第32話 違和感のある文字

 文官にとって、筆を使って文字をきれいに書くこと、つまり書法はとても大事な技能だ。


 文官として栄達するためには必須といっていい。


 皇帝陛下を補佐する側近たちは、全員例外なく名書家でもある。


 欧陽詢。虞世南。魏徴。房玄齢。褚遂良。既に亡くなっている者も多いが、こういったところが著名だ。


 それどころか、皇帝陛下自身が、かの書聖王羲之を尊敬して、自らも巧みに筆を操る名書家なのだ。


 夕食前にも練習していた続きなので、賀守一は早速筆を握って紙に向かい始めている。


 その辺には、既に書かれた紙が置いてある。


 過酷な旅の途中でも、自分の書法の道具一式を持参して練習を欠かさない、というのだから、賀守一にとっては書法は相当な得意分野なのだろう。


「書いたものを見せてもらってもいいか」


 蒋師仁の問いかけに対して、賀守一は応えなかった。小さな灯りで照らされた中、集中して一文字一文字を書いている。


 駄目だと言われなかったから、見ても良いのだろう。


 既に紙面一杯に書き終えて、端に置いてある紙を、蒋師仁は手に取った。墨は既に乾いているようなので、夕食前に書いたものなのだろう。


「お、これは、どこかで見覚えのある文章だな。ええと、確か」


 天地

 玄黄


 宇宙

 洪荒


「これは、千字文、か」


 千字文というのは、子どもに文字を教えたり、書法の練習をするためにお手本として使う、名前の通り一千文字で構成された詩である。


「……懐かしいな」


 同じ文字は一文字も使われていないので、この文章だけで一千種類の文字を覚えることができるのだ。


 蒋師仁もまた、幼少時は、千字文で文字を覚えたものだ。


「ん? しかし、なんか、……この文字は、変だな?」


 天地

 玄黄


 と四文字が書かれた紙を、斜めにしたり、また真っ直ぐにしたりして、蒋師仁は確認した。どこがどう変なのか?


 明確に指摘することはできないが、変であることは確実だ。


 今度は自分の首を斜めに傾げて、更には紙もまた同じように斜めにしてみた。すると結局真っ直ぐに見えるだけのことで、顔と紙をわざわざ斜めにする必要も無かった。


「……まあいいか。分からないものは分からない」


 違和感の正体を看破することはできないまま、蒋師仁は考えるのを諦めた。


 別の紙を手に取ってみる。こちらは、紙の大きさは同じだが、先ほどよりも小さい字で、詰めて書いてある。


 皇帝避暑乎九成之宮此則随之仁寿宮也


 書法はさほど得意ではない蒋師仁とはいえ、最低限の教養として知識は持っている。


「これは『九成宮醴泉銘』の文章だ。なかなか力強い文字を書くじゃないか。……って、あれ、やっぱりなんか変だな」


 実際に『九成宮醴泉銘』を書いたのは、皇帝陛下の側近の中でも特に優れた書家として名高かった欧陽詢である。端正で美しい筆致で、一つ一つの文字に風格がある。


 もう既に故人である欧陽詢本人が書いたわけではないから、違っていても当たり前なのだが。しかし、どこかが、何かが、根本的に変なのである。


 文章内容に相違があるわけではなさそうだ。やはり、書体そのものが、欧陽詢の真作とは、作風の部分で異なっている。


 既に書き終えた紙を見ながら考えて唸る蒋師仁をよそに、連眉の賀守一は新しい紙に文字を書き続けて、地道な練習を継続している。


 蒋師仁は思い出す。


「そういえば賀守一よ。ご先祖は、かの魏の有力一族だった賀氏だと言っていなかったか?」


「はい、そうです。よくご存知で……って、さっき自分で説明しましたっけ?」


 蒋師仁の中で、二本の糸が一本に繋がった。


 謎が解けたのだ。

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