1-ex ハルシオン行政府:執務室





 世は全て事も無く。いつも通りに。


 ガラスに触れた指先から、ひやりと体温が抜けていく。

 窓の向こうの空は晴れ。漂う雲は少なく、穏やかな様相の天気。

 視線を下げれば、乱立した高層ビルの数々。視界は一面、近代的な街並みで。


 いつまで経っても変わらない。

 絵に描いたような晴れ模様も、高層ビル群を真上から見下ろすこの感覚も。

 初めこそは新鮮な驚きがあったけれど、今となってはそれらも単なる日常の一部でしかなく。

 守るべきものを守る。かつては言葉に出さなければならなかったその覚悟も、いつしか自分自身の精神に馴染み、溶け込み、気付けば心身の一部となっていて。


 要するに、世は全て事も無く。いつも通りに。

 なにごとも無く毎日が刻々と過ぎていけば、それはきっと幸せなことで。


 だから、そう。

 わざわざ改めて『いつも通りに』と思わなければならないということはつまり、ということであって。


 ふと、ガラスに薄く映る自分の姿に気付く。


 元々癖の強い栗毛が今日は、輪をかけて撥ねている気がした。肩まで掛かる長めの髪は、無駄にボリュームが増えている。目はどこか虚ろで、肌も青白い。表情に影が差しているように見えた。


 権威の証であるはずの白のロングコートが今は、病衣かなにかにしか見えなかった。背丈の小ささもあってか、その姿はさながら子供の入院患者みたいで。


 ……なんて酷い顔。酷い姿。


 自嘲気味に笑うその表情すらも、見れたものではなくて。

 思わず窓から目を伏せ、体を離した。ため息交じりに振り返れば、そこには誰もいない執務室が広がっていて。

 

 黒革張りの豪奢ごうしゃなリクライニングチェア、その背もたれにふわりと片手を掛ける。嫌に大きな木製執務デスクの上には、多様な資料が雑然と置かれていて。

 デスクの奥に広がる応接スペースは、十人程度の小会議なら十分に対応できる。それはつまり、部屋にひとりでいるときには静けさを嫌に増幅する働きしかしない、ということであり。

 ただ、いつもは寂しさを感じる執務室のその静寂が、今はありがたかった。


 ……憔悴しょうすいした頭で考える。

 今、夢の世界でなにが起こっているのかを。


 大半の人間はその異変に気付いてすらいない。

 一握り、その異常に気付きかけている人間も存在はしているけれど。

 ……恐らく、私以上に現状に対して危惧を抱いている人間はいない。


 なぜ、どうして、一体なにが。そして――――なんで、


 丸二晩以上考え続けて、でもその答えは一向に出なくて。

 きっと今の段階では確たる答えを導き出せないのだろうと、わかっていても思考を止められない。平静でないことを自覚していても、頭からそのことが離れなかった。


 だから、突然目の前から響いたその声は、内心鬱陶うっとうしかったものの、結果的にはひとつの助け船になったのかもしれなかった。


「ハァーイ、カナメ? 調子はいかがかな?」


 静けさに満ちていた執務室に、調子の外れた馬鹿みたいに明るい声が響いた。

 そして彼女はなにもない中空から突然、かつ当然のように現れる。

 見慣れたベレーとオーバーオールに、紫色のド派手な髪。――――出歯亀幽霊フェノはいつもと変わらず、にやにやといやらしい笑みを浮かべていて。


「ねえねえ、いいかげん今どーゆーことになってんのか説明してほしいなあ? あの日からボクってば例の彼が気になっちゃって気になっちゃって夜も朝も昼もぜーんぜん眠れないんだよぅ? ねえってばねえねえ、どう責任取ってくれるの? っていうか責任の取り方は一択なんだけどね? っていうか聞いてる? 聞いてる? 聞いてる? 聞いてる? 教えて? 教えて? 教えて? 教えて?」


 挨拶もそこそこに、フェノは矢継ぎ早に疑問をぶつけてきた。

 ネタは当然、例の件。知りたがりの覗き魔幽霊が、自分のあずかり知らない出来事をそのままにしておくなんてありえない。

 ましてフェノは、あれを直接見ている。いつものミーハーに拍車がかかるのも当然と言える。それは理解できるんだけど。


 ――――いい加減しつこい。もうこれで何回目よ?

