塔の中枢

 部屋は、弾力性のある謎の膜によって、外部からの侵入者を控えめに拒んでいた。控えめというだけあって、膜はそこまで強固なものではなく、栞がぎゅうっと掌を押し当てるだけで、それを易々と室内に受け入れた。膜の向こうは透明な液体で満たされていた。指でそれを掻いてみた限り、どうやら純粋な水ではないようだ。少し、粘性があった。


 栞は当然、液体の中では息ができないので、この部屋に入ることを逡巡した。けれど、まるで斥候のように室内に突撃したもふもふが平然としているのを見て、栞も数秒だけ入ってみようかと決意する。


 栞は両手を膜に押し当て、一歩踏み出し、体重をかける。掌は簡単に膜をすり抜け、少し抵抗のある液体の中へと埋没する。栞はそのまま前進し続け、手首、肘、二の腕まで浸けた所で、思い切って額を膜に押し当てた。


 ゴボゴボ。鼻、口、耳、首と、頭が膜を通り抜けて、栞の口から気泡が漏れ出す。まずい。そう思って戻ろうとしても、首から上が膜から抜けない。


 まずい、まずい、息が。慌てて液体を掻く栞の腕をもふもふが絡めとる。助けて。栞が心の中でそう呟くと、もふもふは一気に、栞を室内へ引きずり込んだ。


 ゴポゴポ。室内は液体で満たされていて、栞の足は地から離れた。もがく栞の襟首を咥えて、尻尾で器用に推進力を得つつ、もふもふは液体の中を泳いだ。栞の息は既に限界域で、発作的に吸い込んだ液体が、ドロドロと喉元を下っていく。死ぬ。と本能的に思って、でも、いつの間にか酸欠的苦しさから解放されていることに気づく。


「あれ?」


 咄嗟に出た声は、液中で発したとは思えないほどクリアだった。けれど、栞ともふもふはまだ液中を泳いでいて。そして、肺を膨らますたびに液体が喉を通り、息を吐こうとすると液体が喉を駆けあがる。でも苦しくない。普通に呼吸をしているかのように、液体が軽い。今までに味わったことのない、凄く奇妙な感覚で、栞は無意識に喉をさすった。


「もふもふ?」

「…………」


 部屋の中心に、蒼く発光する奇妙なオブジェが置かれている。巨大なマザーボードを立方体くらいの高さまで何層にも重ねたような造形で、そのオブジェのあちこちから無数のパイプが部屋中に散開している。各マザーボードの基盤が蒼く点滅を繰り返し、その度に白い粒子が生まれ出て、パイプの中を流れていく。まるで電気信号を送っているようにも見えるが、栞はコンピューターの仕組みなどさっぱりなので、線香花火のようだと直感で思った。もふもふはそのオブジェではなく、この部屋の天井へと向かって泳いでいた。尻尾は勢いよく液体を蹴って、口では栞の襟首を掴んでいる。残念ながら栞の声には答えられず、もふもふは唯々先を急いだ。


 天井にはジェット機すら通れそうなくらい、大きなハッチが備え付けられていた。今は閉じているが、もふもふはそこへ向かって泳いでいるらしかった。開くのだろうと思っていたら、開いた。ハッチは二重になっていて、縦と横、それぞれに割れて、それぞれにスライドして道を譲った。そこにはマザーボードの部屋よりも、もっともっと大きな部屋が隣接していた。


 もふもふは栞を連れて、その部屋へ入った。


 そして、もふもふは泳ぐのを止めた。

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