第66話 どこにでもありそうな泉
「今から行くとなると、金城までは余裕で行けそう、かな? でも馬嵬には届かない。……ということは、無理せずゆっくり進んで金城まで、ってことでいいんじゃないかな?」
正使王玄策の言葉に、一同は頷いた。
「それでしたら、途中で昼頃に休憩するのは馬跑泉にしましょう。咸陽から金城へ向かうと、丁度中間くらいですし」
すかさず相談役の劉仁楷が更なる提案を意見してくれる。
「それで行きましょう。異論のある人は……はい、いませんよね?」
正使がそう決定したのだから、異論を唱える者など、いるはずもない。
かくして。王正使を先頭に、一団は動き始めた。
副使の蒋師仁が正使の隣に並び、歩きながら話しかける。
「王正使。あの劉嘉賓を連れ戻しに行くのに、随分と時間がかかりましたね? 途中で何かあったのですか?」
王玄策は蒋師仁とは目を合わさず、前だけを見ていた。道の轍と轍の間の高い部分に、小さな雑草が根をおろして生えているのを、王玄策は軽く蹴った。葉が一枚か二枚ほど小さくちぎれただけで、草は相変わらずその場に立ち続けていた。
「何も、特に報告が必要なことは。まあ、おいおい、偽通事のお荷物ぶりを話すから、楽しみにしていて」
「しかし、その、偽物だと分かっていて、やっぱり奴を連れて行くのですか? 今ならまだ追い返すことも可能だと思うのですが」
邪魔者である劉嘉賓を排除しようとしても、なかなか成功していないが、それでも蒋師仁は諦めてはいなかった。
相変わらず、王玄策は前を真っ直ぐに向いたままで、副使の顔を見ようとはしなかった。
「偽物、ね。……確かに今回の旅は全体として、偽物に翻弄される旅になると思う。それで一切動揺するな、とまでは言わないけど、過度に右往左往するのも良くないと思うのよねー。そのつもりで心構えをお願いしたいのよね」
「はあ。そうですか。……んでも、心構えができていても、あの劉嘉賓という奴は我慢ならないですけどね」
雑談、というよりは蒋師仁にとっては上司に対して愚痴を零しているような感じであるが、足を止めずに歩いていれば先に進む。やがて一行は、小さな村に差し掛かった。村と称するよりも更に小さい集落というべきか。郊外に泉がある。
いや、泉の側に自ずと人が集まって小さな集落が生成された、という形だろうか。
鶏から卵が生まれるのか、卵が育って鶏になるのか、を考えるようなものだが、旅人にとってはどちらが先でも構わない。遠く天竺に向かう使節団も、昼の頃合いで丁度良いということで、泉の畔で休憩することにした。
泉自体は、どこにでも存在しそうな、何の変哲もないものだった。岩場から清水が湧き出て来た、といった感じだろう。周囲には多少雑木が生えていて、風光明媚といっていいのか、単にさびれているだけなのかは、見る人の主観によって変わりそうだ。
蒋師仁は泉の畔の雑草が生えた上に膝をついて座り、手甲を外した両手で水を掬った。冷たさはあるが、肌から骨に突き抜けるほどのものではない。口をつけて飲むと、胃の腑から冷たさと共に渇いた体に浸透して疲れを癒す。水自体は特に旨いでも不味いでもないが、空を舞う小鳥の鳴き声と相俟って、体内に蓄積した汚れの砂塵を洗い流してくれるような感覚だった。
と、不意に、安寧を破るような怒声がやや離れた場所から聞こえた。蒋師仁が顔を上げてそちらに視線を送ると、小太りで額の禿げ上がった男が、痩身の若者に対して強い口調で何かを言っていた。
「なんでしょうか? 揉め事でしょうか?」
蒋師仁のすぐ右隣から声が聞こえた。兵士の一人、賀守一だった。
一行は天竺へ向かう使節団であり、この地方の治安維持のための役人ではない。だが、目の前で揉め事が起きているのなら見過ごせないというのが人情だった。
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