 わざとらしくため息を吐き、辟易へきえきとしながら私は、あたりをふらふらと飛び回るフェノに定型通りの答えを返す。


「前にも言った通り、あんたが知ってること以上のことは私も知らないって。

 私の『法典』はほぼ自律型、『律法』は成立以後のコントロールが全然効かない。あんたも知ってるでしょ?」


「そりゃモチロン、当然、オフコース。それに、キミのイドルムがいかに強力で

絶大かということもしっかり把握しておりまするよん? ていうか誰だって知ってるよ、『法典』の公正さはだ。あれは。それがわかってるから今困ってるんじゃないか。

 ――――なんで『法典』はヨータローを有罪と見なしたのか。それがもう気になって気になって夜も朝も昼もぜんぜん眠れないんだよぅ!」


「うるさいわね、それはもう聞いたわよ。……気になるのなら自分でいろいろ調べればいいじゃない。足使ってこそこそ嗅ぎまわるのはあんたの得意分野でしょ?」


「そんなの言われなくったって行ってるよん? なんだかんだ初日からずうっとヨータローのことストーカーしっぱなしだし? それでわかんないんだからキミに聞いてんだよねえ? つーかそもそもまだヨータロー起きてないんだから本人にも聞きようないんですけど? そこんとこお分かりですかカナメちゃん?」


「知ってるわよ。向こうでの仔細は英美里から逐一報告を貰ってるから」


「うげ、あの似非ナイチンゲールぅ? フェノちゃんあの子きらーい! あの全力カマトト看護師もどきってば、ボクのことやたら除け者にしようとすんだもん。うわ、思い出したらフェノちゃん激おこ状態になってきちゃった。ていうか聞いてよ聞いてよカナメってば! あの子、こないだだって――――」


「愚痴を言いに来たんだったら後にして。……来客よ」


 フェノがぐだぐだと話している間に、テレパシーで連絡が入っていた。『今しがた府庁に到着したから迎えに来い』、と。

 ……一応私、あの子より立場上なんだけど。いやまあ、迎えの人間は行かせてあるけどね。根っからのハイソ思考は相変わらず、ってことか。


「来客? 誰誰誰? いったいどこのどちらさま?」


 興味深げに反応を示したフェノに「さえ」と一言で答えを返すと。


「……うっげ、サエっちかぁ」と顔をしかめて、紫の毛先を弄い始めた。「あの子もあの子で苦手なんだよねぇ。似非ナイチンよかマシだけど」


「そう思うんならさっさと退散したらどう? どうせ第二監獄にも無断で忍び込んでるんでしょ? ちょっとでもボロ出したらすぐ勘付かれるわよ。それに――――」


「サエっちが来るならリリネコちゃんもいるってことね。……はあ、あのネコちゃんは嫌いじゃないんだけどダントツに厄介だからねー、見つかるのは出来れば避けたいんだよなぁ」


「リリアンもあんたに厄介者扱いされるのは心外だと思うけどね」


「なに言ってるのさ、ボクとリリネコちゃんってばビビるくらい同類だからね? 考え方とか精神構造とかマジにガチにそっくりさんだから。違いって言えば見境なしなのか一筋なのかってとこだけ。なんたって見た目が格別キューティーなのも共通だしぃ♪」


「……もうすぐ来るわよ」


 いい加減相手をするのが面倒になってきたので、冴の到着を口実にさっさと出払ってもらうことにする。


「いやん、いけずぅ♪ フェノちゃんもうちょっと喋りたいのにぃ♪」と身をくねらせながらふわふわと浮くフェノの姿に舌打ちをかますも、彼女はそれを平気な顔でスルーしてまたベラベラと喋り始める。


「つーか聞きたいことまともに聞けてないじゃん? これもしかしてもしかしなくても無駄足あんど無駄足ぃ? うわーフェノちゃんテンションダダ下がりぃー。

 まあでも? 実際のとこカナメちゃんも大したこと知って無さそうだし? これ以上粘っても得るものナッシンだろうしねー。


 ていうかむしろカナメちゃん――――って顔してるしぃ?」


 その言葉に思わず反応してしまい、フェノを睨みつけようとして――――その時にはもう、紫髪の幽霊は目の前から完全に消え去っていた。


「……相変わらず、鬱陶しいわね」と、小さく呟けば。


『聞こえてるよーん?』とテレパシーが飛んできて。


「聞こえるように言ったのよ。いいからさっさとどっか行けっ」


『はいはいりょうかーい、つーか言われなくれもそうするしぃ?』


 今度こそ本当に、気配ごとフェノは消え去った。

 もうこの部屋に彼女はいない。今頃は第二監獄の方でせわしなく諸々を嗅ぎまわっていることだろう。

 やっと執務室が静かになった……と、胸をなでおろした直後だった。

 こんこん、と。部屋の扉を叩く音がして。


「主席、お客様がお見えです」と、府庁の職員の声がして。


「…………通して」


 ――――間髪入れずに、か。どうやら、一息を吐く暇もないらしい。

 内心うんざりとしながら、部屋の入口に視線を遣る。ダークブラウンのドアがきい、と微かに音を上げて開いた。


 現れたのは、白金色の髪と碧眼が特徴的な、眉目秀麗の少女。

 微笑みを浮かべたその相貌からは、わずかに欧州の血が感じられる。左のうなじから胸元へ、体のラインに沿うように流れるプラチナカラーのサイドテールが目を引いた。


 いつ見ても嫌味なくらいに美人な彼女は、服装の趣味がやや独特だ。

 黒薔薇を模ったシュシュに、フリルに溢れた白いブラウス。その上には装飾過多な黒のロングジャケットを羽織っている。チュールレースのスカートもヒールの高いレザーブーツも全て、漆黒でまとめられていた。


