2-10 悪戯書=徒欠
炎の球と氷の槍の雨、銃弾の嵐を受けてなお無傷。
どころか、大巨人の隕石染みた拳を、指先一つで受け止めて。
だというのに、夜空でも眺めているかのような気軽さで、酒匂冴は佇む。
囚人たちの表情は驚愕に染まっている。
それを見てか、黒衣の少女は微笑みを、あるいは嘲笑を漏らして。
その小さな声が聞こえる程度には、辺りは静まり返っていた。
「薄い、脆い、弱い。中身がないわね、まるであなたたちの頭の中のよう」
巨人と化した囚人は今も、酒匂を押し潰さんと力を込めている。
囚人服をまとう巨腕には筋が浮いており、ぎり、ぎりと筋肉の軋む音が響いているのだ。……だというのに、酒匂は一切、微動だにせず。
「想像力と信念が足りないのよ。自分の夢に対する
自由に思い描けばいいというものではないの。子供の落書きではないのだから」
――――突如、穂先が鋭く閃いた。
いつの間に近付いたのか、酒匂の真横に立っていた囚人が槍で刺突をかけていたのだ。刃の軌跡が銀色の線を描いている。それほどの、常軌を逸した速さの一撃。
……しかし、その槍の剛撃すらも、酒匂冴に届かない。
どころか、彼女のまとう黒いロングジャケットの布地すら揺れてはおらず。
槍を振るった囚人は、その事実に目を見開いて驚き。
一方の酒匂は、なにごとも無かったかのように平然と言葉を続ける。
「ひとつ、手本を見せて差し上げるわ。
あなたたちのことだもの。見て、体感しないと覚えられないでしょう?」
言って彼女は、右手の人差し指で大きな拳を止めたまま、左手の指をぱちん、と鳴らす。そして。
「
そう告げた直後、酒匂の左手が一瞬、ぐにゃりと渦巻いて歪み。
次の瞬間には、なにか細く短い棒のようなものが、その手に握られていた。
――――なんだあれ。……ペン、か?
そう、マーカーペンだ。黒いキャップの付いた、太字書の油性ペン。
なんの変哲もないただの文房具。……あんなものを出してなんになるのか。
手指を器用に使い酒匂は、左手だけでマーカーのキャップを外して。
おもむろに巨人の拳に一本の線を描き、その流れで囚人が持つ槍の穂先にも黒の線を引いた。
……なにか、嫌な予感がする。そう考えた直後のことだった。
「――――発破」
声と同時に、光と音の暴威が辺りを包む。
大爆発。聞き間違いでなければ二発。連続で起こった大きな爆炎は、酒匂も巨人も槍の囚人も、まとめて全てを巻き込んで。
同時に、立ち込めた黒煙の横っ腹を突き破るように槍の囚人が吹き飛ばされ、薔薇の園を勢いよく転がっていく。
巨人の方はといえば、眼前で起きた爆発の勢いに大きくのけ反り、そのまま後ろへと倒れていく。その全身は腕を起点に黒く焦げており、まとわる煙と色が同化していて。
再び吹いた冷たい夜風が、黒煙を全てさらっていく。
そこには、やはり。――――元居た場所と寸分狂わぬ位置で佇む、酒匂。
月の光に淡く光る白金の髪をさらりとかき上げ、ゴシックの少女は涼しげに言う。
「と、こういう具合だけれど。煙でよく見えなかったかしら?」
市松模様の薔薇庭園に黒い筋を残して吹き飛んでいった囚人は、もはやどこまで飛ばされたのか視認できない。
巨人は倒れ込んでいく最中に急激に元の大きさの囚人へと戻り、その黒焦げの屍を庭の通路に晒していて。
目の前の惨劇に絶句する囚人たちをひととおり眺めた酒匂は、「さて」と冷たい声色で放って。
「これであなたたちがしっかり理解できたのか、正直不安ね。とっても不安だわ。ただでさえ足りない頭なのに、見えづらかったとなればなおのこと理解が進まないでしょうし。
だから――――この場にいる全員に、ちゃんと教えてあげることにするわね?」
その言葉が意味するところを囚人たち全員が理解し、顔面を蒼白にする前に。
――――――――爆発、爆発、爆発。
囚人の集団のいる場所から次々に炎が弾ける、音が暴れる。煙が破裂する。
夜の薔薇園に、囚人たちの悲鳴が木霊する。甘い
