第8話 無精髭の若者

「あっ、そういえば蒋副使。今回の旅の主要目的はマガダ国に行くことだけど、道中に立ち寄る吐蕃も重要だってこと、ちゃんと理解しているかしら?」


 王玄策は後ろを振り返らず、前を向いて歩み続けたまま、後ろの蒋師仁に語りかけた。


「そりゃ当たり前です。大唐帝国の代表たる使節としてその国に赴くからには、大唐帝国の皇帝陛下の威信をかけて、修好に望むのは当然のことでしょう」


「いや、そういう、外交官としての基本の心構えの話ではなく、唐と吐蕃が今後どのような関係になっていくか、という問題よ」


「えっ? 唐と吐蕃との関係が、これから何か重大なこと起こすということですか?」


 一瞬、王玄策は蒋師仁の方を振り返った。


「そうね。両国の地理的な位置関係を考えたら……って、それは、歩きながらじゃ説明しにくいから、また今度きちんと説明するわね」


 また前を向いて、王玄策は西に向かって歩き続けた。唐と吐蕃の関係についての話題は終わったらしい。


「言いかけて途中でやめるって、生殺しじゃないですか。もったいぶらないで話してくださいよ」


 蒋師仁の言葉はあっさりと無視された。王玄策は左右の景色を眺めながら、ゆっくりとした足取りで進む。先頭を行く人物の歩調がそうだから、使節団全体の前進速度はゆったりしたものであった。


「王正使。随分とゆっくりとした足取りですが、本日はどこまで進むつもりなのでしょうか? この速さで、いつになったら一万里先の天竺に到着できるのでしょうか?」


 言葉の形は疑問形だが、蒋師仁の心の不安が凝って結晶となったものだった。


「今日は咸陽までの予定よ。初日なので、あまり無理をせず、体を慣らす感じで。それに、一日の終わりの諸々の後始末の練習という意味も含めて。そもそも馬に乗らずに徒歩だし」


「咸陽、ですか?」


 蒋師仁は己の耳を疑った。次に王正使の発言を疑った。他に疑う対象が見あたらぬので、八つ当たりのような感じで、二人の間を歩いている黒ずくめの若者を疑った。アイツが悪い。王正使も、ぴったりくっついているアイツを追い払えばいいのに。


 咸陽は、長安から出て、ほんの少し西に進んだ場所にある場所だ。秦の始皇帝の時代に都だったとされる場所であり、咸陽という言葉は長安の古名としても使われることがある。つまり、広大な中国の中にあっては咸陽と長安はほぼ同じ場所といってもいい。


「我々は天竺まで、一万里といわれる長い距離を旅しなければならないのですぞ。それなのに、一日目に進む距離が咸陽までとは。もしかして我々は、王正使から馬鹿にされているのでしょうか?」


「そんなことは無いわよ」


 軽く言った王玄策は、視線を前に戻した。長いつややかな黒髪が歩調に合わせて左右に揺れる。その動きは、これ以上の蒋師仁の苦情を遮断しているかのようだった。


 結果からいうと、王玄策の考え方は正解だった。


「もうすぐ咸陽到着ね。やっぱり距離が短いから、まだ全然日が高いうちに着いちゃったわねえ」


 日が高いもなにも、まだ昼だ。蒋師仁には、目的地に向かって少しでも進んで距離を詰めたという実感は皆無だ。


「いい天気で良かったわねえ」


 笑顔で王玄策が言う。黒ずくめの男が背後にぴったりと追尾しながら、正使の言葉には全く反応しないで淡々と歩む。仕方なく、三番目を歩いている蒋師仁が実務上の疑問を述べる。


「最初からここで一泊する予定だったってことは、宿舎とかは既に準備されているってことでしょうか?」


 答えを聞く前に、話の腰を折られた。


「王正使どの! 王正使どの! おそれながら、意見具申したいことがございます!」


 使節団の真ん中あたりから、一人の男が必死の形相で叫びながら、小走りで前に進み出てきた。怒っているのか興奮しているのかあるいは両方なのか顔を真っ赤にしていて、肌が露出している部分からは湯気が立っていそうな様子だった。肌の見えない部分は髭に覆われているが、蒋師仁のように切り揃えて整えられた髭というよりは、自然に伸びるに任せただけの無精髭といった感じだった。声の感じからいっても、まだ二〇代と思われる若い男だ。

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