第30話 赤き髪の乙女、出立
厄介ごと。エルゼは脳内で反芻した。
オスカーと出会ってからまだ数日しか経過していないが、色々あったものだ。
ネーベルの森で出会い、シュルトに襲われる彼を助けた。彼の帰還方法を探るため書庫に籠り、クローデンでは未知の怪物と戦うことになり――エルゼは力及ばず死にかけた。
そう、死ぬところだったのだ。今エルゼがこうしているのは、あの巨大魚をオスカーが倒したから。
クローデンからマッセルに帰還した後、トビアスと共にリヒャルトへ報告したが、オスカーが何をしたのかは結局分からずじまいだった。
それでも、あの亡骸を見たら尋常でない何かがあったことは確かだ。
オスカーには何かある。
それが自分たちの結論だった。
彼に関わり続けたら、そう言うことが今後も起こり得る。それ以上のことだってあるかもしれない。少女はそう言いたいのだろうか。
でも、とエルゼは思う。
たった一人、見知らぬ世界にやって来てひどく慌てたような彼。それでも、何とかして帰ろうと一緒に書庫へ籠ったり、短い旅をしたり。
こう言っては不謹慎だろうが、楽しかった。
この数年、鬱々とした気持ちを抱え、それでも現状を変えられない自分。すべてを捨てて、見知らぬ土地へ旅立つことを夢見たこともあった。
それでも、自分は
そんな中で彼に出会ったことは、一種の清涼剤のような物だったのかもしれない。
まだ数日しか一緒にいないけれど、彼の笑顔を見ると嬉しいし、泣き顔を見た時は胸が苦しくなった。
エルゼにも、これが何なのか分からない。
だけど、無事でいてほしい。戻ってきてほしい。いつか自らの世界に帰る日まで、力になりたい。
そう思う心に、偽りはないから。
エルゼは、少女を真っ直ぐに見つめた。
エルゼの心が伝わるように。エルゼの思いを伝えるために。
「確かに、彼については私の義務でもないですし、危ない橋を渡ることになるかもしれません。でも」
エルゼは一呼吸おいて、笑顔で宣言した。
「私は必ず、オスカーさんを連れ戻します。彼が帰るために力になるって、約束しましたから」
「……後悔するやもしれぬぞ?」
「私自身の決断です。後悔などしません」
少女は小さく笑って、頷いた。
「ならば、もう何も言わぬわ。ああ、そなたに少し頼みごとがあるのじゃが」
「なんですか?」
「わらわがここへ来たことは、内緒にしてたもれ」
少女は人差し指を口元で立て、しい、とジェスチャーした。
「勿論、知りえた情報は有意義に使ってもらってよいぞ。その情報源がわらわであると言う事は、誰にも言ってはならぬ」
「理由を聞いても?」
「知られたら面倒な相手がおっての。巡り巡ってそやつの耳に入ってはかなわぬ」
少女は心底嫌そうな顔で言った。
エルゼが了承すると、少女は満足気に笑った。
「それでは、もう行くとするかの」
少女は窓辺に近づくと、それを開け放った。
薄雲に覆われた月が優しい光を注ぎ、ふわりと吹き込む風が、二人の髪を踊らせる。
エルゼは少女の背に問いかけた。
「ねえ、あなたは誰なんですか? あなたばかり私の事を知ってるなんて、不公平ですよ」
少女は、「それもそうじゃな」と小さく笑い、エルゼに振り向いた。
慈愛に満ちたその顔は、先ほどまでの老獪な表情とも異なる。まるで小さい子を見る母のような顔だった。
「わらわはファリナセア。――
そう言った彼女は、幻のようにふ、と消えていった。
エルゼはしばらくそれを見つめていたが、夢から覚めたように我に返ると、開けられたままの窓を閉めた。
これからすることは決まっている。
エルゼは書庫を飛び出すと、兄の従者の元へ駆け出した。
***
「匿名、か。」
リヒャルトが呟いた。その背後では、トビアスが眉を顰めている。
「お嬢様、他ならぬ陛下がお尋ねなのです。言えないというのは……」
「分かっています。ですが言えません」
エルゼがキッパリと言うと、トビアスの眉間の皺が深くなる。
幼馴染と従者の様子を見て、リヒャルトは面白そうに言った。
「なるほど、私にも言えないか。――その人物は、お前から見て信用に足る存在か?」
「ええ。決して、嘘を吐いていないと思います」
「本当に?」
