きいろいじむしょ②
室内に、ぼこぼことお湯の沸く音がする。しばらくすると火が消され、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
俺が膝に手をのせて待っていると、女性は湯気の立つマグカップを2つ持ってきた。それを自分の前と俺の前に置くと、反対側のソファに座った。
「使うか?」
女性はそう言って、応接テーブルの端にあったシュガーポットを差し出した。
実は、コーヒーはそんなに飲みなれていなかった。ので、ノンシュガーがどれくらい苦いのかわからなかった。しかし、初対面の人物に勧められたものへの遠慮、それにこの小汚い事務所内に無造作に置かれた砂糖への不信感、それにちょっぴりの見栄も手伝って、俺はこう答えた。
「いえ、結構です」
「大人なんだな」
なんだか見透かされてるような気がしたので、俺は慌ててカップを持った。
「いただきます」
ゆっくり口をつける。一口すすって、俺は驚いた。
「おいしい、です」
女性は満足げな笑みを浮かべた。
「うむ。こう見えて、私は実は舌が肥えていてね」
自虐とも取れなくない言葉に、返事に困るが、女性は気にせずコーヒーをのんだ。
一息ついて、女性は口を開いた。
「紹介が遅れてすまない。先ほども言ったが、私は右代宮、右代宮
俺が見つめると、右代宮はじっと俺を見つめ返した。俺も慌てて名乗る。
「あ、俺は桐原虎太郎、です」
「コタロウか。字を聞いてもいいか?」
「はい。トラの
「うむ。素敵な響きだね」
妙に芝居がかった言葉遣いだが、それがなんだかしっくりしてしまう女性だった。右代宮の奇抜なファッションがそう思わせるのだろうか。
右代宮は足を組み、すっかりくつろいでいる風情だった。
「さて、じゃあ虎太郎がここにいる理由、だったな。
右代宮はマグカップを置くと、言葉を探すように腕を組んだ。
「結論から言えば、君をこの事務所に雇いたいんだ」
突拍子もない言葉に、俺は耳を疑った。
「はい?」
まじまじと右代宮を見つめるが、至極真面目な顔をしているので、なおさら訳が分からない。
「あの…どういう理由で…?」
「その理由がちと煩雑でな」
右代宮は頭をかいた。
「そうだな…まず、さっきの彼女、彼女が君をここへ連れてきたのは覚えてるか」
「えっと…」
「ほらそこの」
そう言って右代宮が指した方向には、
「ひぃ!」
いつの間にか、さっきの人物が再びドアの隙間から室内を覗き込んでいるではないか。そのわずかに覗く顔がひどく陰気くさいので、何度見てもホラーにしか見えない。
「二度も驚かんでも」
こっぱずかしくて俺は居住まいを正した。
「えと…じゃあ、その人が、あのコートをきた女子?」
俺はドアを指さした。その人物は、今度は身を隠さずに、片眼でじっと俺を見つめている。
右代宮は頷いた。
「そうだ。彼女は霜月みくる。さっきも言ったが人見知りでな、気を悪くしないでくれ」
思いのほかかわいらしい名前だ。殺人鬼に右ストレートを浴びせ、俺をここまで運んで来た人物だとはとても思えない。
「虎太郎は、気絶する直前に何を見たか覚えているか」
少し考えて、俺はハッと息をのんだ。
「そうだ、角、その子角が生えてたんだ」
「そうらしいな」
「ていうか、狂暴な方にも角が生えてたし…。一体何なんです?」
俺は右代宮と、霜月という女子を見比べた。右代宮はすぐには返答せず、コーヒーを一口すすってから、おもむろに口を開いた。
「虎太郎は、最近こういう事件が増えているのを聞いたことがあるか?」
「こういうって?」
「突然、誰かの気が触れたようになったり、人間離れした怪力を出す、人が変わったかのように言動が変化するという事件だ」
そう言われて思い返してみる。そういえば、そういう都市伝説の類をSNSで目にする機会が増えたような気がする。
「表向きにはそれらに関連性はないとされるが、実はある種の疾病に冒された者が引き起こしている。それに医学の手法でアプローチする医者もいるが、まあ医学では治せんだろうな」
「医学では治せない病気ってことは…つまり…」
俺は言いづらくなって、微妙に開いているドアにちらりと目をやった。
それは、つまり、心の病ということじゃないんだろうか。
俺が言い淀むと、右代宮は顔の前で手を振った。
「いやいや。君の言わんとすることは分かるが、精神疾患は医学で治せる病気だ。実際に、そう考えている精神科医たちは医学療法での治療を試みているようだ。が、この奇病は、いわゆるオカルト的な病でね」
「オカルト……?」
言っている意味がまるでわからず、俺は目を瞬いた。
「原因は目下調査中だが、発症者がみな自分に角が生えたように感じることから、我々は鬼の病と書いて【
俺は言葉が見つからずに、黙っていた。すると、俺の顔を見た右代宮が、またも声をあげて笑った。
「まあまあそりゃそうだろう。初めてこんな話聞かされても、胡散臭いだろう」
「あ、ええと、そういう意味では」
右代宮に言われて、自分の顔が思いっきり怪訝になっているのに気づいた。焦って言い繕うが、右代宮は気分を害した様子はない。
「信じられないのもしかたがない。ので、虎太郎に証拠を見せようと思う」
すると、ドアに向かって呼びかけた。
「みくる。入ってきてくれ」
俺もドアの方を振り返る。ドアの向こうで、霜月がためらう気配を見せた。少し待っていると、ゆっくり、ゆっくりとドアが開いた。
黒いコートを来た霜月が、体を丸めるようにしておずおずと室内に入って来た。しかもなぜか屋内でフードをかぶっているので、全身が見えても幽霊のようだ。
霜月は、右代宮のソファの後ろに立った。
