第57話 追いかけて摩訶震旦

 ゲンジョウ法師が故国に帰ってしまった。彼女は泣いた。


 泣いたが、彼女には人並み外れた行動力があった。


 高僧を追いかけて、遥か東の果てのマハーチーナー国まで追いかけることにした。


「す、すごいな。若い女なのに、たった一人で天竺から唐へ旅して来たってことかな? そんな女、今まで誰もいなかったんじゃないかな?」


 劉嘉賓が抱いた疑問は正しくはなかった。


 道中ずっと一人で旅をしていたわけではない。その時その時で、一時的な同行者がいたこともある、という。それは、唐から天竺へ行ってまた唐へ戻って来た玄奘法師も同じはずだ。


「まあ誰もいないってことは無いわよね。師子国から来た鉄薩羅という比丘尼の記録も残っていることだし。そちらは歩いて来たんじゃなくて船みたいだけど」


 南北朝時代の宋の景平元年のことだ。西暦だと423年なので、現在より二〇〇年以上昔のことである。師子国というのは天竺よりも更に海を越えた向こうの島、スリランカのことだ。


「船で天竺から来た尼僧なんていましたっけ? だけど、そう言われてみれば自分たちって、わざわざ陸路で険しい道を通って苦労して遠い天竺に行くより、船に乗って海から行く方が楽だったんじゃないですかね」


「忘れているかもしれないけど、私たちはただ天竺に行くだけじゃなくて、吐蕃国にもネパール国にも寄って行くのよ? 船じゃ行けないでしょ。それに、船旅だって決して楽なもんじゃないはずよ。まずは船酔いに耐えるところから始めないとならないし」


「うっ……船酔いって言葉を聞いただけで酔って気持ち悪くなりそうです」


 行き倒れの女は、陸路で天竺から高僧の故国であるマハーチーナー国までやって来たのだという。


 ハルシャ王の都から、ティーラブクティーを通り、ネパール国を通り、有雪国を苦労して通過して、マハーチーナー国の領域に至った、のだそうだ。


「ティーラブクティー?」


 王玄策と劉嘉賓は、二人それぞれ五〇年分、合わせて一〇〇年分くらいの変な表情で、お互いに顔を見合わせた。


「王正使。自分の梵語に関する知識が間違っていなければ、ティーラブクティーというのは、地方とか辺境とか田舎とか、そういうった意味合いの語ではないでしょうか?」


 王玄策は黙って頷き、無精髭の若者の言葉を否定しなかった。


「だけど、そんな地名あったかしら? そんな地名のところを通った記憶は無いんだけど。……でも、玄奘法師の書いた『大唐西域記』の中に似たような名前の地名があったから、もしかしたら、そこと勘違いしているんじゃ……」


「えっ、そんなのありました?」


 劉嘉賓は困惑の度合いを深め、意味も無く顎の無精髭を右手の掌で撫でた。


「至那僕底国、って、あったでしょう? 覚えていない?」


「ん? それってチーナブクティ、ですよね。でもそれは、地方って意味の梵語じゃなくて、摩訶震旦というか秦の桃や梨を持ち込んで植樹したからとか、そういう地名の由来だったと思いますけど」


 天竺では、唐のことをマハーチーナー国と呼んでいるらしい。漢字で書くと摩訶震旦だ。発音の由来は、かの始皇帝の秦であるらしい。


「それに、場所が全然違うとも思うのよね。至那僕底国は北天竺の迦湿弥羅国の近くだから。玄奘法師がそちらを通ったのは分かるけど、天竺の都から追いかけてネパール国や有雪国を通って来た彼女が、至那僕底国や迦湿弥羅国を通るとは考えられないのよね……」


「チーナブクティ……カシミール……意味が分かりませんね、全然。どういうことなんでしょう?」


「うーん、たぶん、彼女の勘違いだと思うわよ。言うなれば私たちが、長安を出発して成都を通って有雪国へ行ってネパール国を経て天竺へ行く、って言っているようなものじゃないかしら」


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