1章 エンカウントは突然に、あるいは夢の世界ではポピュラーな事象

1-1 おやすみ=おはよう




 朝。

 目を覚まして一番初めに、狭い洗面台で顔を洗う。

 鏡に映る顔はいつも通り目つきが悪い。栗毛のね具合もいつも通りだった。

 日課。習慣。特に意識することもなく、毎朝同じことを繰り返す。

 

 朝飯の用意は、顔を洗って目を覚ましてから。

 パントリーから買い置きの菓子パンひとつを適当に掴んで、小さいダイニングテーブルへ放り投げる。今日はクリームパンだった。

 食器棚からステンレスのタンブラーを引っ張り出し、その足で冷蔵庫へ。安物のパック牛乳を二、ペットボトル入りの微糖コーヒーを八の割合でタンブラーに注ぐ。


「いただきます」


 袋を破き、クリームパンを食べ始める。口が乾けばタンブラーのコーヒーをすする。味は普通だ。どちらも不味くはない。

 テレビは付けない。携帯電話も触らない。毎日のニュースは通学の電車の中で確認する癖が付いていた。なんだかんだ、その方が時間効率がいい。


「ごちそうさま」


 いつも通りの短い朝食を終え、静かな1Kの部屋にぼそぼそと声が沈む。

 早飯は悪い癖だと母さんに叱られたことがあるが、治すつもりはない。

 そもそも、だらだらと飯を食うのが性に合わない。無駄に時間を使うのが嫌いなのだ。慌ただしくならざるを得ない朝なんかは、特に。


 パンの袋をごみ箱に捨て、タンブラーを軽く洗う。

 朝飯を菓子パンにすると洗い物が少なくなる。面倒が省けるのは大きな利点だ。後片付けが楽になれば、その分朝に余裕ができる。


 黒のジャージから上下紺色の詰襟つめえり制服に着替え、身支度は万全。

 テーブル脇に置いてあった通学鞄を手に取って玄関へ。いつでも左腕に付けっぱなしのデジタル腕時計に目をやれば、時間には十分すぎるほど余裕がある。

 朝のリズムは変わらない。いつも通りの外出時間。

 学校指定のローファーを足に通す。ノブに手を掛け、がちゃりとドアを開けば。










 ――――――目の前には、一面の草原が広がっていた。










 ◇



 言葉を失う。目の前の光景を理解できない。

 鼻をくすぐる緑のにおい。風が草をでるざあざあという音。

 青い空には悠々ゆうゆうと雲が流れている。絵に描いたような晴れ模様。


 ……なんだ、これ。

 俺は今、アパートの自分の部屋の玄関を開けて、外に出たはずだ。

 いの一番に見えるのは廊下の鉄柵と見慣れた街並み。そうでなければおかしい。

 それに、俺の部屋は三階にある。いきなり草の生えた地面に出るなんて絶対にありえない。


 そもそも、なんなんだこの草原。 

 見渡す限りどこまでも、草の揺れている風景だけが広がっている。遠い地平の彼方まで、ただの野原が続いている。

 せわしなく視線を周囲に向ける。しかし光景は何も変わらない。

 緑、緑、緑。青、青、青。草原と空。どこを見ても同じ。前も右も左も後ろも――――――。


 待て、なんでだ。なんでにも草原が広がってる?


 俺はついさっき玄関のドアから出てきたはずだろう。

 だったら少なくとも俺の背後には見慣れた扉が無ければおかしい。

 なんなんだ、なんなんだこれは。なにが起きてる、どうなってる。


 ――――そして、は恐らく。俺の抱いた戸惑いの原因を全て知っていて。

 だからこそ初めて聞いたその甲高い声は、あらゆる意味で随分と上から降ってきた。


「あはは、驚いてるね? とても驚いてるね? いやあ分かる、分かるよその気持ち」


 弾かれた様に上を見上げる。

 当然だった、なにせその声は俺のから響いたのだから。

 そして目にする。中空に舞うその少女を。

 端正な、しかし幼さの残る丸い顔立ち。円らな瞳。均整の取れた容姿。なのにどこかがゆがんでいる。なにかが決定的にズレている。そんな雰囲気をまとった少女。

 紫色の奇抜きばつな髪とベレー帽、オーバーオールが目を引く彼女は、奇妙なことに宙をくるくると浮きながら、にやにやとした表情で、矢継やつばやに俺に言葉を放ってきた。


「ここはどこ? なにが起きてる? なんで俺はここにいる? って。そういう驚き方してるね? そうだよね? そして出来ればそれについてはっきりとした答えが欲しいとも思ってるね?

