臨死のミューズ

緑茶

臨死のミューズ

「書けないんだ」


 彼はボサボサの髪の毛を掻きながら、俯きつつそう言った。


 その男は小説家だったが、決して順調な生活を送ることが出来ているとはいえない状況だった。

 私は絶えず身体を震わせて負の気配を漂わせている彼から目を離して、机の上を見た。置いてある原稿用紙にはすでにびっしりと文章が敷き詰められており、そこからは熱気が漂ってくるようだった。

 私は彼に言った。


「そうは言っても、君はあれだけ書けているじゃないか。いつもなら周囲が紙くずだらけなのに、今日はそれさえ見えない。絶好調といえるんじゃないか」


 すると彼は自嘲気味に笑って、私に言った。


「僕は確かに書いている。でもね、あれは見切り発車だったんだ。いける、と思ったが駄目だった。頭の中にいくつもほころびがある。だけど、そこに目を向けるのが怖いんだ。そして今はあれだけ書いてしまっている。このまま間違いを抱えたまま書き続けてしまえば、最後には巨大な破綻が待っている。それを分かっている筈なのに、ここで失敗を注視すれば、また僕は作品を仕上げられない。そうなれば今度こそ打ち切りだ……でも、読者を裏切ることはしたくない……」


 彼は懊悩していた。その心の重石が、彼の手を止めているのだということがありありと伝わってきた。


 しかし、素人のような私には、何も伝えられることがない。

 そのままいけばどんどん深みに嵌っていきそうな彼を尻目に、私はその場を去った。

 ……背中側から、小さなうめき声と小刻みな足音が聞こえる。後ろめたさが、後をひいた。



 彼から距離を置くようになって数ヶ月。私のもとに、思わぬ報せが舞い込んできた。


 彼は突然重い病気にかかって、植物状態に陥っているという。


 私は彼を見舞いに行って、静かに眠るその顔を見た。


 ……何故かそこには、穏やかな笑顔が浮かんでいるようだった。


 ――なるほど、たしかに静止した夢の中でなら、彼は救われるのかもしれない。


 物語がいかなる結末を迎えることも、永遠にないのだから。

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