リヒャルトの瞳が煌めく。
もしも嘘なら許さない、そう言っているように思えた。
だが、エルゼは胸を張って言う。「信用できます」と。
エルゼの反応を見て、リヒャルトはクスクスと声を上げて笑った。
周りの人間が困惑気味に見つめるのにも構わず、リヒャルトは片手を上げて言った。
「分かった。お前がそこまで言うのなら私も信じよう」
「陛下、ですが」
トビアスが困惑したように言う。
「良い。――それで、ジャクロットならどのルートで行くつもりだ?」
「おそらく、彼らもいの一番に現在地を把握しようとするでしょう。エクラ=リラから最短でグランツィアに入るには、南東に進んで国境を越えるのが一番ですが」
「不可能だな」
リヒャルトは淡々と言った。
彼はトビアスに命じて地図を持ってこさせると、テーブルに広げた。
ジャクロット帝国の南東に位置するエクラ=リラは、グランツィアとの国境にほど近い街だ。そのため最短距離で進めばそれ程時間もかからずにグランツィアへ入国できる。
しかし、国交が遮断されている今、このルートは使えない。関所の兵士たちの目を盗むにしても、周囲には高い山々が連なり、それを越えねばならないのだ。あの二人では厳しいだろう。
「ならば、こちらでしょうか」
ゲオルグが地図に指を置いた。
彼の人差し指はエクラ=リラから南西に滑り、マグノリアと書かれた街を指した。
「マグノリアから南へ向かい、ミルシャ公国を経由してグランツィアへ。おそらく、フェリクス様もそうお考えになるでしょう」
「ああ、それが最良のルートだろうな」
リヒャルトが頷く。
そして「良いだろう」と呟くと、三人に向かって言った。
「残念ながら、わが国の兵士を差し向けることはできない。
「はい!」
「トビアス・ヒルデブラント」
「はい」
「ゲオルグ・デューリング」
「は!」
「お前たちに命ずる。ミルシャを経由してジャクロットに赴き、オスカー並びにフェリクス・フォン・シュトラールを保護しろ」
この国の最高権力者の下命を受け、3人はその眼前で跪く。
彼らの主に、誓いを立てるように。
「かしこまりました」
必ず、連れ戻すと。
「それでは、準備ですな。でき次第出立ということでよろしいでしょうか?」
トビアスは立ち上がり、自らの主に問いかけた。
リヒャルトは「残念だが」と前置きして言った。
「そう言ってやりたいところだが、もう中城門は閉まっている。私が命じて開けさせてもいいが、それでは何かがあったのだと民に動揺を与えてしまうだろう。少し体も休めて、門が開き次第出発してほしい」
「かしこまりました」
トビアスは優雅に一礼した。そしてエルゼとゲオルグに向き直ると、「お二人とも、一度伯爵邸へ戻られますかな?」と問いかけた。
「ええ、私たちも準備がありますし」
エルゼがゲオルグを見遣りながら言った。
「なんせ、急いでいたものですから。屋敷のものには登城するとしか言っていません。旅装も武具も、何も整っていませんから」
「確かに」
トビアスはエルゼとゲオルグの服装を見て言った。
「そのようですな」
そう。慌てて屋敷を飛び出した2人は、登城するには相応しくない平服だった。エルゼがいなければ、入り口で衛兵に止められるような、ラフな格好。
今更ながら自らの服装に気が付いたのか、ゲオルグが畏まってリヒャルトに一礼する。
「ご無礼を致しました。申し訳ありません」
「良い。お前としても、物言わぬ幼児の頃から世話をしている主が失踪したんだ。慌てるのも無理はない。公式の場でもないからな」
リヒャルトはそう言うと、騎士の無礼を許した。
ゲオルグは顔を上げると、「ありがとうございます」と寛大な処置に謝意を示した。
「申し訳ありませんが、疑問点が1つあるのですが」
「うん、なんだ?」
「その、オスカー様の世界、とはいったい何の話でしょう。彼は異国からやって来たのでは?」
そのもっともな疑問に、彼以外の3人の心は1つになった。
「しまった、説明するの忘れてた」と。
「つまり、オスカー様はアルトロディアの住人ではない、と?」
ゲオルグは痛む頭に手を当てて言った。
彼にとっては夢物語。それを目の前の彼らは信じているらしい。
