第44話 馬嵬が目標
早朝からすったもんだがあったが、問題を起こしているのはあくまでも一部の者、もっと明確に言えば一人だけである。
他の使節団員たちは、秩序を乱すことなく着々と出発の準備を整えて咸陽の街を出て街道に集結していた。馬や駱駝たちも勿論勢揃いしている。
「ん? 蒋副使、なんか、妙に残念そうな表情をしているように見えるわね」
「えっ? そんなことないですよ王正使。そんなにがっかりしているように見えます?」
蒋師仁は作り笑いを浮かべた。我ながらぎこちない気持ち悪い顔になってしまったと苦い思いを抱いた蒋師仁だったが、王玄策の方はどうとも思っていないようだった。
目を大きく見開いて、王玄策は周囲を見渡す。馬の尾のように結った王正使の黒髪が西からの風に踊る。
「よしよし。長安を出てすぐのところだから当たり前だけど、まだ一人も脱落者は出ていないわね。途中の泉で馬や駱駝に水を飲ませて、金城を通過して、日が暮れる頃には一気に馬嵬まで行くのが目標よ」
西を向いた王玄策は、睫毛の長い目蓋を少し伏せた。向かい風なので砂塵が目に入るのだ。
「馬嵬駅、ですか? そこは咸陽からだと結構距離がありますよね? 今日中にそこまで到達できるでしょうか?」
大胆な王玄策に対して、蒋師仁は慎重だった。体力自慢の蒋師仁一人だけだったならば、徒歩であっても馬嵬まで行くことは可能だっただろう。だがこの使節団は順調には行かないのが通常だ。
「そんな消極的な姿勢じゃ良くないわね。天竺という遠いところまで行くのだから、少しでの多くの距離を稼ぐという心構えが最初から必要だわ。勿論、道程は厳しく険しく、諸々の危険も潜んでいるから、そういうった要素を甘く見ないように戒めなければならないけど」
「はあ、そうですね」
蒋師仁は生返事をしただけだった。
そんな蒋師仁の気持ちを察してかどうか、横に並んで立った劉仁楷が蒋師仁の肩を軽く叩いた。
「心配ばかりしていても仕方ないですよ。この先の旅もなるべく快調に行けるように、諸々の手配はしておきましたから。蒋副使も気持ちを大きく持ってください」
大柄な蒋師仁よりも更に高い身長。そして妙に大きな顔と長い髭。特徴ある容貌の劉仁楷が日輪のような輝かしい笑顔を浮かべていた。
「はい。そうですね世話役。励ましていただき、ありがとうございます」
下手な辻講談師が読み上げる棒読み台詞のような平坦な抑揚で、蒋師仁は社交辞令としてお礼だけ述べた。
心の中では、
「アイツはあなたの甥なんですから、きちんと面倒見てやってくださいよ」
と、ぼやいていたが、実際には口には出さなかった。
周囲を見渡しても、その世話役の甥の姿は見あたらなかった。
だが、ヤツはどこかには居るのだろう。驢馬を連れてくるため、少し遅れているのかもしれない。
大唐帝国の使節団の一員として天竺へ行く覚悟はあるらしいので、姿は見えなくても必ず、ついて来ているはずだ。
「向かい風ですけど、出発しましょう。いざ、西へ」
大きな目を細めながら、王玄策が宣言した。
蒋師仁も風上に顔を向けた。砂埃と一緒に、どこからともなく馬糞臭いニオイも漂ってくる。黍畑の多い街道沿線の農民が、畑に撒いているのだろうか。
目に砂埃が入るということは、口を大きく開けていたらそちらにも遠慮会釈なく入り込むということだ。
王玄策も蒋師仁も口を閉じ、無駄な会話をせずに西に向かって歩き始めた。後に続く兵士たちも、無駄話をせずに進む。
土を踏みしめる跫音が風に流されて東へ去っていく。
今日は、話し声の少ない静かな旅になりそうだ。
そう蒋師仁が思った時、単純な考えを否定するかのように後方から騒ぎの声が起こった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます