2-2 マジョリティ=強制力





「どこまで、覚えてますか?」


 気遣うような声色で問いかける柳に俺は、しばらく考えて。


「一応、大体は覚えてる……と、思う。刺された後は視界がかすんであんまり周りが見えてなかったけど」


 全てを明確に、とまではいかないが、記憶そのものはしっかりと残っている。

 ……ナイフで刺されて、うずくまって。

 意識が朦朧もうろうとしている中で、あの血塗れの男の叫び声を聞いて。気が付けば、男は死んでいて。そして――――


 そうだ、『法典』。フェノが「『法典』が出張ってきた」と言っていた。

 その直後に、体が急に浮き上がって、動かせなくなって。同時にかすかに見えた白いシルエットの女に、違反者がどうのと告げられたのを覚えている。人殺しがどうこう、とも言っていたか。

 そして、最終的に俺は黒いパーカーの男に……殺された。


 起こった出来事を整理してみて改めて思う。

 あらゆることが規格外で、最早俺の思考力や知識では事態を呑み込むことができそうもない。全てが疑問。全てが理解できなかった。


 ――――ただ、そんな中でたったひとつ。

 なによりも知りたい、と強烈な意欲が湧いてくる疑問がたったひとつだけあって。


「……柳さん、質問いいか」


「ええ、なんでもどうぞ。なんでも聞いてください」


 こちらを落ち着かせるためか、穏やかな表情を浮かべている彼女に問う。

 その問いは、今俺の中に無数ある疑問のうち、最も核心に位置しているものだった。




「――――『法典』って、なんなんだ」




 俺を『人殺し』だと断じたなんらかの存在。

 その正体を知りたかった。なんとしても。それは恐らく、俺がなぜこの世界に来たのかというそもそもの理由に深く繋がっているもので。


「文字通りですよ。夢の世界の法の典籍。わたしたちが守らなければならないルールを司っているものです。……少し説明が長くなりますけど、いいですか?」


 言われ、深くうなづく。

 すると柳は、少しだけ言葉を選ぶような間を置いてから、ゆっくりと語り出した。


「夢の世界はとても自由です。ここではなんでもできます、なんでも叶います。

 けれど、人のあらゆる願いが無秩序に叶ってしまって、欲望が溢れかえってしまったらどうなるか。要太郎さんは想像できますか?」


「……簡単にはイメージできないけど、ろくでもないことになるのは確かだろうな」


「ええ、間違っていません。実際、『市街』もんですよ」


 そう言う彼女の言葉尻には、悲しい経験の色が浮いていて。

 焦げ茶色の瞳をすっと伏せ、柳は続きを語っていく。


「日夜あらゆるものが壊れ、奪われ、失われていたんです。モラルなんてどこにもなかった。人殺しや性犯罪なんて日常茶飯事でした。

 見た目には綺麗な都市の姿を保ってましたけど、それはどこかの誰かが『元に戻れ』と願ったからに過ぎません。

 最終的に元に戻せるのだからなにをやってもいい。どんなことを起こしても構わないだろう、と。そういう身勝手な主張が平然とまかり通っていたんです」


 酷い状況だ。そう感じると同時に、ああ、そうなるだろうなという納得もあった。

 人は簡単に自分の欲望をコントロールできない。なんでもやっていいと言われて、それ以前の生活の通りに生きる奴なんていないだろう。

 その羽目の外し方が、極端に腐っている。中にはそういった人間もいて当然だ。


「そんな惨状に、ひとりの少女が歯止めをかけました。

 こんな世界は間違ってる、だから正さなければならない。彼女はその願望たったひとつで、人の過ちを強制的に裁くシステムを創り上げたんです」


「……それが、『法典』?」


 柳はこくり、と静かに首肯しゅこうして。


「わたしたちは、人殺しが悪であることを知っています。望まれないこと、忌避きひすべきことだと理解しているし、誰かに殺されるなんて嫌だとも思っている。それは人殺し当人であっても同じです。

 モラルに欠けた人はいても、モラルを全く持たない人はいない。『法典』はその誰もが持っているモラルを明文化することで、んです」


 願い。その言葉に勘が働く。――――そうか、か。

 同時に頭が回り出す。語りを続ける柳の声を聴きながら、今まで聞いた『法典』に関する情報の断片が、かちりかちりと音を立てながら思考の枠にはまっていく。


「誰かに殺されたくなんてないと強く願う。だから死なない。それが普通の夢の働きです。自分にしか効果が表れない。でも『法典』は違います。つまり――――」


「誰かに殺されたくなんてないとが願っている。だから。反すれば拘束する、罰を下す、ってことか。……なるほど、よくできてるもんだな」


 そう俺が漏らすと、柳はその綺麗な瞳をぱちくりとさせ「……その通りです。知っていたんですか?」と驚きながら問うてきて。俺はそれに、首を横に二度ほど振って答えた。

 