時折聞こえるびちゃ、ぐちゃ、という水音の正体など、想像すらしたくない。
どさっ、と。すぐ傍になにかが落ちてきた。――――それは、真っ黒に炭化した誰かの身体。両足と右手と、顔半分が吹き飛んだ無残な死体。
地獄、地獄だ。一等最悪の
ここがそうでなければ、この世のどこにも地獄なんてない。そう断言できるほどの惨状、血の光景。炎が血を炙り、煙が人を燻して、
やがて、爆発の
黒煙と残り火を背景に、白金髪の少女はこちらへと振り返る。
その顔は、傷一つなければ煤けてもおらず。
その表情は、崩れていなければ歪んでもいない。
ただただ冷静に、そして穏やかに、なにより淑やかに。
酒匂冴は微笑み、スカートのレースをつい、と摘み、優雅に一礼する。
「お待たせして、申し訳ないわね?」
その笑顔に、思わず後ずさる。膝が震えているのを自覚する。
一歩一歩近づくその姿に、恐怖を抑えることができない。
――――……こいつは、やばい。
精神性も、夢の扱いも、明らかに常人の次元に無い。
普通の人間には到底理解できない領域にいるんだ。端的に、狂っている。
「そんなに怯えなくてもいいのよ? あなたにはいろいろと聞きたいこともあることだし。乱暴にはしないわ」
言って酒匂は立ち止まり、おもむろに指をぱちん、と鳴らす。
なにかの合図か。そう感じ周囲に神経を配るも……なにも変化は起こらず。
くすり、となにがおかしいのか酒匂は笑って。
「やっぱりそうなのね」
「…………どういう、意味だ」
「いずれ分かるわ。今は気にせずとも構わないわよ?」
そう呟いた少女は、どこからともなく一枚の折り紙を取り出して。
手に持っていたマーカーでその紙に一本の線を書いたかと思えば、慣れた手つきで折り紙を折っていく。徐々になにかが形作られていく中。
――――――がさり、と。奥に見えていた植え込みでなにかが動いて。
茂みから飛び出てきたのは、手負いの囚人だった。
腕を抑えながら必死に走っていくその囚人の黒い後ろ姿は瞬く間に遠くなっていき……そして、塀を飛び越えた。
――――外に出た……逃げ切った、のか?
手元の折り紙に集中していた酒匂は、そのことに気付いていない……のだろうか。
――――わからない。読めない。
微笑みを絶やさず紙を折り続ける酒匂の思惑は、ようとして伺えず。
「できた」
小さくそうこぼした酒匂の手にあったのは、丁寧に折られた紙飛行機。
しなやかな指で紙飛行機の中ほどをつまんだ彼女は、その先端を俺の方へとむける。…………まさか。
「少し、実験させてね?」
言って、酒匂は軽く手首を利かせ、ふわりと飛行機を飛ばした。
風に乗ってこちらへと飛んでくる紙飛行機を見て、顔面から血の気が引いていく。
それは、恐怖。言いようの知れない恐ろしさ。
直後に思考が高速で回る。望んでもいないのにあれについての予測を弾き出す。
酒匂の取り出したペン。色は黒。爆発が起きたのは黒い線が描かれた直後。爆発の中心は線の描かれた部分。爆死した囚人たちの服の色は黒。そして――――あの折り紙には、黒い線が一本描かれているはずで。
――――まずい、まずいまずいまずいまずいっ―――――!
あれはまずい。あの紙飛行機は危険だ。そう思っているのに頭が働かない。
避けなければ、逃げなければと、そう思っているのに体が動かない。
怯え、
だからなのか、と俺は悟る。……そうだ、俺は既に認めてしまっているんだ。
――――酒匂冴からは逃げられない、と。
「痛かったら、ごめんなさい」
平然とそうのたまう酒匂の穏やかな表情に薄ら寒さを感じながら。
目の前に迫ったその紙飛行機を俺は、じっと見つめているしかなくて。
――――――鼻先1センチ、悪寒が奔る、それと同時に。
――――――紙飛行機は、大きな爆炎となって俺へと襲い掛かってきた。
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