第55話 天竺との早すぎる邂逅

 再び、劉嘉賓と王玄策はお互いに顔を見合わせた。


 劉嘉賓はここ一〇〇年で最もヘンな顔をしていた。


 王玄策は、この先一〇〇〇年で最も渋い表情をしていた。


「え、えっと、ビハー……クスニー? それって、名前ですか?」


 天竺語で劉嘉賓が言う。使節団の一員として選ばれた、いや、勝手について来ただけあって、これから赴く先の言葉については通暁しているのだ。


「こ、ここは、ど、こ? あ、わ、わた、しの、こと、ばが、分かる、の、で、すか?」


 上目蓋と下目蓋の間に薄く隙間を作っただけの女の目に、光が少し戻った。


「はい、私たちは、あなたの使う、天竺の言葉を、聞くことも話すこともできますよ。だから、落ち着いて。まだ喉が渇いていますか?」


 優しい声と口調で王玄策が語りかける。いかにも柔らかい、女性らしい穏やかな話し方だった。劉嘉賓に対してのような、助走を付けて跳び蹴りを食らわせるかのごとき話し方とは霄壌の差だった。


「おなか、す、きまし、た」


 衰弱のための途切れ途切れの発音のかすれた声。天竺語の訛りの強さ。王玄策にとっても劉嘉賓にとっても聞き取り難い言葉だったが、空腹を訴えていることは容易に理解できた。状況からある程度想像できることだった。


「だったら、これを食べてください。炊いた米を乾燥させた乾し飯です。堅くて水気が無くて食べにくいから、水を口に含みながらゆっくり食べるといいですよ」


 それこそ噛んで含めるように、懇切丁寧に説明する王玄策。劉嘉賓に対しては見せない優しさだ。


 言われた通り、行き倒れていて意識を取り戻したばかりの女は、数粒ほどの白い小さな米粒を口に入れた。同時に、王玄策に手伝ってもらいながら、瓢箪から水を飲む。


 乾いた黄土の大地が雨水を吸い取るように、乾燥して固く小さくなっていた米は、女の口の中で潤いを取り戻して、次第に柔らかさを思い出しつつあった。


 ゆっくり、顎を上下させて、噛む。上の臼歯と下の臼歯の間に挟まった米粒は、それでもまだ固さが残っていて、回復したばかりの弱った女の顎では噛み潰せない。


「食べながらでいいから、お話を聞かせてもらえるかしら?」


 王玄策は、まず、自分たちが何者であるかを説明した。大唐帝国から天竺王への正式の使節団だ。秘匿にするべきことでもないので、正直に話した。天竺へ向かう使節団の者だからこそ、これから向かう先である天竺の言葉で会話することができるのだとも説明する。


 女が米粒を、水とともに飲み込む。この程度の量を食しただけで空腹が満たされることもないだろうが、弱った体では急に大量に食べても内蔵が受け付けないだろう。


 少しずつ、女は己の身の上を話し始めた。


 女は、天竺から来たという。天竺の言葉を話しているのだから、天竺出身なのだろうということは、王玄策にも劉嘉賓にも想像がついていたので、驚くような情報ではなかった。推測を事実と確認できたに過ぎない。


 一口に天竺と言っても広大だ。女がいたのは、ハルシャ・ヴァルダナ王の都だという。


 女は、早くに両親を亡くし、兄と二人暮らしだった。兄は、王の軍隊の一員として仕えていた。


「王正使、彼女の言っていること、理解できていますか? 自分は、あまり自信が無いです。なんというか、発音のクセが強くて、正しく言葉の内容を理解できていないかもしれないです」


 唐の言葉で劉嘉賓が言った。行き倒れの天竺女には唐の言葉は理解できないようだ。


「私もあまり自信は無いわね。でも、天竺の中でも王都の出身なら、そんなに訛っているはずは無いと思うんだけど。……もしかしたら彼女の言っている内容に嘘があったり、彼女自身が誤解していたり、あるいは私たちが天竺語を聞き取り損なっている部分があるかもしれないわね。聞き取った内容を鵜呑みにしすぎない方がいいかもね」


 疲れたような表情をして、劉嘉賓はうつむいた。天竺との早すぎる邂逅は、面倒臭さだけが先に立つようだ。

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