第3話

「睦はかわいいな。これで彼氏がいないなんて、世の男どもは目玉をえぐっても気づかないに違いない。おいマスター、ちょっと顔を貸してくれ」


 マスターは眉間にしわを刻んでコーヒーカップを磨いている。黙殺の構えだ。

 シェナさんはテーブル席でグラスを傾けて、モップ掛けする私を眺めている。


「シェナさんって、マスターと幼馴染なんですよね」

「ん? ああそうだよ。私は早くからトレジャーハンターになったから、あまり街に居つかなかったがね。あいつのおねしょの回数でも教えようか?」

「あはは。それはまたの機会に」


 ぎりィ、とマスターの磨いているカップが悲鳴を上げた。

 それでも食ってかからないのは、腕でも口でも、マスターに勝ち目がないからだ。情けない。

 掃除が終わってしまったので、モップを片付けてシェナさんの話を聞く。


「トレジャーハンターっていろんな街を旅するんですよね。いいなあ、私もこの世界をいろいろ見てみたい」

「ダメだ」


 マスターが口を挟んできた。


「よその世界の常識で動かれたら迷惑だ。お前が表に出るのはまだ早い」


 むう。その心配は心外だ。駄々っ子を連れて歩くんじゃないんだから。


「勝手に動かないで、大人しくしてるってば」

「お前から見れば信じられない理由でトラブルになるんだよ。いいから仕事しろ」

「ないじゃん、仕事が」


 くっく、と笑うシェナさんが顔を傾け、白い首が見える。


「じゃあ睦、少し話し相手になってくれるかな。気持ちよく飲むための客の相手も仕事になるだろ?」

「あは、そうですね。じゃあひとつ、聞いてみてもいいですか?」

「なにかな。なんでも聞いてくれ」

「シェナさんがコーヒーも飲まれないのにカフェに通ってるのは、なんでですか?」

「ふむ。大した理由はないんだが……ひとつめ、純粋に顔見知りの店だから」


 顔見知りは気まずいというひともいるけれど、それは個人差だろう。流行らないカフェにしてみれば常連客はうれしい。

 ぴっと二本目の指が立つ。親指。数え方の違いが地味に「おっ」と思う。


「ふたつ。私の商売はあまり外聞がよくない。墓荒らしでもあるからな。メインは違うんだが理解してもらえない。そんなわけで客商売の店は気が引けてね。ここなら、いつだって閑古鳥の声を楽しめる」

「いい迷惑だ」


 ぼそりとマスターがつぶやいた。

 シェナさんは聞こえないふりをして三本目に中指を立てる。


「みっつ。睦がいるからな。目の保養だ」

「わ。ありがとうございます」


 こういうところで褒めてくるのがイケメンの秘訣なのだろう。女性だけど。

 マスターが店の奥に引っ込んだタイミングで、シェナさんはささやいた。


「色恋の理由はまったくないよ。ここまで通っておいて、自分でも不思議なくらいにね。だから安心してほしい」


 はてさて、なんのことやら。


 -§-


 からんこ、とお店の鈴が鳴った。


「あ、ウルカさん。いらっしゃいませ」

「こんにちは」


 黒髪に空色の瞳。

 古めかしい外套に身を包んだ飄々ひょうひょうとした佇まいが不気味に凛々しい。頭のてっぺんから狼のような耳が黒髪に交じって立っている。

 彼女を見るなりシェナさんが変な声を出す。


「うげ。またお前か」

「やあシェナ、元気そうだね」


 ウルカさんは慣れたもので、にこやかに応じた。なんだか余裕って感じ。

 なぜかシェナさんは妙にウルカさんを毛嫌いしている。話題にも出せなくて、理由は聞けてない。


「ウルカが来たならここまでだ。私は引き上げるとするよ」

「あ、はい。ありがとうございました」


 入口で脇にどいたウルカさんを、


「けっ」


 シェナさんが威嚇しながらすれ違う。

 だいぶ心臓に悪い。


「なんであんなに嫌ってるんですか? 商売敵じゃないんですよね」

ウィOui、わたしはしがない吟遊詩人さ」


 ゆったりとウルカさんは笑ってうなずく。狼耳に光る金のピアスが艶めかしい。

 カウンター席に座りながら、小首をかしげてポツリと言った。


「あいつのことをゴリラの戦乙女と唄ったのがまずかったかな」

「それはまずいですよ!」


 純粋にウルカさんが悪かった!