そんなまさか、と思う一方、なるほどな、と納得する面もあった。
アルトロディアで知らない者はいないはずの家法術。それに対して信じられないほど無知だった。あの時はよほどの秘境で暮らしていたのだと思ったが……。秘境を通り越して異世界とは。
ゲオルグの表情をどう見たのか、エルゼが彼を諭すように言う。
「ゲオルグ。信じられないでしょうが、全て事実です」
「オスカーが嘘を言っていないことは、私が保証しよう」
エルゼに次いで、リヒャルトが言った。
ゲオルグは自らより上位の2人に相次いで諭され、「もちろん、疑っているわけでは」と慌てて言った。
「私が思っていたものより、斜め上を走る話でしたので……。少し、いやかなり驚きましたが」
「まあ、無理もないでしょうな」
トビアスが同情するように言った。
「私も最初は驚きました。まあ、陛下の仰ること。疑う余地はありませんでしたが」
「ですから、疑っておりません! 今思えば、腑に落ちる点も多々ありますのでね」
ゲオルグが弁解すると、リヒャルトは満足気に頷いた。
「お前の疑問は解消されたか? では、準備の時間だ。明朝8時にトビアスをシュトラール邸へ向かわせる。城門が開き次第、出立しろ」
「かしこまりました」
トビアスは恭しく一礼した。
そしてエルゼとゲオルグを振り返ると、ニコリと笑って言った。
「旅装の準備はお任せください。朝までにシュトラール邸へとお届けします」
「分かりました、任せます。……それでは、陛下」
「ああ、下がっていいぞ」
エルゼは退出の許可をもらい、ゲオルグを促して部屋を出た。
ゲオルグも、一礼してその後を追う。
トビアスも退出し、誰もいなくなった自室で、リヒャルトは深いため息を吐いた。
シンと静まり返る室内に、カツン、と何かが降り立つ音がする。
リヒャルトは眉を少し動かしただけで、音源に振り向こうともしない。
何故なら、正体が分かっているから。
「鍵を見失うなんて、君らしくない失態だねえ?」
からかうように言う男の声。高くもなければ低くもない、正に中庸をいくその声は、リヒャルトを一気に不機嫌にさせた。
その反応がおかしかったのか、ケタケタと声を上げて笑う
「今何時だと思っている? とっととねぐらへ帰ったらどうだ?」
「オレが何しようが自由だよ? 人間ごときに指図される謂れは無いなあ」
それはリヒャルトの目前までくると、口角を吊り上げて笑った。――ただし、その紅い瞳は虚無を見たまま。
リヒャルトは内心の恐れを決して表情に出さないまま、淡々と言った。
「鍵は必ず取り返す。ジャクロットなどに渡すものか」
「そうそう、もちろんだとも!」
腰まである金の髪を振り乱し、それはリヒャルトの背後に回った。
そして彼の肩に手を置くと、歌うような口ぶりで言った。
「キミがオレを信じるならば、運命はキミの思うがまま。――忘れないでおくれよ?」
***
朝、エルゼとゲオルグは、すっかり準備が整った様子でトビアスを出迎えた。
トビアスは2人を見ると、満足気に頷く。
「私の見立てに間違いは無かったようですな。よくお似合いです」
「ええ、ありがとうトビアス。とても動きやすいです」
エルゼはそう言うと、トビアスの装備を見た。
トビアスは黒を基調に、薄手のコートとブーツを履いた冒険者服だ。腰には、彼の愛剣であるレイピアが佩いてある。
エルゼは藍色の短い上着に、白と藍が基調となったワンピース。腰にはベルトを着けて、ショートソードを下げている。
その背後で旅道具を持ったゲオルグは、普段の黒の騎士服とは一転し、深い緑の身軽そうな服装。彼だけは登城時に使用するサーベルではなく、大剣を背負っている。ゲオルグ曰く、こちらの方が得意だという。
3人ともごく一般的な旅人という風体だ。
「――それでは、参りましょうか」
トビアスが促すと、エルゼは「ええ」と頷いた。
そしてトビアスとゲオルグを順に見遣ると、深く深呼吸した。
待っていてください、と心の中で彼らに語り掛ける。
「それでは、出立!」
エルゼの声に呼応するかのように、鳥たちが飛び立った。
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