塔-庭園

 どんな具合に現状へ至ったのか、栞には定かでない。ダクトを抜ける所で耐えきれないほどの強風に背を押され、勢いよくダクトから出てしまって。


 そして今、栞は空中でゆらゆらと揺れている。右腕に絡みつくもふもふの尻尾が痛いくらいに締めつけている。もふもふは栞を尻尾にぶら下げて尚、ダクトの傍の壁に打ちつけられた梯子に掴まり、栞一人分の体重を支えている。栞は唯々呆然として、現状を理解するまでの束の間に、足元に広がる雲の海を眺め続けた。


 二人は今、雲の上に居た。緑の大地か、或いは水平線まで続く海原のように、真っ白な雲が遠くの空との境界線まで、ただひらすらに続いている。空は曇りなき群青色で、静謐で、壮観だった。


 二人は天を衝くほど巨大な塔の外壁にぶら下がっていた。


 栞は体が重力を忘れて浮き上がるほどの強風に吹かれて、漸く、自分が宙ぶらりんの状態であることに思い至る。見上げれば、必死なもふもふの姿。慌てて倣って梯子に掴まり、改めて足元の光景を望む。


 黒の外壁。それは平坦ではなく、出っ張ったり、窪んだり、鉄骨やパイプが飛び出したりして、適当に積み重ねた積み木か、或いは粗雑なアスレチックのようにも思える。ちょうど十数メートル下に鉄骨のジャングルジムゾーンがあって、もしもふもふの反応が少しでも遅れていたら、栞はあそこでメタメタになっていたかもしれない。


「あ、ありがと、もふもふ」


 もふもふは栞の腕から尻尾を解き、そして頬をぺちぺちと叩いた。それは好意的に解釈すれば、どういたしましてという意味かもしれない。とりあえず栞はそう解釈して、もう一度「ありがとう」とお礼を言った。




 もふもふがどこを目指しているのかは定かではないが、二人は暫く梯子を登った。時折もふもふが階段にしがみつくと、栞もそれを模倣した。すると、数秒してから必ず強風が吹いた。それは一瞬の油断で全てを吹き飛ばされてしまいそうなほどの強風で、二人は壁の装飾のようにじっとして、これらの強風をやり過ごした。




 梯子はまだまだ上層まで続いていたが、もふもふは梯子を離れ、再びダクトに入り込んだ。栞もそれに続いた。


 今度のダクトは真っ暗で、もふもふの尻尾に触れさせてもらい、栞は闇の中を進んだ。ダクトは頻繁に曲がりくねり、栞はすぐに方向感覚を失った。定期的に、もふもふが「きゅうぅ」と鳴いてくれて、栞も「うん」と声を返した。そんな時間が、随分、続いた。


 やがてダクトの終わりが見えてきた。四角い明かりが見えたとき、栞の心臓が小さく跳ねた。今度は気をつけよう。気をつけよう。気をつけよう。気をつけ――。栞は呪文のように唱え続け、そして二人はダクトの出口に辿り着く。




 ダクトから顔を覗かせたとき、一目で見えたのは広い草原、そして遠方に霞むビルディングの街並み。ダクトの出口は真下の草原から十メートルほどの高さにあって、しかも今度は近場に梯子なんてなかったから栞はどうするべきか悩んだ。もふもふはさっさとダクトから飛び降りて、猫のようにしなやかに草原に降り立った。残念ながら、栞には到底マネできそうにない。


 そんな栞を置いて、もふもふはとことこと草原を駆けて行った。栞は慌てて、何か使えるものはないかと、辺りをぐるりと見渡した。


 そこは鉄の壁に囲われた、楕円の世界だった。栞はその鉄の壁から突き出す、数あるダクトの内の一つから顔を覗かせていた。空にはドーム状に張られたガラスの屋根があって、しかも液晶のような構造なのか、薄くてふわふわとした風情の雲が投影されて浮いている。そんな偽物の雲で出来た大きな影が、ゆったりと草原の上を滑っていく。柔らかい風が吹き、漣のように背の低い草たちが揺れる。場所が場所でなければ、心安らぐ光景なのに。遠くの、どこか古びて影のある街並みに視線を送りつつ、栞は思う。




 少しして、もうどうしようもなくて、もふもふが何か持ってきてくれないかなあ、なんて栞が根を上げていると、遠くから奇妙な音が聞こえ始めた。


 ずるずる、ずるずる。それは何かを引きずるような音で、音源はやはり、もふもふだった。


 自身の何倍もの大きさの脚立に尻尾を絡みつけて、とことこと草原を駆けてくる、もふもふ。そのままダクトの真下まで来ると、器用に脚立の脚を開いて、バシンと叩きつけるように、ダクトの出口へ立て掛けた。栞は驚きの目でもって、もふもふを見つめた。もふもふは草原にちょこんと座って、栞が来るのを待っている。


 どうしてここまでしてくれるのかな。と、今更ながら、栞はふと思った。まあ、明確な答えは得られなかったけれど。

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