「クックック。冗談だよ……」

「ホントかなぁ」

「おい睦」


 マスターが顔を出した。


「俺は買い出しに行ってくる。店番頼めるか」

「え、お客さん」


 ウルカさんを示し、示されたウルカさんは片手を挙げる。

 じろりとウルカさんを見たマスターは口を開いた。


「ご注文は」

「オレンジジュース。ミントフレーバーで」

「だ、そうだ」


 言い残して、裏口から出て行ってしまった。

 確かにジュースなら私でも出せる。だけど、それでいいのかカフェ店主。

 ……いやコーヒーバリスタの矜持としてはコーヒー以外を淹れる方が屈辱なのか?


「まったく、マスターも困ったひとなんだから。いま作りますね」

「ああ。よろしく頼む」


 カウンターの中に入って、オレンジシロップとミントタブレットを出す。カフェの出すジュースは濃縮還元だ。

 私の主張で生絞りフレッシュジュースを併売したら、ものの見事に不評だったことは忘れられない。獣系のひとが多いから、きっと香りが強すぎるとダメなんだろう。


「あれ?」


 オレンジシロップの瓶を振っても、水音がしなかった。ふたを開けてグラスに逆さにしてみる。出ない。

 バックヤードの倉庫を見てもリンゴやブドウばかりで、ものの見事にオレンジが欠品している。


「うーん、すみません。オレンジ切らしてるみたいです」

「それは困ったな。今日はすごくオレンジな気分だったんだが」

「ごめんなさい」


 顔は余裕綽々に澄ましているが、耳がしおしおと垂れている。ものすごくがっかりしていた。

 マスターは今しがた出て行ったばかりだ。補充は望めない。


「うーん、どうしよう。さすがに切らすのは無いよマスター……。買おうにも、どこで売ってるのか知らないからなあ」


 お金ならある。バイト代はほとんど現物支給だけど、それで替えきれない分は現地貨幣をいくらか包んでもらっている。立て替えるくらいはあるだろう。

 思案する私を見つめていたウルカさんは口を開いた。


「一緒に行こうか」

「え? いやダメですよ。店番もあるし、私は表に出るなってマスターにきつく言われているんです」


 窓から見ていて、通りがかるひとは大なり小なりケモノっぽさを持つ獣人ばかり。シェナさんが珍しいくらいだ。きっと獣人の国なんだろう。

 ウルカさんは軽く目を伏せて肩をすくめる。


「まあ、そうだね。人間といえば、この国じゃ戦争相手だから」

「え……そうなんですか!?」

「百年前に終結した戦争の、ね。この辺りは戦場から遠かったから気にするひともいないと思うが」


 それは確かに、迂闊にうろくつのはよくないのかもしれない。

 日本でも外国人はすごく目立つ。想像だけど、似たようなことだろう。


「店には心当たりがある。街に出たことがないんだろう? 行ってみないか」

「う、でも……」

「どうせ客なんか来ないよ」


 そうだけど。

 迷いながら窓を見た。

 マスターは一向に私を連れ出してくれる気配がないし、シェナさんも頼みづらい。なにせシェナさんは人目を避けてこのカフェを選んでいるのだ。


「わたしが付き添うよ」


 ウルカさんがそう言ってくれる。


「……いいんですか?」

「ナイショだぞ。きっとあいつらはすごく怒るから」


 ウィンクをした。笑ってしまう。確かに怒りそう。

 でも、シロップを切らすマスターが悪いのだ。


「すぐに買って帰りましょう」


 それが自分の罪悪感と好奇心の折衷案だった。

 私は忘れていた。

 いつだって、好奇心は猫を殺す。

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