きいろいじむしょ③
それから、右代宮事務所とはきちんと書類を作って雇用契約を結ぼうという話になった。
どうやら右代宮は近頃人手を増やそうと考えていたらしく、契約書のひな形はすでに作ってあったようだ。
右代宮はキャスター付きの椅子に座って、パソコンの画面を見ながら俺に尋ねた。
「虎太郎、
「あ、はい」
「じゃあ交通費は全額支給で」
俺は内心ガッツポーズをした。そして、ふと思い当たる。
「てか、そもそもここってどこでしたっけ?」
「ここの住所は
稷山は隣町で、駅で二駅区間だ。思ったより高校より離れた場所まで連れてこられたようだ。
「まさか俺、霜月さんに電車で運ばれてないですよね」
「当たり前だろう。そんなことしたら人目についてしょうがない。私がみくると一緒に車で現場まで駆け付けたんだ」
ということは、あの事件が起こる前にすでに俺の高校に向かっていたことになる。俺があの事件と遭遇してからは、せいぜい10分しか経っていない。とすれば、あそこに【半鬼】とかいうのが出現することが、事前にわかっていたということか。
一体どういうシステムで情報を得るのか、そもそもどうやって報酬を得ているのか、そして、あの女子生徒が病人であるなら、これから一体どういう扱いを受けることになるのだろうか。
いろいろな疑問が浮かぶが、全部を質問するには既に俺は疲れすぎていた。
俺が物思いに耽っている間にも、右代宮は契約内容を確認していく。
「保険は大丈夫。勤務時間は9時5時で、業務内容は、まあ雑務全般だな。詳しいことは後日、一緒に仕事をしながら教える」
あとは、と右代宮が顎に手を当てて首を傾げる。
「そうだ、もしかしたら、緊急の場合には勤務時間外に呼び出すことがあるかもしれない」
「えっ」
どういうことだ? 少し心配になった俺に右代宮は手を振った。
「そんな頻繁なもんじゃない。君がいつまで勤めてくれるがわからんが、1年に1回あるかないかだから」
まあ、それなら、と溜飲を下げる。
「そうだな、その場合、特別手当として、1時間ごとに1万円を支給しよう」
「マジで!?」
破格、破格の手当だ。むしろ週1で緊急事態になってもいい。
思わず目を輝かせていると、フッと笑い声がした。
見ると、霜月がうつむきがちに顔を背けている。表情は見えないが、肩が震えている。
あ、こいつ、笑うんだ。
笑われたことより、そのことに少し安心した。
「さあて、これで完成と」
右代宮がタイピングを終えると、プリンタが動く音がした。やがて紙が排出される。それを取って、右代宮は書面を確認した。
「よしよし」
そういうと、唐突に冷蔵庫を開けた。なんだろうと思って見ていると、中から小さな銀の筒状のものを取り出した。一端を外すと、なんとシャチハタになっていた。
「ふんっ」
掛け声とともに押印する。そして再び判子を冷蔵庫に仕舞った。そして契約書を応接テーブルまで持ってくる。
「虎太郎、これにサインをくれ。フルネームでな」
差し出された書面にきちんと目を通す。文面には、先ほど右代宮と確認した条件がそのまま印刷されている。右下に、自分の名前を書く欄があった。
「これ、住所とか、電話番号とかはいらないんですか?」
「不要だ。後でメールアドレスだけ交換しよう。というか、初対面の相手に住所まで明かすのは止めた方がいいぞ」
それもそうだが、そもそもこんな胡散臭い事務所でサインをすること自体不用心極まりないのでは。
そう思いながらも、俺はすらすらと署名して、契約書を右代宮に渡した。
右代宮が内容を確認して、「よし」と頷く。
「これで契約成立だ。虎太郎は夏休み中だろう? できれば早速明日から来てもらいたいんだが、虎太郎の都合はどうだ?」
本来なら明日も補習授業の予定だが、あんなことがあった後だ、ほぼ間違いなく中止されるだろう。そもそも学校自体閉鎖される可能性が高い。
「はい。じゃあ、明日また来ます」
「それじゃあ今日は疲れてると思うから、私が近くまで送っていこう」
別に電車でも問題なかったが、素直に甘えることにする。
右代宮は、どこからともなく俺の通学用のバックパックを取り出した。
「あ!」
「やっぱり虎太郎のだったか。そばに落ちてたこれは、君ので間違いないか」
右代宮が見せたのは、俺の二つ折り携帯だった。
