第53話 たった一人の旅人
「い、生きているのですか?」
真剣な口調で劉嘉賓が問いかける。顔は緊張しているが、自らのお尻をさすりながらなので傍目には格好の良いものではなかった。
「生きている! 間違いない!」
王玄策は即答で断言した。
倒れている人物は、俯せだった。それも、布を巻いている頭を下にしている。川に降りようとして法面を下っていて、そのまま前のめりに倒れたかのようだ。生え茂っている雑草の中に顔を埋めているままだ。
「死んでいたら、もうとっくに鴉に食われ始めているはずよ!」
王玄策は鴉の生態を知悉しているわけでもなく、言っていることに特に根拠も無かったが、介抱するからには生きていると信じたかったのだ。
「え、でも、さっき来る時に見かけた鴉って、まだ生きている虫を食っていたんじゃないですかね?」
だが王玄策にとっては、劉嘉賓の声など耳に入っていなかった。倒れている人物に意識を集中していた。
俯せに倒れた人物は、汚れた粗末な衣服を身に纏っていた。元の色は白だったのかもしれないが、土埃で汚れたせいか、くすんだ陰と歪んだ闇を足して掻き混ぜたような色合いになっていた。
「おい、しっかりしろ! 目を覚ましなさいよ!」
「だから本当に生きているんですか?」
「まだ息があって、微かに背中が動いているだろう。それに、皮膚にも暖かみがあるわよ」
王玄策の白い手が、倒れている人物の首の後ろに触れていた。日焼けと汚れのせいだろうか、倒れている者の肌は随分と黒ずんでいるようだった。
「この人、水を飲もうとして川に降りようとして、そこで行き倒れたんですかね?」
まあそうなのだろう。と王玄策も思っていたが、わざわざ口には出さなかった。喉が渇いていたというのなら、水を飲ませてやった方がいいだろうと判断する。
王玄策は腰に瓢箪を提げている。双峰駱駝のような黒い痣があるのが特徴だ。中には水が入っている。だが、相手が俯せのままでは水を飲ませるのは無理だ。
なので、ひっくり返して仰向けにさせようとしたが、なかなか上手く行かなかった。急な斜面にいるため王玄策自身も不安定な体勢だし、雑草が茂っている上なので、動かしにくい。
「黙って見ていないで手伝いなさいよ」
言われて劉嘉賓も緩慢に動いた。倒れている者を挟んで、王玄策の反対側に移り、傾斜に苦労しながらも倒れている者を仰向けにさせる。
その拍子に、女が頭に巻いていた布が外れた。
そう、倒れていたのは女だった。
仰向けになってみると、胸部には二つの膨らみがあった。顔には髭は無く、体の線も全体的に細かった。
頭に巻いて被っていた布が外れたことで、特異な髪型が明白になった。黒髪ではあるが、普通の女にはあり得ない程に極端に短い。
「女なのか? それにしては、どうして髪を短くしているんでしょうか? これじゃまるで、剃髪していた僧侶が還俗して伸ばし始めたところ、といった感じじゃないですか」
「さあ? 旅の邪魔だから短くしていただけじゃないかしら。この女の人、相当遠い異国からここまで旅をしてきたようだし」
女の顔は、一見して、唐人のものではなかった。肌の色が濃いのも、日焼けと汚れだけではない。元からこういう色なのだろう。
「女が、遠い異国から唐まで旅ですか? たった一人で?」
「ここまでずっと一人だけだったかどうかまでは分からないわね。途中で仲間とはぐれたのかも。……それよりも、女の人なんだから、男がみだりに触ったりしたら駄目よ」
まるで飼い犬を叱りつけるような厳しい口調で言われて、劉嘉賓は女の頬に触れていた手を慌てて引っ込めた。
「早く水を飲ませましょう」
王玄策は自らの腰に提げた瓢箪の、くびれた部分を持つ。
「でも、頭が下のこの体勢じゃ、水を飲み込めないんじゃないですかね?」
「あ、言われてみれば確かに劉嘉賓の言う通りね。頭と足の向きを逆にしましょう」
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