第54話 当然想定できるはずの事態
まずは倒れている者の体勢を整える必要がある。なので王玄策は触れていた瓢箪から手を離した。
「劉嘉賓、そっちを持ってよ」
王玄策は倒れている女の肩の下に手を差し入れ、両腋を抱える感じで持ち上げようとした。劉嘉賓に対しては、顎をしゃくって、女の足の方を示した。
「分かりました。足を持てばいいんですね」
無精髭の若者の劉嘉賓、動きは遅いものの、それでも使節団長である王玄策の指示に素直に従うのは悪いことではない。と思ったのも束の間だった。
「あっ、駄目駄目駄目。待った待った待った!」
「えっ?」
戸惑いの表情を隠すこともなく、劉嘉賓は王玄策の方を窺った。朝令暮改どころではなく指示が頻繁に変更になれば、困惑を抱くのも当たり前だ。
「この人、見た感じだと、かなり若い女の人よね。そんな若い女の人の足を、若い男が触るというのは、問題あるわね」
「え? 手伝えって言ったり、今度は触るなって言ったり、なんか扱いが理不尽じゃないですか?」
「ああ、ええと、ごめんなさい。確かに理不尽かもしれないけど、でも劉嘉賓が彼女の足に触れるのは認めるわけにはいかないわ」
「女人に触れるのは駄目だと言うのなら、分かりましたよ。自分は触りませんから、その人の介抱は王正使が一人で全部やってください」
不機嫌さを隠すどころか、寧ろ積極的に顔の表情に出しながら、劉嘉賓は言い捨てた。しゃがんで手を差し伸べようとしていたのを中止して立ち上がり、強い西風に少し煽られる形で、足場の不安定な斜面で劉嘉賓はよろけた。
どうせやっても上手く行かない二人の連携だったが、連携すること自体を禁止して、王玄策は自らの言葉の責任を取ることになる。自分一人だけで、苦労して作業をする。
時間はかかったが、行き倒れ女の頭の位置を高く、足を低く、という面倒な処置を完了した。
ようやく、腰の瓢箪の出番となった。行き倒れ女の口許に、瓢箪の飲み口を近づけて、少し傾ける。
少し色を失っている女の唇の端から、水が零れ落ちる。
「意識を失っているから、ただ口に水を注いだだけじゃ駄目なんじゃないですか?」
手出しを禁止された劉嘉賓は、驢馬の鬣を撫でながら口だけを出した。
「口移しで無理矢理飲み込ませる、みたいなことをしないと、無理のような」
「うるさいわね。少しだけど喉が動いているから、飲んでいるのは確かなはずよ」
唐の人とは肌の色が違うので、顔色の変化も分かりにくいが、水を飲んだことによって行き倒れの女は若干なりとも体力を回復したらしい。
「あっ、気が付きましたか!」
薄目を空けた女は、王玄策の声に気付いて、意識を取り戻しつつあった。
王玄策は瓢箪を置くと、女の背中に手を添えて、女が上体を起こすのを助ける。まだ意識がはっきりとしないせいか、女の動きは緩慢だった。それでも急な坂に頭を上にして足を下にして寝かせられていた格好なので、王玄策の介助もあったため上体を起こして平衡を取り戻すのはさほど難しくはなかった。
「あ、ありが、とう。……あなた、たすけて、くれたのです、か?」
かすれた女の声を聞いて、王玄策と劉嘉賓は思わず顔を見合わせた。
「あっ……そうか、王正使、これは最初から予想できたことですね」
女の話す言葉は、耳馴染みの少ないものだった。唐語ではない。唐の人ではなく容貌からして外国人なのだから、当然想定できるはずの事態だった。
言葉は天竺語だった。それもかなり訛りと癖が強い。
「あなたは、ここで倒れていたんですよ。私は王玄策といいます」
王玄策も天竺語を使って女に優しく語りかけた。
これから天竺へ向かう使節団なのだ。天竺の言葉を使える者を随行員として厳選しているし、正使である王玄策は天竺の言葉も充分に堪能だ。
「わ、たしは、ブハー、ク、スニー、で、す」
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