依頼②

俺は、久山に悟られないように、右代宮と霜月の顔に視線を巡らせた。二人とも、俺が感じているような疑問を抱いていないようで、目の前の依頼人をまっすぐ見つめている。こういう奇妙な依頼は、この事務所では日常茶飯事なのだろうか。


一方依頼を引き受けてもらえた久山は、ほっと胸をなで下ろしている。


「ありがとうございます。あの、それで、お代は…」


そう久山が訊いたので、俺はそこで初めて具体的な不信感を覚えた。

久山は、バッグを持っていなかった。今は膝上に置いてある麦わら帽子以外に、所持品は何もなさそうだ。


久山の問いに、右代宮は穏やかに応じる。


「この内容でしたら、成功報酬ということでどうでしょう。久山さんの依頼が解決した時、ご請求させていただきます。見積もりに関しては、そうですね」


右代宮は、テーブルの隅に置かれたメモとペンを手繰り寄せると、そこに何か書き込んで、久山に見せた。


「別途経費をいただきますが、このくらいでいかがでしょう」


俺の位置からは金額は見えないので、それが分相応なのか、そもそも相場がいくらなのかはわからない。が、久山はそこに書かれているであろう金額を確かめると、驚くでもなく、遠慮するでもない、平然とした表情で頷いた。


「わかりました」


一体いくらぐらいなんだろうと好奇心を覚える俺をよそに、右代宮は立ち上がった。綺麗にしたばかりのデスクに向かい、ノートPCで何かを打ち込む。すぐにプリンタが作動し、一枚の紙が排出された。右代宮は、冷蔵庫からあのシャチハタを取り出した。というか、そもそもなぜ印鑑を冷蔵しているんだろう。右代宮は慣れた手順で紙に判を押すと、それを持ってテーブルに戻って来た。


「こちらに、サインをお願いいたします」


それは、俺を雇うときのもとのよく似た契約書だった。右代宮は、契約書とペンを久山に差し出した。

それを受け取った久山は、ペンを持ち、固まった。

俺は、もしや契約書にいかがわしい内容でも含まれているのかと焦ったが、久山の顔を見ると、そもそも書面を見ていなかった。焦点がぼやけて、何か別のものを見ているのか、それとも何も見ていないような、虚ろな表情をしていた。


しかしそれは一瞬のことだった。久山はすぐに我に返ると、迷いなくペンを走らせてから、契約書を右代宮に渡した。落ち着いている。


俺はそれまでの久山の一連の言動が、にわかに不気味になってきた。身なりは普通の女性だが、常識とはずれた依頼、不可解な表情。そして、手ぶらでこのビルまで来たこと。彼女は、携帯も、財布も持ち歩いていない。少なくとも初めは怪しんでいた事務所に、身一つで訪れたのだ。俺だって初めてこの事務所で目を覚ました時、通信手段の携帯がなくて心細かった。女性ならなおさらではないだろうか。


実は、何か隠しておかなければならないやましい事情でもあるんだろうか。それにしては久山の表情は、無警戒というか、緊張感がないというか。自分の依頼なのにどこか他人事のような感じだ。


きっと、半分廃墟のようなビルでひっそり開業している個人事務所だから、客層も胡散臭いんだろう。安心はできないが、一応は筋の通る解釈でとりあえず自分を納得させた。


俺のような懸念をみじんも感じていないらしい右代宮は、久山から契約書を受け取るとサインを確認し、「ありがとうございます」と答えた。


「あの、私はどうしたらいいでしょうか」

「久山さんは、いつも通り生活していてください。今日は平日ですが、ご予定はありますか」

「とくには、家に帰るぐらいで」

「そうですか。では、うちの者を付いて行かせてもいいですか」

「ええっと、一緒にですか」


久山は戸惑っている。


「いえ、久山さんの近くにいると、ストーカーは警戒して現れないでしょう。相手を観察するためにも、少し離れたところから見守らせていただこうと思うのですが。もちろん、万が一何か起きた場合にはすぐに駆け付けさせます」

「ああ、それなら」


右代宮が、後ろに控えていた俺と霜月を振り返った。


「じゃ、二人が久山さんをお送りして」

「え」


まったく予期していなかったので俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。霜月は霜月で、慌てた表情で俺と右代宮を見比べている。指示の内容というより、俺と二人っきりで行動することに狼狽えているようだ。


とはいえ、雇い主の指示なら従うほかない。俺は自分のカバンを背負って霜月を振り返る。霜月も慌ててそれに倣って、季節感のないコートを羽織った。


「じゃあ、三人ともお気をつけて」


手を振る右代宮に見送られ、俺たちは雑居ビルを後にした。

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