「なんとなくそうじゃないかと思っただけだよ。……にしても、中々理に適った造りだ。

 人間誰しもが持ってる、あるいは教え込まれてる道徳心を明文化しておおやけに示す。そうすることでモラルを意識させて、願いとしての強度を上げてるわけか。

 それでも個々の願いはさほど強くはならないだろうけど……重要なのは数だ。システムの構造上、影響下にいる人間が多ければ多いだけ『法典』の強制力は強まっていくことになる。『市街』の人間がどれだけいるのかにもよるけど、その力はきっと半端じゃない。

 そうすると後は単純な話になる。


「……驚きました。わたし、そこまで深く話したつもりはなかったんですけど」


 そう言って目を見張る柳の反応が大げさに見えて、俺は苦笑う。


「たまたま予想が当たっただけだろ。そこまで大したことじゃない」


「いえ、そんなことはないと思います。わたしも行政府の人間として、夢の世界に来たばかりの人と何人も会ってますけど……ここまで理解の早い人はなかなかいませんよ」


 その心から感心したような口ぶりと目線に思わず、照れが入ってきてしまう。

 熱を持ちつつある己の頬を自覚しつつ、それを誤魔化すために「説明、続けてもらっていいか」と少しばかり早口で言うと、柳は「ああ、そうですね」と返し。


「人のモラルをしろとして、罪を犯した人間に罰を与えるシステム。この『法典』の存在が、現在の『市街』の秩序と平穏に繋がっているんです。

 今や『法典』は、人々の心の支えと言っても過言ではありません。昔の『市街』を知っている人にとっては特に、です。……あの時代の酷さを、身をもって体験していますから」


 最後に少し語気を沈ませて、柳は静かに語り終える。

 ――――なるほど、大体は彼女の説明で理解できた。となれば後は事実確認だが。


「その『法典』が誤った判断をする、なんてことは」


「……あり得ません。人として正しくあれという願いから創造されたモノが、まさか間違いを犯すはずもありませんから。なにより、そんなことは


「だからそんなこと誤審は起きるはずもない。……とすると、だ」


 柳の語った全てのことを真実として受け入れるなら、という注釈が付くが――――


って言うのは、紛れもない事実なんだな」


「……そう、なりますね」


 言いにくそうに告げた柳は、こちらから目を逸らす。


「事の仔細は、あの幽霊さんから聞いています。……要太郎さん自身がなにかをしたという風には見えなかったそうです。相手の方が勝手に死んでいった、と。

 だから、なぜ『法典』が要太郎さんを第一律の違反者と断じたのか、こちらとしてもまだわかってないんです」


「そうか。まあ、わからないものは仕方ない」


「すみません、お力になれず……」


 言って柳は、申し訳なさそうに頭を下げる。

 彼女にとって後ろ暗いことなどなにもないはずなんだが……柳自身の性根か。陳腐な言い方になるが、彼女は優しいのだろう。


「別に柳さんが謝ることじゃないだろ」


 そうフォローを入れてみるも「いえ。調査不足なのは事実ですので……」と彼女は目を伏せて。

 ……まあ、善人なのはいいことだが。少し気にし過ぎな感は否めない。

 目線を沈ませていく柳の気を逸らす意味も込めて、「それより」と気持ち強めに彼女へと声を掛ける。


「もう少しだけ、話を聞きたい」


 これは事実だった。まだ聞きたいことがある。

 先ほど柳が語った『法典』の話について、掘り下げなければならない点があった。


「柳さんはさっき、『法典』はひとりの少女が創り上げたって言ったけど。……その子のことを教えてほしい」


 俺がそう告げると、柳さんははっとした様子で視線をこちらへと向けた。

 その瞳には、なにかを察しているような気配があって。


「彼女は……とても正義感の強い子です。

 少し意地っ張りなところもありますけど、その分芯が通っていて。

 本当に、強い子なんです。だから彼女は、『市街』の頂点に立っていられるんだと思います」


 彼女はゆっくりと語っていく。ひとつひとつ、言葉を選ぶように。そして――――


「『法典』の持ち主であり、ハルシオン行政府主席。

 彼女の名前は―――――




 ――――弥代やしろ、カナメさんといいます」



 

 瞬間、ああ、やはりかと得心して。同時に喜びと覚悟が溢れ出す。

 そうか、やっぱりか。やっぱりあいつか――――。俺は、俺の選択は、間違ってなんていなかった。

 湧き上がる感情を確かめるように、拳を握っていたその時だった。


「要太郎さん。ぶしつけな質問なのかもしれませんけど、もしかして……」


 恐る恐る問われて。俺は迷いなく答える。






「ああ。――――カナメは俺の妹だよ。

 俺は、あいつを助けるために、ここに来た」






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