第15話 海が溢れて水没でもしない限り

 王玄策は両手で腹を抱えて少し前屈みになって笑った。


「一万年帝国の基礎を築きつつある我らが大唐帝国が、夏や殷のように美姫の色香によって皇帝陛下が骨抜きにされて国が傾く、などということはまさか考えられませんし」


「はははははは! 無い無い! それは無いわね!」


 王玄策は更に豪快に笑った。


 快活に笑っている王玄策を見ると、蒋師仁もまた、心が満たされるように思えた。


「私は占い師ではないから未来のことなど全く分からないけど、夏が滅びて殷が建国されたり、その殷が滅びて周が成立したように、唐が滅びて殷が興るとか、唐が滅びて周が天下に覇を唱えるとか。あまりにもあり得なく、それでいて挑戦的に不敬で、こういう冗談こそが面白いのよね」


 王玄策の、桃の花びらのごとき唇が、しなやかに笑みを描いて咲く。


「ああ、そういえば、途中で占いが得意な人に会えるはずだから、どうせなら大唐帝国の未来も占ってもらおうかしら。あははははは」


 二人で笑い合う王玄策と蒋師仁に対して、せっかくの檄文を軽微に扱われて笑われた劉嘉賓は当然ながら面白かろうはずもなかった。


「何を笑っているのですか。大唐帝国の存亡を笑いの種にするなんて。本当に不敬ですよ。まだ京兆府長安にも近い場所だというのに。部外者の誰かに聞かれたりしたらどうするのですか」


 目をいからせて、劉嘉賓は唾を飛ばしながら叫ぶように言った。蒋師仁はいわゆる反射神経で、飛んできた唾を敏捷に回避した。


 唾を回避する自らの華麗な動きに気分を良くした蒋師仁は、少し心が大きくなって余裕ができて、軽く周囲を見渡した。


「いや、劉嘉賓よ、俺たちもあくまでも冗談として言っているんだぞ。万歳の帝国、つまり一万年続く大唐帝国が、建国から二代そこらで滅ぶわけがないだろう」


 周囲を見渡した蒋師仁は、使節団の中で、頭一つ抜け出たような長身の男の姿が無いことに気付いた。顔が大きい世話役の劉仁楷が不在のようだ。どこに行ったのだろう。便意を覚えて用足しにでも行ったのだろうか。


「大唐帝国が滅ぶなど、あり得ない。祁連山脈と秦嶺山脈を地面から引き抜いて海に放り込んで、溢れた海水が大地を水没させて、高山地帯の吐蕃以外は水底に沈んだ、ということでも起こらない限り、偉大な唐を滅ぼすことなど不可能だ」


 蒋師仁は荒唐無稽なことを言った。


 黄河は滔々と流れる悠久の大河で、過去に幾度も洪水を起こした暴れ河でもある。そのたびに幾度も川筋すら変わったくらいだ。その黄河が氾濫して広大な地域が濁った泥水に浸食されても、黄土の大地全てが水没することはない。


 もちろん黄河が氾濫すれば多数の死人が出るし農作物の被害も出るので損害は莫大だが、それでも全土が水没することは無いし、いずれ水は引く。黄河の大洪水が起きてさえ全土が沈んでしまうことは無いのだから、海の水が溢れて全部水没など、あり得ないことという比喩の冗談だった。


 だがそれは、劉嘉賓にとっては全く面白いものではなかった。


「蒋副使、人の檄文を散々笑っておいて、その譬えの表現は単に不敬なだけで、面白くもなんともないですよ。笑っているのは王正使だけじゃないですか」


 不機嫌な劉嘉賓は口を犍稚のような形にヒン曲げて結んだ。両方の口角が下がる。一方の王正使は、笑いすぎていたけど、ようやく呼吸を整えて、冷静そうな表情に戻していた。


「そうは言ってもねえ。詩文が得意と言っているけど、その能力を活かす場面は無いんじゃないかしら? 劉嘉賓、あなた、他に何か特技って有るの?」


「さっきは勅勒の歌を歌いましたが、秦王破陣楽も行けます」


 怪訝そうな表情で、王玄策と蒋師仁は顔を見合わせた。言いたいことは二人とも同じだった。


「それって、歌だったっけ? 俺の知る限り、楽器で演奏する音楽だったように思うのだが? そうですよね王正使」

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