2-9 蝋の羽根=まっさかさま
誰も言葉を発さない。誰も動こうとはしない。
冷える夜、月下。少女の白金色の髪が、淡く燐光を持つ。
響く靴音は高く、楚々として。かつ、かつ、と。
漂う薔薇の甘い香りは、なにかの焦げた臭いを侵し、塗りつぶしていく。
口が乾く。鼓動が早鐘を叩く。
黒衣の少女は急かない、焦らない。たおやかに、一歩一歩近付いてくる。
間近まで迫る。逃げなければと、そう思っているのに体はぴくりとも動かず。
そして、俺のすぐ傍を、少女――――酒匂冴は優雅に通り抜けて。
なびく髪に薔薇が香り、視線は自然と引き寄せられていく。
後ろ姿の酒匂はぽつりと。俺にだけ聞こえるような声で。
「あなたは、最後」
穏やかに放たれたのは、致命の一言。
精神に突き立ったその言葉はまるで杭のように冷たく、鋭く、痛く。俺を貫き、その場にびたりと縫い留めて。
恐怖に固まる俺を他所に、酒匂は優雅に、ゆっくりと、庭園を歩いていく。
植栽に咲き誇る黒薔薇はまるで、彼女へ
囚人たちは動かない、動けない。まるで蛇ににらまれた蛙のように。
その様子を見てか、酒匂はくすりと含み笑いを漏らした後、仰々しく両手を広げて、穏やかに言う。
「どうしたの? 脱獄をするのでしょう? だったら、早く逃げなさいな」
嘲り、侮蔑。その声は淑やかでありながら高圧的。
人を人と思っていないのだろう。少なくとも囚人たちへ向けている言葉は、ペットかなにかをあやしているようにしか聞こえない。
「あなたたちはいつもそうね?
監視が無い場所では傍若無人に不平不満を撒き散らすというのに、いざ私を前にしたらなにも言わなくなる。抗わなくなる。まるで震える子犬みたいに。
だからあなたたちは人以下だというのよ。
奴隷や家畜の方がまだプライドがあるんじゃないかしら?」
かつ、かつと。静寂にひとつひとつ靴音を落としながら、彼女はなおも語る。
穏やかな語り口でも隠し切れない、嘲りを滲ませて。
「せっかく夢を使えるようになったのに。
せっかくここまで逃げてきたのに。
あの塀を越えれば外の世界へ出られるというのに。
私が出てきた程度で諦めてしまうのでしょう?
立ち上がろうという気概がないのよ。夢なんていう万能の道具を手に入れておいてそれなのだから、底が知れているというものね」
はあ、と酒匂は短いため息を吐いた。明らかに馬鹿にするような態度で。
そして、つらつらと侮辱を語り続ける彼女をじっと見つめていた囚人たちの態度に、ついに変化が出始める。
――――彼らの額には青筋が浮き、目はらんらんと血走り始めて。
「出たいのでしょう? 逃げたいのでしょう?
こんな場所に居続けるなんて気が狂いそうなのでしょう?
だったらなぜ、全てを賭けて死ぬ気で来ないのかしら。どうせ失うものなんてなにもない。命すら、願えば戻ってくるというのに。
つまらないわね、あなたたちは。人として、一個の生命としてこれほど面白みのない屑も珍しいわ。
――――ねえ聞くけれど、生きていて恥ずかしくはないのかしら?」
酒匂が放った最後の一言が引き金となり。
――――――――囚人たちの感情が、一気に爆発する。
「テメエふざけんじゃねえぞ!」「うるせえんだよクソボケがぁ!」「さっきから聞いてりゃ、好き勝手言ってんじゃねえぞこのアバズレ!!!」
口々に罵詈雑言を放ちながら、囚人たちはその怒りを露わにする。
そして彼らはそれぞれに、殺気を込めた夢を具現し始め――――
ある者は翼を生やして飛び上がり、空に無数の魔方陣を描き。
ある者は無数の銃器を中空へ召喚し、その銃口全てを酒匂へと構え。
ある者は突如として見上げるほどの巨躯となり、岩石のような拳を握って。
静かな夜と黒い塀を背景に、妄想にあふれた光景が広がる。
それは奇妙で、現実離れしていて、馬鹿馬鹿しくて――――だというのに、確かな現実感とともにそこにあって。
驚きと怖気と、とにかくそれに類する全ての感情が掻き立てられる。
……これが。夢の世界。
――――夢ってのはこんなにも突飛で、無軌道で、無茶苦茶なのか。
「くたばれ、糞アマぁぁぁあ!!!!」
その暴言とともに、魔法陣から飛び出すのは火の玉と氷の槍の雨あられ。
同時に、無数の銃口から一斉に弾丸が吐き出されるけたたましい音が響いて。
さらに、上空から巨大な拳が、さながら隕石のように地面へと降ってきて。
あらゆる夢、あらゆる妄想が生み出すあらゆる殺意、あらゆる害意。
怒涛のように迫るそれらの狂気を酒匂は、ぴくりとも動かずに見つめ続け。
「――――これは、なに?」
呟いた彼女の後姿は、瞬く間に炎と氷弾の嵐に包まれ。
銃弾の雨がその炎を貫き、氷を砕き、砂埃を上げて。
それら全てを押し潰さんと、途轍もない大きさの巨拳が墜ちてきて。
――――瞬間、耳鳴り。
多数の殺意が織りなす轟音は飽和して、左右の鼓膜を暴れまわり。
――――なんだ、これ……。なにが、どうなったんだよ。
夢の世界ではなんでも叶う。
言葉では聞いていたし、理解もしていた。そのつもり、だった。
だが、だからといってここまでなんでも叶うと言うのか。あり得なさすぎる。突拍子が無さすぎる。
驚きと同時に、自分の認識の甘さを実感する。……なんでも叶う、は比喩ではなかった。本当だったんだ。
こんなにも軽々しく、こんなにも容易に。願ったものが現れてしまう。
そんなもの、そんな世界、在っていいのか、許されるのか。
俺は、俺は、そんなこと――――――
ふと見れば、土埃に突き立つ巨大な腕。ちろちろと庭園を焼く残り火。周囲に散る氷。薔薇に混じる硝煙の香り。……その惨状に、言葉が詰まる。
――――あんなもの、あれだけ喰らったら。
少なくとも無事ではいられないだろう。
完全に死んではしないのだろうが……何度かは、死んでいるに違いない。
そんな、明らかに前後の矛盾した予測を立ててしまうほどには、今の俺は平静を欠いていて。
だからだろう。俺は、つい数秒前に実感したことすら忘れていた。
つまりはそう――――なんでも叶う、は比喩ではない。
「――――やっぱり、つまらないわね」
凛とした声。退屈を露わにあくびを一つ。
背筋が凍る。怖気が奔る。まさか、そんなことが。
瞬間、一陣の風。ごう、という音とともに土煙が綺麗に晴れて。
――――そこには、人差し指一本で、巨拳を受け止めている酒匂の姿があった。
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