9:航空機と婦人

 男は担当していた仕事の都合で外国に行かなければならないことになった。帰ってくる見こみはなかった。出発の当日にはいくらか旧友が来たが、いずれも一応きてみましたという感じでドラマでみるような感動がおこることはいっさいなかった。彼らがあっさり帰ってしまうと、飛行機の出発までいやに時間が余ったので、熱帯植物の植木のある広いホールで、普段は見もしない雑誌をよんでくつろいだ。飛行場には白鳥のような新型旅客機が停泊していて、その複雑な機械をメンテナンスする多くのエンジニアーが、これも複雑そうな仕組みをした移動式の梯子にのっていた。少年心に少しあの梯子にのってみたいという気分もあったが、男はさすがにそれを実行に移すことはなく、退屈しのぎにコーヒーをたのんだ。


 そのコーヒーはありえないほど小さかった。小指で持てそうな小さなカップに入っていて、しかもそれの半分までしか注がれていなかった。値段もふつうの倍ほどしたので、苦情を入れようと思ったが、一生に何度するかわからない大移動の直前にそんなことはしたくなかったので、おとなしく雑誌をよみつづけた。雑誌にはコーヒー豆が絶滅の危機にあるという記事が載っていたが半分ほどよんで飽きた。


 男は航空機に乗ると、青い制服をした女性係員(彼はそれが飛行婦人スチュワーデスと呼ばれることを知らなかった)がいて、チケットを見せると、そこに書かれてあるらしい航空機のどこかの席まで丁重に案内してくれた。その席は全部試すのに半日では短すぎるほどの充実した設備が取り付けられていたので、男はすっかり楽しくなってコーヒーのことはすぐに忘れてしまった。


 何種類かの言葉で出発のアナウンスがされると、離陸の反動で男は席に押し付けられた。男は航空機にのるのが初めてだったのでとても驚いた。


 やがて航空機が巡航高度に達して成層圏独特の黒みのある青色が窓に見えるようになると、何度か宗教についての質問に答えたあと機内食が配られた。さっき出会った青い制服のスチュワーデスだった。


 機内食は不味いと噂で聞いていたけど、まったくそんなことはなかった。対流圏界面の上で食べる昼食は格別の味がした。窓をのぞくと黒い空にこうこうと輝く太陽があり、遥か下にはザラメのように小さく群れる積乱雲があった。残念だったのは、窓が空力加熱で赤鉄のように熱く、とても触れられるものではなかったことだ。


 最初は物珍しさから興奮していた男もしばらく経つと飽きてしまったので座席の前に取り付けられたミニテレビでビデオ・ゲームを楽しんだ。しかし、ふと肘置きにあるたくさんのボタンが気になって、何か人のシルエットの印刷されたボタンを押した。しかし何も起こらなかった。青い制服の婦人がやって来て話しかけられたが何も用はないことを知ると帰っていった。男がボタンの意味を理解すると面白くなってもう一度押した。青い制服の婦人がやって来たので今度は世間話などをした。婦人は美麗な言葉遣いをした。もう一度ボタンを押した。席の周りは青い制服の婦人だらけになった。やがて誰かおじさんが来たと思うと、「お前はもう二度とボタンを押すな」みたいな事を早口の外国語で言われた。こっちは訛りが強かったので全然聞き取れなかったが、すごい剣幕だったのでその後は大人しくビデオ・ゲームをした。


 半日かけて巨大な白鳥は世界の半分を占める大洋を横断して目的地の国についた。着陸する時に機首が大きく傾いたので墜落するかと思った。もう一度青い制服の婦人に遭ったので申し訳なさそうな顔をしているとほほ笑みを返された。航空機の分厚い金属扉を出るとサウナのような熱気が体を包んで、男は遠い離れた地に到達したことを実感した。

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