霧の街

 世界がけぶっているのは、降りしきる雨のせいだ。栞は細かい粒子の中で、白く、もふもふな生物を抱いて立っていた。もふもふは雨中にありながらも水気とは無縁で、乾燥したマフラーみたいに肌触りが良い。狸のような体躯に、身の丈よりも長大な尻尾、全身の毛は白く、耳はロップイヤーなる兎の如く長く垂れている。実に珍妙で、実に可愛らしい。つぶらな瞳で、栞を見ている。


「ナニコレ」


 栞の懐疑の矛先は、狸兎には向いていない。現状全てに向いている。五里先まで霧の煙っていそうなこの世界。栞は瞬くその前までは、確かに図書室に居たはずなのに。


 取りあえず、栞はもふもふの頭を撫でた。もふもふは「きゅうぅ」と声をあげ、大人しく頭を撫でさせた。よりもふもふな白い尻尾が、ぺしぺしと栞の頬を叩く。


 夢かな。栞は思った。でも匂いと音と冷たさでいえば、雨は現実のソレだった。

 夢だよ。栞は断じた。栞の常識的知見が、彼女の脳内でそういう判断を下した。


 栞はその場で腰を下ろし、腕の中のもふもふを解放した。もふもふは煉瓦畳れんがだたみの上に降り立ち、ちょこんと座り込んで栞を見上げる。両者ともじっと睨み合い、相手の初動を警戒する。そこへ――、



 ドーン。



 と、大きな音が割って入った。栞ともふもふがふわりと数センチ浮かび上がる。二人から五メートル程の距離。煉瓦畳れんがだたみを蜘蛛の巣状に叩き割り、でっかい槍が屹立している。


 栞は尻餅をついて、呆然とその槍を見遣みやった。もふもふは栞を盾にして、栞の陰に隠れている。


 槍は際限なく巨大で、全体像は霧に覆われて窺い知れない。少なくとも、学校に生えている桜の木の十倍くらいは太いかも。と栞は鯖を読んでみる。


 やがて、どこか遠くで再びドーンと音がして、更にそれが何度か続いた。もふもふは機敏に音源を察知し、その度に周囲をぐるぐると回って、栞を盾にせんとした。栞はじっと槍を見つめていた。槍は漆黒で、メタリックな光沢をその表皮に走らせていた。そして、微かに動いて震えていた。

 雨が止んだ。



 ドーン。



 と、また大きな音がした。栞ともふもふがふわりと数センチ浮かび上がる。二人から五メートル程の距離に突き立っていた黒槍が、煉瓦畳から引き剥がされて、瞬く間に姿を消した。


 それから三分、無音が続いた。霧だけが擬態語を伴って、さわさわと辺りに垂れ込めていた。遥か遠くでドーンという音がして、それから間もなく雨粒が帰ってくる。栞は雨に濡れながら、この世界のことを想った。


 ……もしかすると、ここは結構危ない世界?





 黒の兵器が闊歩する、雨の止まない戦争世界。エリーゼ・シュガーライトの奇怪な世界を、栞はゆっくりと歩み始めた。

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