第5話 メイちゃん、笑うとかわいい

 その後、代々の子孫たちも家業として天竺の言葉を勉強してきた。梵語、というらしい。


 呂布のような他人よりも遥かに優れた膂力と武勇を持っていなければ武将として栄達するのは難しいし、諸葛亮のような並はずれた知略を誇る策士でなければ軍師や宰相として出世することも望めないだろう。だが、天竺の言葉を使える、といった特技があれば、大出世は困難だとしても必要とされる機会はあるだろう。そういった考え方により、蒋師仁もまた幼い頃より天竺の言葉を学んできていた。


 だからこそ今回、天竺への外交使節の副使として抜擢されたのだ。

 天竺語という技能が役に立つことになる。

 本来は、喜ぶべきことなのかもしれないが。


 蒋師仁が持つのは、あくまでも座学で得た知識でしかない。実際に天竺に行ったことは一度も無い。当たり前だ。大唐帝国を出て遥か彼方の天竺へ行ってくるなど、そう長くはない人の一生の内、そうそう幾度も経験することではない。もしも実際に天竺往復を成し遂げたならば、それは玄奘三蔵法師のように、半生を費やしての大旅行になるだろう。


「メイちゃん、メイちゃん、ちょっと質問したいのだけど」


 胸の裡で思い悩む蒋師仁をよそに、使節団員たちの中から一人の髭の濃い顔の大きい男が出てきて、王玄策正使に向かって話しかけた。顔の大きさによる割り増し分も含めて背が高い痩身の男だ。王正使は気苦労の多さによる自らの渇きを思い出したのか、真ん中で大きくくびれている瓢箪から水を飲んでいた。


「劉仁楷使節、その名前で私を呼ばないでください。少なくとも人前では、やめてください。私のことはあくまでも、王玄策正使、と呼んでいただきたいわね。あ、水、飲みます?」


「……おっと、そうでした。これは失礼しました。それじゃあ、王正使。水は遠慮しておきますが、質問があるのですが」


 瓢箪を差し出す王玄策と、髭の濃い顔の大きい劉仁楷の親しげな雰囲気は、端で聞いている蒋師仁を更に困惑させた。二人は旧知の間柄なのだろうか? それにしたところで、メイちゃん、という呼び方は、いかなる意味なのか? 蒋師仁には想像もつかなかった。


「天竺へ行く道中では、妖怪が出る、との噂が兵士たちの間で流れています。不安に感じている者も少なからず存在するようです。我々は無事に天竺に到達できるでしょうか?」


 質問を受けた王玄策は首を捻った。同時に、双峰駱駝に似た形の痣のような黒い模様が入っている瓢箪を腰に提げ直す。頭の高い位置で結っている長い髪が揺れた。


「ひとくちに妖怪と言われても、どんな妖怪が出るという噂になっているのかしらね。とにかく私から言えることは、前回私が天竺まで行って帰ってきた道中では、妖怪は出現しなかった、ということね」


「道中には妖怪は居ない、ということでしょうか?」


「いや、そうではないわ。居るか居ないかは分からないから、居ない、という保証は無い。でも、仮に妖怪が存在するとしても、それが私たち使節団の前に姿を現すとは限らないでしょう」


 外見からすると二〇歳にも満たないと思われる若い娘の王玄策が、三〇代半ば過ぎの齢を重ねた劉仁楷に対して諭すような口調で言う。


「道中で出てくる危険な存在といったら、ユキヒョウとか、ヒグマとか、トラとかの方がもっと現実的に恐ろしいわね。存在するのは間違い無いから。でも、実際に遭遇するかどうかは、もう実際にその場所に行ってみないことには分からないわ。不必要に恐れていても駄目よ。妖怪が出る、なんて誰が言っているの?」


「誰が、というのは特定していませんが、兵士たちみんなの間に広まっていますよ。なんでも、梁懐璥どのから聞いた、とか、梁懐璥どのの息子から聞いた、とか」


「とにかく、過度な心配はしないように。一四歳の頃に一度天竺に行ったことがあるこの王玄策が率いているんだから、大丈夫よ。大船に乗った気分で行けばいいから」


 そう言って王玄策は、劉仁楷に笑顔を見せた。


 自分に向けられた笑顔ではないものの、笑うとかわいいな、と蒋師仁は心の中でほんの少し思った。

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