 アタリ? アタリだよね? アタリに決まってるよね? なんたってボクはキミみたいな表情を浮かべた人を死ぬほどたくさん見てきたからね♪

 そりゃあわかるよ、わかるともさ、わからいでか! ボクはキミみたいな人たちのために活動しているといっても過言ではないからね!

 おっとっと、名乗るのが遅れてるね、失敬失敬、これは大失敗だなあ。

 というわけで自己紹介ね。ボクはフェノ。夢の世界のガイド役、水先案内人というやつさ♪ ここに来たばかりのずぶずぶの新米ニュービーであるキミの補助輪となるべく馳せ参じた、まあ言ってみればチュートリアルのお助けキャラみたいな存在だね。キミが自力で夢の世界をサイクリングできるようになるまではそれこそ地縛霊のように付き従ってあげる所存なのでどうぞよろしくよろしくどうぞ?」


「なっ、え……は?」


「なんだよなんだよノリ悪いなあ、ついでに礼儀も欠けちゃってるときたもんだ。名乗られたなら名乗り返す。これ万国共通の常識じゃない? お互いの名前を交換し合うのが友好的コミュニケーションの第一歩だとボクは思うんだけどその辺どうなの? それともあれ? 他人に軽々しく名前教えちゃいけないタイプの宗教の人? いみなとかそういう感じのサムシング? だったら仕方ないけどせめて呼び名とか通称とかあだ名とかでいいから教えてほしいなってボクは切実に思いますです、ハイ♪」


 などと、俺の周りをびゅんびゅんと飛び回りながらのべつまくなしにとてつもない勢いでまくし立ててくる紫髪の少女。

 その喋りに圧され、言葉に詰まりながらも「や、弥代やしろ」となんとか名乗り返せば。

 

「――――――――――――」


 ぴたり、と。まるでバグでフリーズしたみたいに。

 フェノと名乗った彼女はにやけ顔のままに動きを止め、突然に黙った。

 そして、なんだろう、と思う間もなく再起動。先の気味の悪い沈黙など初めから無かったかのように、少女は変わらぬにやけ顔で、あっちそっちに宙を舞い始め。

 

「できれば下の名前も教えてほしいな? これから嫌でも一緒に居続ける仲になるわけだし、どうせならフレンドリーに行きたいじゃない? というかボクのフェノって名前一応フルネーム扱いなんだよね。これしか名前持ってないから。だから等価交換って意味で君の名前も全部知りたいなって思うんだよね? というわけでぷりーずてるみーゆあふぁーすとねーむ!」


「……要太郎」


「なるほどヨータローか! 中々に古風な響きの名前だね? 書けても読めない妙な当て字のキラキラネームが爆流行りしてる今日びにそんなトラディショナルなファーストネームも珍しいよね? 珍しくない?

 まあともあれヨータロー。現状よくわかってないだろうけど、キミはこの世界を訪れることが出来たという時点でとってもとっても幸運な人のうちの一人にカウントされちゃっているわけさ。てなことで、わからないことやら戸惑いは脇に置いておいて、とりあえずはボクからの祝福の言葉を受け取ってほしいなと思うんだよ」


 と、その祝福とやらを俺が受け取るかどうかの返答を待つ様子など見せず。

 紫髪の少女は右手でベレー帽を抑えながら、さかさまになって俺の目の前の中空にぴたりと止まって。

 満面のわらいを浮かべながら、とてもたのしげに言った。







「ようこそ、夢の世界へ。心の底から歓迎するよ、弥代要太郎」






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