「そうです。わざわざありがとうございます」
「礼には及ばない。早速アドレスを送りたいんだが、赤外線は使えるか?」
「はい」
俺は右代宮とメールアドレスを交換した。
用事が済むと、右代宮は一度脱いでいたコートに再び袖を通した。
「今から虎太郎を送っていくが、みくる、お前はどうする?」
霜月は、ほんの一瞬、俺を警戒するように一瞥した。そして、こくんと頷いた。
事務所は雑居ビルの2階にあった。なぜかエレベーターは使わずに、非常扉から出て、外付けの非常階段を下る。ビルの裏に回ると狭い駐車場があって、黒いセダンが一台停まっていた。
「あれ、右代宮さんの車…?」
「ああ」
それは、紛うことなきBMWだった。
高額なバイト代といい、一体何によってこんな利益を得ているんだろう。果たして契約書にサインしてもよかったのかと一瞬不安になるが、迷ってもしかたない。頭を振って懸念をかき消した。
霜月が助手席に座ったので、俺は後部座席に乗り込む。
「シートベルトは」
「しました」
ルームミラーを確認し、右代宮はゆっくりと車を出した。
右代宮は安全運転で車を走らせた。30分ほどで莇原駅に到着した。
「ここまででいいか?」
「はい。ありがとうございます」
さすがに家の前までとなると、いろいろややこしくなる。
車を降りると、右代宮が窓を開けて地図を渡してきた。
「明日、よろしくな」
「はい」
俺は車を離れようとして、極めて重大なことを思い出した。
「あっ!」
「ん? どうした」
俺はボンネットを回って、助手席側に近づいた。いきなり近づいたので、霜月は驚いて俺を見る。俺は窓を軽くノックした。
霜月は躊躇していたが、パワーウィンドウが下がり始めたので、驚いてる。霜月が勢いよく振り返ると、どうやら右代宮が窓を開けてくれたようだ。
突然のことで、白い角の下の目が困惑している。
悪いと思ったので、すぐに用事を済ませようと思った。
「ごめん、お礼言ってなかった。今日は助けてくれてありがとう」
それだけ言うと、右代宮に目顔で頷く。右代宮は車を発進させようとした。
「……どういたしまして」
俺は目を丸くした。
霜月はその一言が精一杯だったようで、フードを目深にかぶって顔を隠した。
その懸命な動作に思わず頬が緩む。俺は一度頷いて一歩下がった。
セダンがゆっくりと滑り出す。俺は手を振って見送った。セダンが左折するとき、助手席の窓から霜月が小さく手を挙げているのが見えた。
なるほど、奇妙な職場ではあるが、人間関係で悩むことはなさそうだ。
やがて車は見えなくなった。
さて、俺にとって今日一番の試練となったのは、帰宅した後のことだった。
まずインターホンを鳴らして真っ先に飛び出してきたのが、4つ離れた姉貴だった。
「ただいま」と言おうとした瞬間、俺の左頬に拳がめり込み、発音不可能になる。
言葉を失う俺に、怒声が飛んできた。
「遅い!!!」
そこからは、説教という名の集中砲火だった。
今までどこにいた何故連絡をよこさない携帯はどうした学校で起きた事件はなんだお前は何か見たのか事件に居合わせたのか警察に聞いてもお前は現場にはいなかったというし先生方も見てないと言うそもそも学校に行ってないのかだとしたらどこへ行ってた補習をサボったのかそれともなんとか事件に遭遇せずに済んだのかニュースはとんでもないことになってるどうして今まで連絡しなかった死ぬほど心配した今まで一体どこにいた
恐ろしく早口なのに、バレー部で鍛えた腹筋と肺活量によって一語いちごがはっきりと聞き取れ、鋭く鼓膜を貫く。かつ的確に良心を穿ってくる説諭は、もはやマシンガンと同等の殺傷能力をもった弾丸となって俺の心をバラバラに撃ち抜いた。
俺は心身ともにズタボロになり、膝をついて全面降伏した。
「ごめん!!!」
正座で肘を地面につけ、両手で三角をつくってその上に深々と額を乗せた。
俺にできる、最高の土下座だった。
俺は更なる追及も甘んじて受ける覚悟だった。しかし
姉貴はノブを引いてドアを開けた。
「…おかえり」
俺は猛省が伝わるように、せいぜい小さく縮こまって家に入った。
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