第2話 VR
「そこのお兄さん、ちょっと、ちょっと」
声が、真っ直ぐに耳に届いた。野年祐正は振り返った。
夕方6時半の駅前である。茫洋とした光が、多くの影を作り、全てがぼんやりとした世界の中にいるみたいであった。その中を人々が行き交う。祐正もそのひとりだ。手にはくたびれたビジネスバッグ。よれたスーツは、少し臭った。立ち止まった祐正を人々は何事もなかったように避けて通っていく。妙に子どもじみた明るい音楽が大音量で鳴り響いていた。
「そこにいるお兄さん」
また声が耳に届いた。祐正は、キョロキョロと辺りを見回した。
「ここですよ」
どこか笑いを含んだ声だ。祐正の右側には、高架になった線路沿いに道が続いている。雑然と自転車やバイクが並んでいる道の反対側、キラリと何かが光った。ちょうど建物の影になって濃い闇が溜まっているところだ。
祐正は目を懲らす。
「そうです。ここです」
声は、その闇の中からであった。よく見ていると、その中からぼうっと浮かび上がってくるものがあった。まず白いシーツのようなものが見えた。それが小さな台の上に被さっているらしい。台の上には、幾つかモノが置かれている。その中のひとつがキラリと光った。
「水晶玉……?」
「ほう。ご存じですか?」
祐正の言葉に声が反応した。よく見るとつばのない帽子をかぶった人物がその台の後ろに座っているのがわかった。
祐正は、引き寄せられるように向かった。
白いシーツが掛かった台の上には、透明な玉が置かれている。その他はない。
「これは……占いかなにかの?」
祐正は、台の後ろでこちらをにこやかに見上げている人物に聞いた。
丸顔で、艶々とした笑顔は、どこか作り物めいた感じがする。年齢も不詳だ。若いといえば若くも見えるし、年とっているといえばそうも見える。
「いいえ。占いの水晶玉ではありません」
そう言うと、帽子の人物は水晶玉の反対側を祐正に向けた。そこには、大きく内側にえぐれていた。えぐれている部分は、きちんと研磨されて滑らかな曲線を描いている。
「これはVRです」
「VR?」
「ええ。そうです。ご存じありませんか?」
VRは、たしか仮想現実と呼ばれていて、コンピューター上にその場にいるような感覚を味わえる技術であったと記憶していた。
「素晴らしい」
祐正の答えに、丸顔の人物は、そう言って拍手をした。
「そうです。その仮想現実をこの装置で味わえるのです」
祐正は、驚いた。目の前にある透明な物体は、どこにも線が繋がっているようには見えないし、第一、機械には見えない。
「これが、VRの機械なのですか?」
信じられなかった。どこからどう見ても水晶玉がえぐれているだけにしか見えなかった。確か、ネットニュースで見たVRの機会は、黒くてゴツい暗視ゴーグルみたいであったはずだ。
「ふふふ。わたくしどもの提供するVRは、特別仕様でして外部からの刺激は必要としておりません」
外部からの刺激を必要としていない、とはいったいどういったことなのであろうか。
「付けてみればわかります」
男は、祐正の疑問を察したかのようにそう断言した。
祐正は、頷いた。男の妙な圧力みたいなモノにけをされた気がした。もっとも、祐正自身、この珍しい水晶のようなVRに好奇心があった。ゆっくりと手を伸ばす。
「痛っ!」
ちょうど指先が水晶のVRに触れようとしたときだ。思わず手を引っ込めた。指先を見つめる。暗がりの中ではよくわからないが、触った感じでは、とくに傷などにはなっていないようだ。
「静電気……?」
思わずそうこぼれるほどその痛みは針のようでいて、どことなく電気的な痛みと似通っていた。
祐正は、男を眺めた。男は無言のまま見つめ返している。こころなしか、作り物めいた笑顔が深くなった気がした。ゴクリと唾を飲み込む。もう止めて帰宅しようと思った。「帰ります」といって回れ右をすればいいんだ。そうしよう。
「えっ!?」
声を出していた。いつの間にか手を伸ばしていた。しかも両手だ。すでに包み込むように水晶のVRを持とうとしている。近づけば近づくほど手のひら全体を見えない羽虫が這っているような感覚がする。ビリビリとした感じとも違う。それでも手は止まらない。とうとう手が触れた。その時、ふたつのことが同時に起こった。
ひとつは、目の前に高速で何かがみえた。
全て鮮明なのに、まったく関連性のないイメージが、次々と頭の中に浮かんでは、そばから消えていった。スライドショーのようであった。
もうひとつは、水晶のVRを持った手が消えた。
正確には、水晶のVRに触れている部分、つまり手首より先が、触れた途端、同化したようになくなった。
驚愕する祐正をよそに、さらに驚くべきことが起こった。
水晶のVRと同化した手が、避けられないスピードで祐正の顔に向かってきた。そしてそのまま目の前に暗闇が広がった。
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