2-6 卒倒=献身
だれかが、泣いている。
俺の
顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくっている。
――――どうした?
そう言いたいのに、言えなくて。
――――そんなに泣くなって。
頭を撫でてやりたいのに、できなくて。
――――ああ、もう。顔、えらいことになってんぞ。
両手で抱きしめてやりたいのに、動かなくて。
なんでだろう。どうして俺はなにもできないんだろう。
不思議には思った。けれど、その理由を無理に思い出そうとは感じなかった。
無意識に、思考に鍵を掛けていたんだ。何重にも、何重にも。
知ってはいけない。
気付いてはいけない。
思い出してはいけない。――――今は、まだ。
◇
気が付けば俺は、独房のベッドの上で天井の模様を眺めていて。
――――……寝てた、のか。
いつの間に、とは思わなかった。
眠った瞬間の記憶は定かではないが、それを手繰り寄せたいとは感じない。
理由ははっきりしている。ただ、思い出したくないだけだ。
いつ眠ったのか。それを想起しようとすれば当然、あの光景をも同時に思い出さなければならず――――血の色がリフレインし、体を震わせたその時だった。
「大丈夫、ですか?」
優しげな口調のその声に、弾かれた様に上体を起こす。
声のした方に視線を遣れば、ベッド脇の椅子に座り、こちらの顔色を窺っている黒髪の少女――――柳の姿があった。
「少し、青ざめてますね。……気持ちを落ち着けて、深呼吸をしましょうか」
心配そうな表情を浮かべてそう言った柳は、俺の顔色を見るなりすっと手を握ってきた。……言われるがままに、吸って、吐く。
その間も、柳の細くしなやかな指は俺の手の甲を撫でていて。
さらさらとした感触と伝わってくる体温に、心がだんだんと落ち着いてくる。
こちらを見つめる柳の焦げ茶色の瞳は潤み、その視線からは気遣いが感じられた。
……ただ。
美少女に手を握られてじっと見つめられるという状況は、存外に恥ずかしいもので。……顔に赤が差していることを自覚しつつ、誤魔化すように咳払い。
「もう、大丈夫だ……落ち着いた、うん」
「そうですか? ならよかったですっ」
言いながら柳はすっと手を離し、胸の前でぱん、と軽く柏手を叩いた。
逃げていった温かみと柔らかさをほんの少し惜しく思い。
そんなことを思う自分を恥ずかしく感じる……その一方で。
そういった具合の事を考えられているということは、心に余裕が出てきた証でもあって。少なくとも、自分から例のことを思い出そうという気は完全に失せていた。
……こう言い表すのはなんだが、恐らく俺は柳に慰められ、癒されたのだろう。
彼女のやさしさをありがたく思う
「それにしても」と柳は少し真面目な声音になって。
「こちらに残らせて貰っててよかったです。要太郎さんはまだ心身ともに健康とは言えない状態ですから、ある程度のアフターケアはやっぱり必要になってきます。
それに、『第二監獄』はその……とっても特殊、ですし」
それ以上は推して知るべし、か。……それはそれとして。
言いづらそうに言葉を濁す柳に、なにやら申し訳ない気持ちが湧き上がってきて。
……三日もの間看病をしてもらった上に、ここまで気を遣わせてしまうとは。
「悪い、いろいろ手間かけさせてる」言って、頭を下げると。
「いえいえ、とんでもないですっ。『市街』の人たちの心身の健康を守るのがわたしたち医療局のお仕事ですから。どうか、お気になさらず」
そうぺこりと返された一礼は、さっき下げた俺の頭の位置よりもずっと深くて。
それに対してさらに恐縮してしまった俺は、なんとか彼女の気を揉ませまいと言葉をひねり出す。
「いや、こっちが無理しなければそもそも三日も面倒かけなくて済んだわけだし、柳さんまでこんな場所に残る必要も無かった。そう考えると、俺が悪いことに変わりはないよ。ごめん」
しかしながら、柳の善人ぶりというかフォローっぷりは俺の想像以上で。
「いえ、あのっ、そんなことはっ。元はと言えばあの幽霊さんの妙ちくりんなチュートリアルが全部の原因ですし! ってことはハルシオン行政府全体の責任でもあったりしますし! だからわたしがお世話をするのは至極当然と言いますかっ。
