第33話 北からの流れ

 ここで話題に出ている魏というのは、隋による統一以前の南北朝時代の北朝の国だ。三国志に登場する魏呉蜀の魏と紛らわしいので、北朝の魏ということで北魏と呼ばれる。


 その北魏は、北方の騎馬民族のうちの一つである鮮卑によって建国された国だった。


 かなり長続きした王朝だった。騎馬民族の武力を元に、支配領域もかなり広げて、洛陽も統治下に収めたくらいだ。北魏は、かなり有力な王朝だった、ということだ。


「そうだ。分かったぞ。魏が鍵だったんだ」


 思わず、手を叩きながら蒋師仁は叫んだ。といっても、周囲の部屋に騒音が迷惑にならぬよう、手を叩くのも叫ぶのも小さな音を出すだけという配慮を咄嗟にしていた。


「副使、何が分かったのですか?」


 集中を切らさず厳しい表情のまま、賀守一は顔だけ上げて蒋師仁の方を見た。


「賀守一の書いている文字の書体に違和感を覚えていたんだ。奥歯に物が引っかかったようなもどかしい不安な状態だったが、ようやく謎が解けたぞ」


 蒋師仁は得意げな表情で、賀守一の続いた眉のあたりを見据えた。


「これは、魏書体だ。どうだ、そうだろう」


 小さな灯りに照らされて、顔の半分が明るく、顔の半分が闇に包まれている賀守一が、一瞬の間を置いて、首肯した。


「勿論そうです。さっきも言った通り、我々賀氏一族は北朝の魏時代の名族だったのです。だから一族として、魏時代の諸々の伝統を継承しているのです」


 蒋師仁が指摘した魏書体というのは、北魏風の書体、という意味だ。


「やはりそうか。王羲之書聖の系統の南朝風じゃないんだ。わざわざ主流を外した北朝風の書を継承するとは」


「別に賀一族だけじゃないですよ。他にも北朝風を継承している家もありますよ。自分は顔勤礼先生から書法を学んでいましたけど」


「まあ、こう言ってはアレだが、今、この時代に全盛の王羲之書聖風ではなく、あえて主流から離れたところにある北朝風の書を嗜むというのは、かなり珍しいというか、思い切った選択だな」


「そ、そんなに北朝風は駄目ですか? 副使」


 賀守一は文字を書くのを諦めて、筆を筆置きの上に載せた。


「駄目とは言っていない。だけど、皇帝陛下を含めて重臣たちのほとんど全てが王羲之書聖を賞賛して手本として尊重しているだろう。あえて少数派である北朝風を貫く利点が見あたらないだけだ」


「別に利点とか、そういう損得勘定でやっているわけじゃありませんから。あくまでも家系の伝統なので」


「いや、伝統だから、という言葉で、利益が少なくて苦労ばかり多いことを継続するという方が、効率が著しく悪い行為のように思うんだけどなあ」


 筆を置いた賀守一は、腕組みをして眉を顰めて唇を尖らせた。一本に繋がった眉がぐにゃりと歪んだ。


「古くから続いている家の伝統をやめて、周囲に迎合しても、いいことなんて無いでしょう。南朝風の書き手は、名手がたくさんいて、そんな中で自分などは埋もれてしまうだけなのが明らかですから」


 蒋師仁が、賀守一の書に対して抱いていた違和感の正体。それは……


 今の時代に主流として尊ばれている書体と異なる書体であるということだった。


「いやあ、この使節団、あの大迷惑野郎の劉嘉賓といい、黒ずくめの王令敏といい、クセの強い変わり者ばかりで、気苦労が多くなりそうだと思っていたんだよな」


 副使蒋師仁は口には出さなかったものの、この使節団で一番の正体不明の変わり者は、劉嘉賓や王令敏などではなく、正使の王玄策だろう。


「宿舎で一緒の部屋になったのが賀守一で、ようやくまともそうな奴と出会ったと思っていたんだけど。……結局は賀守一も充分に立派な変わり者だったな!」


「蒋副使。なんか、その物言いは、褒められているような気分には、とてもなれないのですが」


「褒めてないから、全然」

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