第58話 目標まであと少し

 行き倒れの女は、弱った体力の中からかすれた声で喋っている。それも癖の強い天竺の言葉だ。


 王玄策と劉嘉賓は、二人で話す時には唐語でしゃべっていた。


「んー、そうかな? でも、成都の方から有雪国へ行く道のあるんでしたっけ?」


「道は多分無数にあるはずよ。その内の幾つを私たちが知っているかどうか、その選択肢の中からどの道を選んで通るか、というのが問題なんでしょ。それこそ、師子国から船で海を渡って唐に来る道だってあるんだから」


「船で移動するのって、それって道として数えていいんですかね?」


「海路だってれっきとした道でしょ」


 天竺と唐を結ぶ道は複数ある。数だけならかなり多いといえる。ただ、どの道を使うにしても、長く険しいことに変わりは無いのだ。


 劉嘉賓との会話が一段落すると、再び行き倒れ女に語りかける。唐の言葉と天竺の言葉を自在に使い分ける。


「それであなた、今後どうするつもりなの? 私たちは西に向かう旅の途中なので、あなたの面倒をずっと見てあげることはできないのだけど」


 女は、すみません、と恐縮した。助けてくれた王玄策と劉嘉賓に迷惑をかけているという意識はあるのだ。


 弱々しい声ではあるものの、女はあくまでも高僧に会いたいと語った。


 ここで断念してしまっては、天竺から震旦までの長い道のりの努力が無駄になってしまう。


 過酷な気候と、高い山地の旅における特有の苦難に苛まれた有雪国も厳しかったが、震旦に入ってからの道程も辛かったという。


「なんかこの女の言っていることはよく分かりませんね。天竺よりも唐の方が道がきついと言っていませんか? 唐ならば、長安から天水とか蘭州や涼州あたりまでは人の往来もあるだろうし、普通に旅することができるんじゃないですかね?」


 長安を出てから咸陽に至るまでだけでも苦労して、野生の驢馬と出会うまで己の足を確保することすらできていなかった劉嘉賓が、自分の不甲斐なさを度外視して偉そうに言った。


「普通に旅する、って簡単に言うけど、それ自体が難しいことでしょ」


 更に女は語り続けた。震旦に入ったからには、すぐに都に着いて、高僧に会えると思っていた。


 だが、大唐帝国は、天竺人の彼女が想像していた以上に広大だった。


 東へ東へ、歩けども歩けども都に到達できる気配は無かった。


 もちろん、天竺の言葉が通じる人物と出会うこともほとんど無い。それは有雪国でも同じだったが、次第に長旅の疲れが蓄積して気力が保たなくなってきた。


 これだけ歩いてきても、まだまだ都にたどり着くことができないのか。という先が全く見えない絶望を抱いたままの徒歩の旅は苦行だった。


 言葉が通じないので、食べ物を手に入れるのも難しい。情報も容易には得られないため、道程の難所を避けることもできなかった。


 ふと、喉が渇いて、川の水の音が聞こえるような気がしたので、道から少し外れて水を飲もうと思ったのだが、その辺りで記憶が途切れてしまったのだという。


「え? まだまだ都に到着できない? 都って、洛陽じゃなくて長安のことでしょ?」


 彼女の言葉に、王玄策は矛盾を感じずにはいられなかった。


 ここは咸陽の郊外だ。洛陽までならまだまだ距離もあるが、長安までなら、もう間近といってもいい。


「王正使。もしかして彼女は、唐の言葉も使えないようですし、長安までもう少しだということを誰からも聞いていないんじゃないですか?」


「あっ……」


 目標まであとどれくらいなのか分からなければ、道のりの遠さに絶望してしまうこともあるかもしれない。逆に、目標まであと少しの努力で到達できると分かれば、最後の気力を振り絞って再び歩き出せるかもしれない。


「そうね。劉嘉賓の言うとおりかもしれないわね。だったら、教えてあげなきゃ」


 ゆっくりと、あたかも干し飯を唾液で湿らせて柔らかくするようにして、王玄策は天竺の女に説明した。


 今、居るこの場所が、大体どの辺りであるのか。


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