第9話

「ちょっと待って、むっちゃんコレどうなってんの!?」

「いーからいーから!」


 からんこ、と扉を開けて。

 染みついたコーヒーの香りに飛び込んでいく。

 磨いていたカップを落としたマスターに、大きく手をかざした。


「一名様ご案内!」

「むっ……! おい睦、……それはいったい」


 マスターの声が落ち着いたのは、私の後ろにいる人間に気づいたから。

 ぴっと手のひらで示す。


「私の親友、ともちゃんです」

「ど、ども……え? 猫?」

「俺は猫じゃない」


 いつもの返事も、呆気に取られていて覇気がない。

 世話の焼けるマスターに私から優先順位を提案する。


「マスター。あとで、話があります」


 ひくり、とひげが揺れた。

 青い目を瞬かせて、マスターは重く顎を引く。


「分かった。だが私事都合は後回しだ。早く支度してこい、お客様を待たせるな」

「……はいっ!」


 お席にどうぞ、とともちゃんを案内して座らせたあと、バックヤードに飛び込む。高校の制服を脱いでハンガーにかけながら、嬉しさに胸が弾む。

 通じた。

 通じた!

 あとで話がある、って言っただけで、今だけはともちゃんを優先させてほしいって、全部!

 最後にこの店を離れたときは、あんなに胸がふさぎ込んでいたのに。我ながら無責任な話だ。

 でも、その責任はあとでちゃんと取る。

 今だけは、大好きな人に、大好きな場所を紹介するんだ。

 カフェのウェイトレス姿になって、またフロアに飛び出した。


「睦!!」

「ムグ」


 出鼻をくじくラリアットを食らった。

 そのまま抱きすくめられる。暖かいとか、筋肉すごいとか以前に、思いっきり純粋にものすごく、力強すぎて息ができない。


「よかった。もう来ないんじゃないかと……よく来てくれた。よかった……」

「しぇ、しぇなさ……くるし……」

「我慢しろ。この程度の罰じゃ、私たちの心配はとても埋め合わせられないからな。もっともっと償ってもらう」


 まじか……黒い点がチカチカしてきた……。


「おいシェナ。あとにしろ。お客様がお待ちだ」

「は? ん?」


 ぶはぁっ! ようやく息が。

 シェナさんが怪訝を顔いっぱいに表して、店内を振り返っている。

 カウンター席。まだベルの揺れる入口の扉。窓際の席。順番に見て、店の奥。

 ども、とともちゃんが恐縮して会釈した。


「――おぉッ!?」

「驚きすぎだろ」


 マスターが呆れる。

 我に返ったシェナさんは、しゃんと背筋を伸ばして前髪にしきりに指を通した。


「いや、うん。私だって客だ、と主張したいところだが、新規さんを優先したまえ。私はほら、常連だからね」

「なんでシェナさんが緊張してるんですか」

「だって変な店だって思われたら嫌だろう!? ただでさえ変な店なのに!!」

「言ってること変ですよ」

「そもそも」


 こぽぽぽ、とカップにコーヒーを注ぐマスターが言った。


「とっくに手遅れだ。な?」


 マスターに目を向けられて、ともちゃんがうなずいた。

 はっとなって両手を振る。


「あッ! いや今のはそうじゃなくて、つられたっていうか!」

「気にするな。睦の友達ってんなら、ここは不思議だろう。アトラクションと思って楽しんでくれ。これはサービスだ」


 カウンターを出たマスターは、ともちゃんのテーブルにブレンドコーヒーを出す。

 困惑顔のともちゃんに猫の顔でウィンク。


「気に入ったら、またいつでも気軽に来てほしい。コーヒーの飲める客は大歓迎だ」

「はぁ……ども……」


 笑ってしまう。

 今の言葉はマスターの心の底からの本音なのだ。


「この辺、コーヒー飲める人が少なくって、マスター飢えてるんだ。ホント遊びに来てあげてね」

「……え? なんでそんな場所に店を出したんですか」


 マスターは苦虫を噛み潰したような顔で自分の眉間をなでる。 

 その顔がおかしくて笑っていると、


「ぷっ。ふふ……ははっ、あははは!」


 ともちゃんがすごい笑った。

 マスターもシェナさんも驚いているけど、私はまた違った意味で度肝を抜かれた。

 今までの、可愛らしくて魅力的な笑顔とは違う。

 朗らかで荒っぽさすら感じる、でもとても気持ちのいい底抜けの笑顔だ。


「あーおかしい。ねえ睦、あなた本当にいいバイトを見つけたんだね」

「うっふふ。でしょう?」

「知らなかった。睦があんな顔するなんて。素敵な人たちと接してたなんて。なんか恥ずかしいな。子どもだったのは私の方か」


 ともちゃんはつぶやくと、ずずっとコーヒーを一気に飲んでむせた。


「お、おい。そんな慌てて飲むことないぞ……味がわからんだろう……」


 泡を食ったのはマスターだ。渾身の一杯を流しに捨てるみたいに飲まれたらそれはガッカリだろう。


「げほ。すみません。でも今日は睦にお話があるようなので、早めにお暇します」

「ともちゃん」


 声をかけた私にともちゃんは微笑んで、またマスターを見上げた。


「次はちゃんと味わって飲みますね。また来ます」


 カバンをまさぐったともちゃんは硬直した。


「……お代って……日本円で大丈夫ですか……?」

「あー……扱ってないな。ま、気にするな。睦の給料から天引きする」

「マスター!?」


 私の悲鳴を不敵に笑って、マスターもともちゃんを見下ろした。


「だから、睦にうまいもんでもおごってやってくれ」


 マスター……!

 真心あふれる真意を察したともちゃんは、柔らかく笑ってくれた。


「そうします。それじゃ睦。また明日、学校でね」


 手を振りあって、ともちゃんは帰っていく。来る時と同じように、ドアノッカーを打って、扉を開けて。

 もういつでも一人で来れる。

 秘密を共有する嬉しさと誇らしさ、独り占めできなくなった淡い後悔と寂しさが、なんだかすごく心地いい。

 ころんか、と閉じたドアベルの残響を引いて。

 カウンター席に座るシェナさんがぽつりと言った。


「……結局、この店は気に入ってもらえたのか?」


 マスターが呆れ顔で振り返った。


「お前聞いてなかったのか?」

「き、聞いてたから分からないんだ! よかったとも悪かったとも言わなかった!」

「シェナさん、顔真っ赤!」


 おかしくて笑ったら、シェナさんにまたぎゅうぎゅうと首を絞められた。

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