○ 金木犀

 玄関のドアを開けると、どこからか漂ってきた甘い香りが、ふんわりと私の体を包み込んだ。

 この香りは、私が1番好きな花。

 いつの間にか金木犀が咲く頃になっていたらしい。

 姿の見えない花の香りの空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

 甘やかなそれを匂っていると、感覚という感覚がやんわりと痺れていく気がする。


 ふらり、と私は1歩踏み出していた。

 無意識のうちに歩き出していた──金木犀の花を探して。

 家の近所には、何軒か金木犀を植えている家がある。

 でも、私は足を止めなかった。

 違う、これじゃない。私が探しているのは、もっと別の──



 ……ようやく足を緩めたのは、家の近くを流れる川の向こうの、小さな空き地。

 錆びついた鉄棒しかないそこは、正確には公園だが、私たちは小さな頃からそこを空き地と呼んでいた。


 その空き地には、大きな金木犀があった。

 家とこの空き地との間には、結構な距離があって、私が嗅いだあの匂いがこの木であることは、まずありえないだろう。

 だけど、確かにこれなのだ。

 感覚的にそうわかっていた。

 大きな木には、たくさんの小さな花が咲いていて、根元には散った花が積もっていた。


 木の下まで歩み寄ったとき、「金木犀は人を狂わせるのではないか」と、そんな考えがよぎった。

 この甘ったるくらいの強い香りには、そんな怖いほどの不思議な力があるような気がした。


 ざあ……と風が吹き、金木犀の葉を、花を、ざわざわと揺らした。

 やがて、2つ、3つほど、小さなオレンジの花がぽたり、と落ちた。

 ハッとして、私はそれが落ちてきた方を──金木犀の木を見上げた。


 そこには、真っ暗な夜の闇に、木の金色がするどく輝いていた。

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