右代宮が立ち上がる。
「みくる、外すぞ」
そう言うと、霜月のフードを下ろした。
たしかに、気絶する直前に見た顔だ。今は、俺の直視に耐えがたいのか、目が落ち着きなく泳いでいる。
そしてその額の中央に、あの角が生えていた。
長さにして、10センチメートル強。真っ白で、直線的に伸びているというよりは、やや後ろに反っている。根元が少し広がってその下の部分を覆っているので、皮膚がどうなっているかはわからない。ただ、肌の色とは明らかに違う色をしていた。
たしかに、オカルト話をでっち上げるにしては出来すぎなくらいの、作り物とはとても思えない代物だ。しかも、さっきの右代宮の話を聞いたせいか、角が、脈打っているように感じられる。
俺は悪いと思いつつ、その角をまじまじと見つめずにはいられなかった。
霜月はうつむきがちに、目をきょときょとさせている。
「虎太郎、角は、どういう風に見える?」
「えっと、ちょっと曲がってて、10センチくらいで、白くて、後なんか―――」
そう言いかけて、俺は言葉を止めて右代宮を見た。
「なんで、見た目が重要なんです?」
右代宮は、うっすらと笑みを浮かべた。
「それが、君を雇いたい理由だからだ」
そして、俺の左手後方を指さした。
「あの鏡で、みくるの角を確認してみろ」
振り返ると、大きな姿見が置いてあった。部屋の隅に斜めに立てかけられていて、ソファから立ち上がると、ちょうど霜月の顔が映る角度だった。
俺は、そこに映った霜月を見て―――、違和感を覚えてすぐに、二度見した。
そして、本物の霜月と交互に見比べ、それでも信じられなかったので、目をこすってもう一度見比べた。
「虎太郎、お前には、今、どう見える?」
俺は、意味が分からずに混乱した。
「あの……鏡の方には、角が、映ってません」
「やはりな」
俺は何を信じていいかわからず、無意識で質問していた。
「霜月、さん。その角、触って確かめてもいいか?」
「えっ」
霜月も、まさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったらしく、ここへ来て初めて声を出した。しかし、触ってほしくはないのか、両手で額を押さえている。
真実を確かめたい俺と、嫌がる霜月の間に、右代宮が割って入った。
「まてまて虎太郎。そうしなくても、何が起きているのかを説明するから」
俺は、一体どんな奇天烈な言葉が飛び出すのだろうと身構えた。
「実は、お前に見えている角なんだが―――
私たちには全く見えないんだ」
…ん? んん??
俺は首を傾げた。
「あれ、さっき、【鬼病】にかかると角が生えるって…」
「否、発症者は角が生えたように感じると言ったんだ」
俺はあんぐりと口を開けた。
「この病が精神疾患だと思われてる理由もそこにある。発症すると、みな内側から角が生えてくるような苦痛に襲われるが、他人はおろか本人にもその実体は見えない。にもかかわらず、角が生えた後も、体と一体化しているという感覚だけは付きまとう。そして何より、神霊の素養があれば、はっきりと霊気が感じられる。これらのことから、これら一連の病を、科学とは別の因果によって理論づけられる現象だと断定できるわけだ」
もう俺は右代宮が何を言っているのかまったく分からず、混乱した俺の頭に無数の不明瞭な単語たちが氾濫していた。
唖然としている俺に、右代宮は鋭い視線を向けた。
「そしてこれまで、その角が目に見えるなんて人間は聞いたことがない。それも、神霊の類を知らなかった者がだ。角が見えるという才能は、非常に希少な能力なのだ。そしてその才能を見込んで、君をこの事務所にバイトとして雇いたい。待遇は応相談だが、普通の職種よりかは弾むぞ」
俺は、何も言えなかった。膝から力が抜け、ソファに尻をつく。
右代宮は俺を見下ろしてから、ゆっくりソファに座った。
「すぐに返事をくれとは言わん、考える時間を―――」
「いくらですか?」
「へっ?」
俺の質問に、右代宮は意表を突かれたようだった。
「時給です、時給」
「え、ああ、まあ、仕事が仕事だし、1,800円くらいは考えているが―――」
思ってもない破格の条件。俺は即座に返答した。
「やります!!」
俺が勢い込んで声を張ると、右代宮は呆然と目を瞬いた。やがて、堰を切ったように、
「ハッハッハッハッハッハッハ!!!!」
今日一番高らかな笑い声をあげた。その後ろで、霜月も目を丸くしている。
「スカウトした私が言うのもなんだが、仕事内容も聞かないで即答か。実に現金だが、その胆力、とても見どころがある。いやいやどうして、いい人材を引き当てたものだ」
右代宮は、褒めてるんだか貶してるんだかよくわからない調子で言った。
正直、時給1,800円という好条件に目がくらんだのは確かだ。でも俺だって、ただのアホではない。おそらくこの女性は、豪放だが子どもの俺や霜月にも筋を通そうとするこの女性が、およそ人の道に外れた労働を強いることはないだろうと信用したまでだ。
なので労働条件を確認する前に、他に競争者が現れないうちに時給1,800円のポストを確保するのが先決だ。
右代宮はとても楽しそうな、屈託のない笑顔で言った。
「なにはともあれ、これで正式に我々に仲間が加わったという訳だ。改めて、雇用主の右代宮、バイト第一号霜月だ。よろしく頼むよ」
そうして差し出された右手を、俺はしっかりと握った。
「はい。よろしくお願いします」
かくして、俺は右代宮事務所のバイト第二号となったのだった。
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