第45話 驢馬孤影

 またかよ。


 蒋師仁の心中に最初に浮かんだ言葉は、それだった。


 王正使や蒋副使や世話役といった、自分たちの目の届かぬ後方で、必ず何かが起こる。


 小さく舌打ちしながら、王玄策が正使の務めとして、後方を確認しに行こうとするのを、蒋師仁は片手で遮って制止した。


「お待ちください王正使。こういった、何か事態が発生した時に、なんでもかんでも王正使が対応していたのでは、王正使の負担ばかりが増えてしまいます。正使一人だけに負担が偏らぬように副使という存在が居るのです。ここはわたくし蒋師仁が見てまいりましょう」


 言うだけ言って、正使に反論の機会を与えず、ほぼ全速力に近い速度で蒋師仁は走って使節団員たちの後方へ向かった。


 ざわめきは、まだ収束していない。不安や戸惑いのような声と共に嘲笑う声も混じり始めているように感じながら、蒋師仁は走る速度を緩めて荒い息をつきながら立ち止まった。


 そこには、蒋師仁ほどの豪傑であっても一瞬言葉を失うような、天の涯で行き止まりにぶつかって行き場を無くした黄河が苦悶にのたうつような、驚きの光景があった。


「な、……何をやっているんだ、……文士さんよ?」


「あっ、蒋副使、いいところに来てくれました。助けてください!」


 使節団の最後尾。馬の群れの最後尾を監視している兵士の更に後ろに、大きく離れて劉嘉賓が居た。


 昨日捕獲した野生の驢馬の背中に跨っていた。文士劉嘉賓は使節団で唯一、自分の足ではなく獣の四つ足に頼って任せている人間ということになる。


 驢馬は、馬よりも更に小柄で、歩みも遅い。


 だが、ゆっくりした足取りであっても、一歩一歩、着実に、劉嘉賓を背中に乗せたまま驢馬は東へ進んでいた。


 東へ、である。


 使節団は遥か西のかた天竺を目指しており、昨日長安を出発して西へ進んでいるところである。


 蒋師仁は、騒ぎの原因を理解した。使節団員たちは、劉嘉賓が東へ逆行しても、騒ぎはしても引き留めはしなかったのだ。


「蒋副使、早く助けてください!」


「助ける……って、何をどうやって助けるんだ?」


「驢馬の絶影が、勝手に東へ進んでしまうんです。違うぞ反対だ、と言っても聞いてくれません。なんとか、西へ向かうよう言い聞かせてください!」


「それ、驢馬に対して人間の言葉で語りかけたから通用していないんじゃないかな? ちゃんと驢馬の言葉で説明したか?」


「なんですか! 驢馬の言葉って。こっちは大真面目なんですから、ふざけていないで西に向かわせてください!」


「……まあ、野生の驢馬だからな。人間の指示を聞くよう訓練を受けていないなら、こんなもんか。文士先生は唐の言葉だけではなく、天竺の言葉も、吐蕃の言葉も、あと、各地の言葉にも通暁しているんじゃなかったでしたっけ? だったらそれを応用して驢馬の言葉で説得してみたらいいんじゃないですかね?」


「驢馬はヒーホーしか言わないじゃないですか! 昨日、腰を抜かしそうになる程びっくりしましたよ!」


 これには蒋師仁も同意した。普段は寡黙な驢馬が、突然に奇声ともいうべき鳴き声を発したら、初めて聞く者は驚くだろう。


 だが、劉嘉賓が叫んでも喚いても、そんな騒ぎは気にせずに驢馬は東へ進み続け、西へ方向転換してくれない。


 その時、蒋師仁の胸の裡に一筋の光明が閃いた。


 一気に全ての問題を解決しようとして西へ向かわせようとするから上手く行かないのではないか?


 一つ一つ、段階を踏んでみてはどうだろうか?


 東へ歩いている驢馬を、まずはその場に立ち止まらせてみてはどうか? それから、西へ向かわせることを考慮してはどうであろうか?


「おい、驢馬、止まれ」


 蒋師仁の言葉は無視された。驢馬は、竹筒を斜めに斬ったような耳を震わせて、まとわりつく虫を追い払いながら、歩みは止めなかった。

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