第11話 ただの兵士には何の興味も無い
「それこそ変な話よね。兵士でないなら、何故この使節団に参加しているのよ。そういえばそもそも、劉嘉賓なんて名前、使節団員の中にあったかしら? 団員の名前は全員記憶していたはずだけど、劉嘉賓なんていうのは記憶に無いような」
「そ、そうなんですか? 俺は副使だけど、四〇人以上の全員の名前までは把握していませんよ」
「私は正使の王玄策、あなたは副使蒋師仁、世話役は劉仁楷、それに、ほら、そこに立っている兵士は賀守一で、この黒い衣装を纏っている僧侶のようなのは王令敏。それから……、いや、とにかく、私は全員の名前を把握しているはずよ。でも、劉嘉賓という兵士の名前は入っていたかしら? 怪しいわね」
端で聞いている蒋師仁は小さく息を吸いながら、ほんの一瞬、横目で黒ずくめの若者の姿を確認した。謎めいた人物だったが、ようやく名前が判明した。
「もう。だから兵士じゃないですって。自分は、通事ですから」
「なっ」
王玄策は思わず更に一歩後退した。さっきは左足、今度は右足だった。
「そんなはずは無いわ。通事だなんて」
「でも王正使。外国に行くのに、通事が居ないことの方がおかしいはずです」
通事というのは、言葉が通じない外国人との会話を円滑に行うために、複数の言葉を翻訳して使いこなせる人物のことだ。つまり通訳である。通辞、ということもあるらしい。
唐国内であれば、それこそ玉門関あたりまでなら唐の言葉が通用する。しかし高原の有雪国である吐蕃では、別の言葉が使われているため、唐語は通用しない。天竺に行けば、更に別の言葉が使われている。
天竺と一口に言っても広大な地方だ。インド、身毒、などといった呼称もある。
古くから、三角形の大地、として知られている。多くの民族や国が混交しているので、その地その地によって癖の強い方言があり、全く別の言語といってもいいくらい、通訳がいなければ言葉が通用しないこともあるという。天竺を目指すからには当然、天竺の言葉に通暁した人材の同行が必須である。
「おかしいのは使節団じゃなくて、劉嘉賓といったかしら、あなたの方でしょう。私は、使節団の人員を決めるにあたって、通事が必要だなんて要望した覚えは無いわ。何故なら……」
言葉の通じない外国へ行くのに、専門の通事を随行員に加えない。確かに通常であれば考えられないことだが、王玄策の人選には理由があったのだ。
「何故なら、通事だけ、という役割の者を連れて行ってもあまり役に立つとは思えないからよ。正使、副使の他に、医者や料理人のような具体的な役割を果たしてもらえる者、仏教に関して造詣の深い者、あとは荷物運び兼兵士というのが人選よ。だけど我が使節団としては、ただの兵士には必要性は無いのよね」
いつの間にか、王玄策と劉嘉賓はごく近い距離で向かい合って、お互いの目を凝視し合っていた。相思相愛の男女の甘い見つめ合いではない。先に目を逸らした方が負けとして扱われる対峙だった。
「ただ単に体が大きくて体力に自信があって武術の訓練をそれなりに受けていて、重い荷物を背負っても粘り強く歩き続けることができる、というだけの兵士ならば、強兵を誇る大唐帝国には何万人でも居る。百万人いると言ってもいいわね」
王玄策の言葉は誇張ではない。かの隋の煬帝も、高句麗遠征の時には百万の兵を集めたといわれている。現在の国力充実した唐も、全土の兵を結集すれば十分に百万に届く兵数となるだろう。
「でもね、この使節団は、そういうただの兵士には何の興味も無いのよ。ここに連れて来ている兵士たちは、そういった単なる力自慢の男子ではない、選び抜かれた精鋭よ。ここにいる使節団員たちは全員、天竺との外交において役割を果たした実績のある家系の出身なのよ。つまり、家の伝統として天竺の言葉を幼少の頃から学んできているわけ。勿論、千字文や論語なども当然の嗜みとして勉強しているでしょうけど、それに加えて、ということね。当然ながら天竺の言葉に関する習熟度は人それぞれで程度の差があることは承知している。それでも端的に言ってしまえば、全員が天竺の言葉をある程度使えるのよ、ある程度。だから、通事のためだけの人員を、長い過酷な旅に連れて行くのは、かえって負担が大きくなってしまうと判断したってわけ。それなのに、専用の通事だというあなたが、どうしてこの使節団に混入しちゃっているのよ?」
使節団の不備を糾弾していたはずの劉嘉賓が、今度は美貌の正使に責められてたじろいでいた。
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