第56話 流れ星の涙

「天竺の言葉を聞き違えている可能性がある? そうでしょうか? 自分は間違っていない自信ありますけど、王正使はそうではないのですか?」


 ここぞとばかりに、これから未来一〇〇〇年で最もかっこつけて気取った表情をして劉嘉賓は偉そうな口調で言った。


「使節団の中で、過去に天竺に実際に言って現地の生きた言葉を聞いたことがあるのは、たぶん私だけのはずよ。私が、天竺の言葉に関しては最も通暁しているはず。私が言っているのは自信が無いという話ではないわ。自信はある。だけど、慢心は禁物。例えばの話、かつて西域から渡来した仏図澄という高僧がいたのを知っているでしょう。でも仏図澄という漢字表記で完全に統一されているわけじゃない。仏図磴だったり、あるいは仏図橙だったり、他の字が使われていることもあるわ。いずれも、梵語の発音の聴き取り方が異なるのが原因なのよ」


「随分大昔の人ですよね、仏図澄……天竺だかどこだか出身の和尚でしたっけ?」


 仏図澄とは、王玄策や劉嘉賓が生きる今の時代から遡ること三〇〇年ほど昔の晋の時代に西域からやって来て活躍した僧侶だ。


「書物によって表記が色々あるのって、単なる誤字じゃなかったのですか?」


「まあ、書物に残す場合には、誤字の可能性もあるのかもしれないわね。でも私たちは今、彼女の言葉を聞いて判断するだけよ」


 風で乱れた髪を片手で抑えながら、王玄策は質問を続けた。まだ、肝心なことが何も分かっていない。


「あなた、年齢は、いくつ? 何故、唐国に来たの?」


 王玄策が天竺の言葉で尋ねる。年齢に関する質問は相手にもきちんと通じたようだ。16、という答えが返ってきた。


「えっ、そんなに若いの? 外国人だから顔を見ただけでは若いのか、もっと年齢いっているのか判別できなかった。で、でも、そんな若い人が、なんでわざわざ天竺から唐なんかに来たんでしょうかね?」


 彼女の自己申告が本当ならば、劉嘉賓よりも若いことになる。王玄策よりも若い。使節団員たちは若者が多く構成されているが、その中で最も若年であろう黒ずくめ王令敏と同い年くらいだろうか。


 16歳だと言われてから、改めて行き倒れ女の姿を見てみると、顔の皺は少なく肌に張りがあるようだ。ただし、唐人と天竺人の顔の特徴が違う上に、肌の色も違うので、見た目では分かりにくいのだ。更に、極度の疲労と空腹のため、皮膚の潤いを失い顔色が悪くなっているというのも年齢判断を難しくしている要因となっているであろう。


 女は、途切れ途切れながらも、自らのことを語り続けた。


 マハーチーナー国から天竺国へ、偉大な仏僧が来たという。ゲンジョウという名らしい。


 その仏僧は身毒地方の各地を巡った。その教養の深さ、徳の高さは各地で評判になったという。


 彼女もまた、ハルシャ王の都で、その高僧を見た。


 彼女自身も若いながらに仏法に帰依して修業中の身だったので、ナーランダの高僧たちと梵語で論じ合っても全く引けを取らないどころか、むしろ勝っているゲンジョウの姿はあまりにも眩かった。


 高僧はずっと天竺にいるものだと、彼女は思っていた。


 だが、マハーチーナー国に帰るという。仏教発祥の国にて本来の仏教の姿を学び、それを故郷に伝えたい、という。


 高僧が故国に帰るという事実を知った時の、彼女の落胆は大きかった。


 その時の悲しみを思い出したのか、彼女は静かに涙を流し始めた。


 少し垂れ気味の目尻から溢れだした透明な滴は、黒っぽい頬を伝い落ちて、痩せた顎から、首筋に流れた。光を反射して、流れ星のようだった。


「ど、どうしたの? いきなり泣きはじめて……ん?」


 左目から落ちていった涙は首筋を斜めに伝い落ちた。その首筋には、黒子が三つ並んでいるのを、王玄策は発見した。


「参宿、みたいね」


 参宿とは冬の空ですぐに目に付く星座の名前だ。明るい星が三つ近い距離で並んでいる。


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