なんにせよですね、要太郎さんは悪くないですよ、全然っ」
そこからしばらくの間、「俺が悪い」「いやわたしたちが」というループ問答を繰り広げたのだが……お互いどうにも譲れないラインで主張がぶつかり合ってしまっていたらしく。
ふたりともがやや息を乱しながら、しばらくの沈黙があり。そして。
「……ここは、責任半々ってことで手を打たないか」と、提案すると。
「そう、ですね。このまま言い合ってても仕方ないです。……でも、こちらが50というはちょっと少なすぎる気もしますけど」
と、柳。後半のつぶやきはもう聞こえないふりをすることにした。
咳払い一つ、「じゃあ、この話はこれで終わりってことで」と俺は強引に話を切り上げたところで、柳がまた別の話を切り出した。
「えっと、それでは……気を取り直して、ですけど。
要太郎さん、今はもう少し眠っててください。
できればわたしの夢で疲労を取ってあげたいところなんですけど……なぜか、要太郎さんには夢の効きが悪いみたいなので。
今はとにかく眠って、体力と気力を回復させることが先決ですっ」
ぐっ、と小さくガッツポーズをする柳に、俺はげんなりと眉尻を下げる。
「……俺、ついさっきまで寝てたんだけど」
「それでも、寝てください。先ほどまでの睡眠はその……ショックによるもの、というのが大きいので。むしろ気絶に近い状態だった、とも聞いてますし。
とにかく、時間帯的にももう夜半ですから、きっちりと寝てください。
……要太郎さん、気付けていないだけで相当疲労がたまってるんですよ? だからきっと、ご自分が思ってるよりずっとぐっすり眠れます」
ゆったりと丁寧に話す柳の口調に、心が落ち着いていくのがわかって。
なんとなく、悟る。……柳は純粋だ。本当の意味で混じり気が無い。
心配の言葉に、なんの含意も感じられないのだ。ただただ口に出した通り、俺のことを気遣っているだけ。
だからだろう。「わかった。なら、寝ることにするよ」と、素直に頷けるのは。
俺の言葉に「はい、それではおやすみなさい」と穏やかに笑む柳の表情からは、優しさと思いやりだけが純粋に感じられて。
すると、長い黒髪がさらりとなびいて、柳がこちらを振り返る。烏の濡れ羽色の中で際立つ、白のヘアピンが目に入った。
「あ、それとですね」と彼女は口を開いて。「わたし、諸事情でしばらく『第二監獄』に留まることになったんです。
というわけで、ここまで来たら乗り掛かった舟ですから、一日に最低一回は様子を見に来るようにします。なにかあったら、遠慮なく言ってくださいね?」
そう言って今度こそ、柳は独房を後にする。
ばたり、と鉄扉の閉まる音が響いたと同時に、独房を包んでいた温かくて柔らかい雰囲気もすっと冷めていった気がして。
――――もう少し、話したかった気もするな。
などと思ってしまったことがどうにも恥ずかしくなり、首をぶんぶんと横に振る。
――――……なにをこっぱずかしいことを考えているんだ、俺は。
やはり柳の言う通り、思いのほか疲れているのだろう。そうに違いない。
無理やりに結論を出した俺は、はあ、とため息を一つ吐いて。
「…………寝るか」
ベッドに体を預け、目を閉じた。
それからしばらくは特に理由も無く……重ねて言うが特に理由も無く、悶々と考え事をしてしまっていた。
しかしそれも、時が経つにつれて思考がぼんやりと霞んでいくと、なにを考えていたかが自然とあやふやになっていって。
ゆったりと訪れた睡魔に身を任せて、意識が閉じていく。
そのふわりとした感覚を味わいながら、俺は穏やかな眠りに就いた。
……の、だが。
「……オハヨーゴザイマースぅ」
その、どこか聞き覚えのあるふざけ切ったウィスパーボイスを聴いた瞬間。
――――ぷちん、と。あるいはぶつっ、と。苛立ちがこみ上げて。
穏やかな眠気はどこへやら、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
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