第5話
猪頭の男性が私を見下ろして、くちゃくちゃと口のものを食んでいる。
目を逸らし、足早にすれ違った。
猪は振り返ってしばらく私を見送って、やがて飽きたように前を向いた。肩越しにそれを確かめて息を吐く。
歩き出した足は止められない。
周りの背の高い人たちに、人間は誰一人としていなかった。牙が、爪が、大きい瞳が。異形のそれが私をじろりと確かめる。
怖い。
私、私は。
私は今、どこにいるの。
首を伸ばして周りを見る。知っている影はどこにもいない。知らない人影が歩く速度で揺れている。看板の意匠はなにが売っているのか分からない。
本当に、こんな遠くまで来なければ、シロップはひとつも売っていなかったの?
唐突に思い当たった。
ウルカさんを、シェナさんが嫌っていたことを。
おぞましい考えに心臓をぎゅっとつかまれた。
私は。
もしかして。
信じてはいけないひとを、信頼してしまったのでは。
泣きそうになった。心の中で叫んだ。乾ききった喉からは声なんて出ない。
どうしてどこにもいないの。
信じさせてよ。
助けて、誰か。ウルカさん。シェナさん。マスター。
ごめんなさい。
私、騙され
はっし、と腕をつかまれた。
「……なにしてる」
呼吸が止まった。
「マス、ター?」
猫の顔を驚きと不審に歪ませたマスターの青い瞳がある。私を見ている。
知っているひとの視線がある。
「ます……た……っ」
「俺は店番をしてろと言ったはずだぞ。というか、よくこんなところまで来れたな。なんで商人街まで……あ? おい、どうした睦?」
マスターの渋い声に包まれたら、もうダメだった。他人の視線に、日本と違う乾いた空気にだって耐えられない。
マスターの腰に抱き着いて力いっぱい引き寄せた。背の高い彼の体は私が引っ張っても動じることがなくて、ベストの向こうで
「ぁ、はう……っ。ふ……ぐ」
みっともない。こらえようと思っても、こみ上げる嗚咽は全然抑えられなかった。こんな往来の真ん中で泣くなんて。
人間より少し高い体温にじんわりと緊張が溶かされて、もうどうでもよくなった。マスターは大きいから、きっと私くらい隠せる。
と、急に腰に力強いものが巻き付いた。足が地面から離れる。
「う。ぉおわ?」
「じっとしてろ」
マスターに担ぎ上げられた。片手で、腕に腰掛けるような形だ。
「ひゃ、わ。高い」
「落ちるなよ」
「う、うん」
ひょう、ひょうと一歩ごとに浮遊感が足を抜ける。ぞわぞわする。
今までと一変した高さから、周囲のひとたちの驚いた顔を見下ろした。今まで以上に視線を集めているけれど、気恥ずかしさだけで怖くない。
そりゃ、こんな抱っこされてたら普通見るよね。
「もう笑ったな」
「え?」
「切り替えの早いやつだ」
マスターがじっと前を見ている。
私のことだ、と気が付いて頬が熱くなった。
私、マスターに泣きついて、そのまま抱っこされてんのか。うわ。うわ。こんなのシェナさんやウルカさんに見られたら穴掘って死ねる。
「あ」
「どうした」
「ウルカさん、どこだろう」
マスターが深くて大きいため息で揺れた。
「……あのじゃじゃ馬か。放っとけ、腹が減ったら帰ってくるだろ」
野良猫を相手にするような言い様に苦笑する。猫はマスターなのに。
「それとマスター。オレンジシロップ切れてる。買いに来たんだ」
「なに? この前補充……したのは、そうか、間違ってアップルを買い足したんだ。ああくそ、面倒だな」
マスターは開いてる方の手でがりがりと頭をかいて、きびすを返した。
「この通りの奥なの? シロップ売ってるお店って」
「シロップだけならどこでも売ってる。ここは卸売りだ。割安で売ってるんだよ」
私を抱えていない方の手にぶら下げた袋を示す。灯油でも入っていそうなボトルが数本収まっていた。
「へええ。それで昔からのお店が多いんだ」
「すっかり観光気分だけどな、睦」
マスターが声を低くした。
「あとでしっかり怒るからな」
「う……はい」
今度ばかりは言い訳のしようもない。現場も押さえられている。
「マスターってウルカさんとも知り合いなの?」
「俺がっていうか、シェナだな。あいつの友達だよ」
「え?」
マスターを見た。
すんと澄ましたいつもの顔。見下ろしているのが新鮮だ。いやそうじゃない。
「シェナさんとウルカさんって友達なの? でもあんなに仲が悪い……」
「一方的にシェナが拗ねてるだけだ。ウルカも悪いんだけどな」
マスターは肩をすくめた。
「ウルカは、シェナになにも言わず結婚したんだよ。もう子どももいる」
「え、うそ!?」
「なんでも、恋人のことさえ知らなかったらしい」
「うぇえっ!」
そりゃ驚く。ぜんぜんそんな素振りはなかった。
「ウルカが耳にしてる金のピアス、あれは狼族の結婚の証だ。ちびを旦那に預けてウチに一息入れに来るらしい」
まじか。驚きすぎて声が出なかった。
もし私がともちゃんに「実は結婚してて……今度娘の顔見に来てよ」みたいなこと言われたら。ショック受けすぎて心臓止まる。やばい。
マスターは私を横目に見て笑った。
「隠し事はほどほどにな」
ちょっと、胸に刺さった。
逆に。
私がともちゃんにこのバイトを打ち明けたら。
どう、思われるんだろう……?
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