――――触れればどうなるの? 触れなければこの恐怖は消えるの?


 ――――わからない、わからない。……私はどうすればいいの?


 しゃがみ込んで、自分を抱いて。

 白のロングコートは、心の寒さをしのぐことの役には立たなくて。

 震える唇が勝手に動く。なにかを求めるように、すがるように。






「助けて――――――――にいさん」







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