第67話 気の迷い

 禿げかけた小太り男はかなり厳しい口調でなにごとかを言いつのっていたが、相手の若者は冷静だったようだ。若者は金城の村の方、西を指さして小太り男に何かを言っている。


 小太り男は若者への興味を失ったのか、雑木の蔭で草を食べている驢馬に跨った。いや、跨ろうとして足が上がらずに一度失敗した後、再び勢いをつけて足を上げてようやく驢馬に跨った。


 慌ただしく、小太り男は去って行った。といっても驢馬の歩みはゆっくりなので、人間が普通に歩く速度とほとんど同じで西へ進んでいった。


「あ、なんか、大事にはならずに、収まったみたいですね」


 ほっと安心の息をつきながら賀守一が、驢馬に乗った小太り男の背中を見送りつつ、手の甲で口許に付いた水を拭った。


「そうだな。行った先々で不測の事態が発生して行程が遅れるようでは困る。目指す天竺はまだまだ遠いし、この辺りは単なる通過点だ」


「そりゃそうですよね。心配しすぎはダメですよね」


 蒋師仁と賀守一は顔を見合わせ笑い合った。驢馬に乗った小太り男はもう行き去り、話し相手だった若者もまたどこかへ去ったのか泉の畔から姿を消していた。


 蒋師仁が軽く周囲を見渡して若者がどこへ行ったのか探してみると、青い驢馬の姿が目に入ってきた。


 劉嘉賓が、自分の乗る驢馬に水を飲ませている。……のではなく、驢馬が自らの意志で泉の畔まで来て、勝手に水を飲んでいる。劉嘉賓は背中に乗っているだけで、むしろ驢馬の方が主体で、劉嘉賓がここまで連れて来られたという立場だ。


 連れてこられた劉嘉賓だが、驢馬にねぎらいの言葉をかけながら、足を洗ってやっていた。


 驢馬に蹴られてしまうのではないか、と心中で心配した蒋師仁だったが、眺めていても特に何も起こりそうになかった。水を飲み終えた驢馬は、おとなしくその場に立っていた。劉嘉賓は甲斐甲斐しく驢馬の世話をする。人間が飼い主で驢馬が飼われているのか。あるいは驢馬が主人で人間の方がお仕えしているのか。


 気温は高くなりつつある季節とはいえ、泉の水はかなり冷たかった。それで手が冷えたのか、劉嘉賓は両方の掌を自分の頬に当てて温めていた。


「……あいつ、まあ自分で驢馬の世話をしようというところは、悪くないな。これで気持ちを入れ直してほしいもんだ……」


 と、独り言を呟いてから、蒋師仁は軽い戸惑いを覚えた。


 自称通事の劉嘉賓は不要な要員だ。さっさと長安へ送り返したい。というのが先刻までの考えだった。今でもその思いに変化は無い。


 だが今の一瞬に自分は、劉嘉賓を使節団の一員として認めるかのごとき思考をしたのではないだろうか? 気の迷いか?


 軽く息を吐きながら、蒋師仁は泉の水面を眺めた。水辺のところは浅い水深なので底に転がっている石までもが水を透して見ることができる。


 体力に自信のある蒋師仁にとっては、まだ長安を出発して少し進んだばかりのこの地点では、まだまだ疲労は蓄積していない。が、それでも泉での休息で体が少し軽くなり、またここからの長い行程に向かう気力も回復したように思える。


 水の透明さが、やや煤けていたような蒋師仁の胸中をも洗い流してくれたかのようでもあった。


 劉嘉賓が驢馬の鬣を優しく撫でていると、王玄策の出発の号令がかかった。


 蒋師仁は周囲を見渡した。連れている馬と駱駝たちが泉の畔に群がって水を飲んでいたが、特に喧嘩などはしていなかったようだ。先ほどは小太りの禿げかけた男と若者が諍いになりかけていたが、些細なことで言い合いになってしまう人間よりは獣の方が賢明なのかもしれない。


 特に喧嘩はしなくても、仲良くするつもりも無いらしい。馬たちと駱駝たちは整然と列を作り、それでもお互いの群れは距離を置いて、西へと進み出した。

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