きいろいじむしょ①
気が付くと、ひどく体がだるかった。
俺はゆっくりと目を開けた。
俺は、見たこともない部屋にいた。
雑然としていて、事務所のようだ。どうやら応接用とおぼしきソファに寝かされている。そのソファも、ほこりっぽくて長い間触っていたくない感じだ。
俺は起き上がった。
辺りを見回しているうちに、おぼろげだった意識が次第にはっきりしてくる。
そして、今日の出来事を思い出した。
元はと言えば、俺は今日、補習を受けるために登校していた。
ただでさえギリギリで家を出ようとしていたのに、何の前触れもなく自転車の後輪がパンクする不運に見舞われ、始業時間に遅刻するハメになった。
俺の学校までの通学路は、特定の信号の変わるタイミングによって通る道を変えるような絶妙な順路で組まれている。おかげで普段は、睡眠時間を最大限に引き伸ばしかつ絶対に遅刻しない奇跡の時間帯に通学可能なのだ。
反面、何かアクシデントに見舞われた際の余裕は皆無というリスクはあるが、1分1秒でも長く布団にいたい俺にとってはそれを補ってあまりあるリターンだ。
しかし、今日はそのアクシデントが不幸中の幸い。授業に間に合う時間に教室にいたら、俺もどうなっていたか分からない。まさしく、人間万事塞翁が馬というわけだ。
そこまで記憶をたどると、数人の肉体が床に転がっている光景が脳裏によみがえってきて、俺は懸命にそのイメージをかき消した。
補習を受けるメンバーの中に、そこまで親しい友人はいなかった。
そんな理由付けを、自分を落ち着かせるための根拠にしようとしていることに気づいて、俺は自分の正気を疑った。とにかくあの出来事のことを考えないように、雑念を振り払って今の状況に意識を集中させる。
「…てか、ここどこだ?」
周囲には誰もいない。応接テーブルの向こう側に、紙の束やら本やら雑貨やらが山と積まれた事務机があった。本来の用途で使われているか疑わしいに机の座席には、今は誰も座っていなかった。
そしてその机の右側、反対側の部屋の隅に、なぜか麦わら帽子をかぶせられた狸の信楽焼が置かれていた。
よくよく思い返してみると、たしか失神した時、少女に担がれていたような気がする。
ということは、あの少女が俺をこんなところに運び込んだのだろうか。
「せめて病院とかに連れてってくれよ…」
ラッキーなことに、怪我は大したことなさそうだ。がそれにしたって、こんな不潔な部屋より、どちらかといえば病院の方が適当ではなかろうか。
てか、誰もいないのはどういうわけだ? 俺は、帰っていいのか?
いやそもそも、ここがどこなのかわからない。
俺はハッとしてポケットをまさぐった。案の定、携帯がない。例の殺人鬼ともみ合っている間に落としたようだ。
これじゃ、携帯が使えなければ、現在地を調べることもできない。
ここがどこだかわからない以上、長居するのはやめた方がいい。今は体の自由が利くが、これは事実上の拉致。今のうちに、退散しよう。
俺はソファから足をおろして腰を上げかけた。
「!!」
右手から物音がして、反動で俺はソファに勢いよくしりもちをつく。
物音は、古いドアノブをひねる鈍い金属音だった。
「やあ、おはよう」
恐るおそる声の主を見ると、長身の女性が部屋に入ってきた。
その女性は、一目見ただけで気圧されるような、よく言えば存在感のある、悪く言えば奇抜な容姿をしていた。
まず目につくのは、高い背丈。赤茶色をした頭髪は、短く切られたベリーショート。俺には女性の年齢はよくわからないが、二、三十代ほどだろうか。
そしてなにより目を引くのは、真っ赤なレザーコートだった。それは周囲の人間の目を一瞬奪うが、すぐに目をそらしたくなるような、間違っても関わりたくない奇人のいで立ちだった。
しかし、そんな珍奇な人物が突然現れ、しかも話しかけてきたのだから、俺は目を離すことはできなかった。
「そんなに驚かなくてもいいんじゃないか。別に、取って食おうって訳じゃないから」
女性は特に気を悪くするでもなく、運んで来た紙袋を事務机の上に置いた。紙袋は、雪崩を起こしかけている書類の上で、奇跡的なバランスで立った。
「悪いね、いきなりこんなところへ連れ込んできて」
どうやら女性に悪気はないらしいことが分かったので、俺はこの人物が話の通じる相手だと思うことにした。
「あの……ここは一体どこですか?」
「ここはまあ、名称でいえば個人事務所だ。固有名詞は『
「俺は……なんでこんなところに連れてこられたんでしょう」
女性は、事務机に備え付けられた椅子に腰を下ろした。紙山の谷間から、かろうじて女性の顔が見える。
「んー。なんでと訊かれると一口には説明しずらいな。代わりに説明してくれないか?」
どうやら俺に言ったのではない。女性はあらぬ方向に向かって話しかけた。
俺は怪訝に思ってその方向を見た。
「うわあっ!?」
俺は思わず悲鳴を上げてソファの反対側にのけぞった。
女性の視線の先、事務所のドアのわずかな隙間から、誰か覗いているのではないか!
薄く開いたドアの向こうは陰っていて、何者かは全くわからない。
その誰かは俺が仰天すると、すっと物陰に潜んだ。
「はっはっはっは!!」
振り向くと、女性が高笑いしている。
「すまんすまん。そんなに驚くとは思わなかった。彼女、度を越えた人見知りでな。時間をかけないと、まともに顔も合わせられないんだ。そんな彼女が初対面の異性をここまで運んで来たんだから、ずいぶん頑張ったものだよ」
訳も分からず呆気に取られていると、女性は目じりをこすりながら言った。
「まあ仕方ない。私にわかる範囲で事情を説明するよ」
そして女性は口を開きかけ、何か思いついたように、言葉を止めた。
そして立ち上がる。
「君、コーヒーは飲むか?」
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