 いわゆるクラシカル・ゴシックとでも言うのか、中々に派手な衣装をまとったその少女は、執務室に入るなりきょろきょろと周囲を見渡して。


「あら? あのさかしらな幽霊さんの声が聞こえたと思ったのだけれど。……リリアン?」


 その呼びかけに「はい、冴様」と可愛らしい声で答えたのは、プラチナブロンドの彼女の傍に控えていた、小柄な少女。

 赤毛のショートボブとまんまるとした猫目はどこか活発な印象も抱かせるが、当人がまとっている冷静な空気がそれを帳消しにしている。

 黒のロングワンピースに真白いエプロンドレスといういかにもな服は、の趣味に合わせてのものだと聞いたことがあった。


「……周囲を窺う限り、それらしき気配は感じられません」


「そう、貴女がそう言うならそうなのでしょうね。……ありがとうリリアン」


 赤毛のメイド――――リリアンの報告に、穏やかにほほ笑んで返すゴシック女。

 中世モチーフのファンタジーかよ、と思わず指摘したくなる衝動をぐっとこらえて、私は彼女の前に歩み出る。

 そして、目を細めて口の端を吊り上げ、いやらしく鼻で嗤って。


「入るなり部屋の主を無視して勝手に詮索? 趣味が悪いわね、冴」


 と、直接的な嫌味をぶつける。……別に、本当にそう思ってるわけではない。

 こちらも一応立場ある身だから、失礼を働かれてそのままスルーするのは少々体裁が悪い。言ってみれば『舐められないように』というわけで。


 ……正直、こういうパワーゲームは面倒だから嫌いだ。

 現に今も、冴の後ろで控えているリリアンが親の仇でも見るような目でこちらを睨みつけていて。……ああいうのも相手しなきゃならないのは疲れる。


「リリアン、おやめなさい」


 微笑みの表情はそのままに、冴は幾分か鋭い口調でリリアンを制する。ややあって「申し訳ございません」と、ヘッドドレスが乗った赤毛の頭がぺこりと下がった。


 ……冴はずば抜けて勘が良い。ああいう場面で気を遣ってくれるのはありがたい限りだった。ただ、だからと言って仲良くやれるかどうかというのはまた別の問題で。


 柔らかく笑んだ表情を変えることなく、冴も深々と頭を下げる。


「礼をいっしてしまったわ。ごめんなさいね、カナメ。

 言い訳というつもりではないけれど、ここ数日監獄の警戒レベルを上げているの。……あまり良くない噂を耳にしたものだから。

 その関係であの幽霊さんにも、こちらにはあまり出入りしてほしくないのよ」


「だから、こっちに来たついでに忠告しておこう、と?」


「ええ、そういうこと。そもそも、いくら身内と言えど好き勝手に管轄を荒らされるのは気持ちのいいものではないわ。

 その旨、あの幽霊さんに伝えておいてくれるかしら?」


「……ええ。顔を見たら伝えておくわ」


 私の返答を聞いて、「よろしく頼むわね?」と優雅に笑む冴。

 あの笑顔に騙されてはいけない。……あれはただの「形」だ。能面と同じ。彼女の表情筋は単に基本形がああいう状態なだけ。そう思っておくのが最も安全。

 

 ――――絶対に気を許してはいけない。冴は決して

 彼女はハルシオンの関係者であっても、こちらの味方とは到底言い難いのだから。




「では、改めて。ごきげんようカナメ。壮健かしら?」




 ――――酒匂さこう冴。第二監獄看守長。

 彼女がわざわざ『市街』に訪れる時には大抵、ろくでもないことが起きている。

 それが、よりによってとは。……いや。今だからこそ、なのか。

 冴の能面のような微笑みに怖気を覚えつつも、私は密かに拳を強く握る。

 

 彼女の来訪も、が現れたことも、決して偶然ではないのだろう。

 なにかが起きる。絶対に。

 それがなんなのかは、全く予想が付かないけれど。

 でも、間違いなく。

 夢の世界にとって大きな変化が起こる。起こってしまう。


 ――――その確信だけが嫌に強く、私の心に根付いていた。




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