はじまりの日
俺が首都、ケムニッツに来たのは十三の時だった。
それまで棲んでいたのはシェトラールという悪名高い南部の色街の、さらに最底辺であり、孤児として屋根を貸して貰っている男の下で金を稼ぐ毎日を送っていた。
……な、ものだから無論学校になど行っていないし、難しい本など読めるはずも無い。一応文字は知っており自分の名前くらいは書けたが、日常の単語とそのつづりが頭の中で一致していようはずもなかった。
こんな状態の俺が十四になる年から士官学校に入って、勉強に普通について行けると思うか? んなワケないだろう。もし意地でもついて行きたければ、寸暇を惜しんで単語を頭に詰め込むしかなかったんだよ。ああ、勿論そうしたとも。折角それなりに居心地の良いねぐらからおさらばして、どー考えたって鼻つまみ者扱いされる首都になんぞのこのこ出てきたんだ。ここで落ちこぼれなんぞしたら、折角の労力が無駄になるじゃないか。
そんなわけで俺は、授業と必要最低限の日常生活以外は全て勉強と鍛錬にまわした。
貧乏暮らしで劣悪環境への耐性はついていても、身体の発育は全く周りの連中についていってなかったし、前述の通り勉強も巨大なハンデを背負っていたからだ。この二年間、毎日毎日が睡眠と勉強と鍛錬とその他生活維持作業のみの繰り返しで、気付けば俺の成績は学科実技共にトップに躍り出ていた。
そしてついでにと言うか、逆にと言うか、人間関係のほうはてんで形成されず、周囲からは浮きまくってしまったのだった。幸か不幸か無駄に目立つ容姿と成績、薄暗いバックグラウンド等々も相まって、俺は格好の噂の餌食になっていたらしい。いや、そんな事に気付く余裕なんて最初の一年はありもしやしなかったんだけど。
そらまあ、文武両道に秀でた天才で見た目は華奢な美少年、その態度は冷たく取り付く島も無い、出身その他全く不明だが教官たちにはあまりいい顔をされない……となれば誰だって気になるだろうさ。別にそれを責めやしない。
だがなあ、だからって俺を、超絶お育ちの良い英才教育を受けた、完璧な環境で何一つ不自由なく育った天才と思い込むのはやめてくれ。
ついでにソレを鼻持ちならないとか思って、「その取り澄ました高慢なツラの鼻っ柱をへし折ってやる」なんて超勘違いな事考えるのは勘弁しろ。俺はお前らの想像する世界の更に外側を生きてきた最下層の人間だぞ、おい。そんなに薄暗い世界に興味があるなら俺が連れてってやろうかコノヤロウ。
……おっと、つい地が出てしまった。
『俺』じゃなくて『僕』だった。いかにもお育ち悪そーな、ガラ悪い言葉遣いはやめたんでした。気をつけないとねえ。
オルダート・リーアウェールがその場面を見たのは全くの偶然だった。
人通りの少ない校舎の一角にて、同級生と思しき体躯の良い連中が四人ばかり、壁に誰かを追い詰めるようにしてその周りを囲んでいる。その口許には浅はかで卑下た笑いが張り付いており、取り囲んでいる相手によからぬ事をしようとしているのは明白だった。
一方で囲む連中とは対照的に、その中心でまったく無感動に相手を見回しているのは、オルダートにとって見覚えのある人物……同じクラスのある意味有名人、アルスロッド・カーシェである。背中にかかる細く真っ直ぐな亜麻色の髪を一つに括り、長い睫毛の下に煙る大きな藍色の目で相手を見据えている。その視線は冷たい……というか、なにやら投げやりな雰囲気すら伺えた。小柄な身体を壁に預け、形の良い唇を不機嫌そうに引き結んでいる。
――やばいんじゃないのか、あれ……。
たまたま物陰からその様子を発見してしまったため、しばし動きを止めていたオルダートはにわかに慌て始める。喧嘩に不慣れなため逡巡は残るが、これは見過ごしてよい状況ではないだろう。いくらかの有名人が強いとはいえ、体格に大きく差がある上、相手は四人だ。
そう考えたオルダートが物陰から一歩足を正に踏み出さんとした、その瞬間。
アルスロッドが正面にいた赤毛のツンツン頭――四人のリーダーと思われる――の股間を鋭く蹴り上げた。予備動作ほとんどなしの鋭い動きについていけず、もろにその蹴りを喰らったツンツン頭はもんどりうって倒れる。
気色ばんだ両サイドの二人が一斉に襲い掛かってくるのを軽く身を沈めてかわし、片方の向こう脛を蹴飛ばしてバランスを崩させる。そのまま二人の間をくぐると、仰け反りながらも相方を支えたもう一方の少年に足払いをかけ、止めに向こう脛を蹴り飛ばした方の少年の首に手刀を入れて、二人まとめて床に転がした。
更に、突然の攻防に出遅れた四人目をちらりと見遣ったアルスロッドは、軽いフットワークでその正面に滑り込むとその顎に強烈な拳を見舞った。一応構えていたはずの相手をいとも簡単に殴り上げたそのスピードと、体重が本人の一・五倍はありそうな相手のつま先を浮かせるその拳の強烈さに、二、三歩踏み出したオルダートは半端に前のめりのまま凍りつく。アレは絶対、歯の一、二本はもって行かれたに違いない。
とりあえず物陰から出たまま、オルダートが呆気に取られて立ち尽くしていると、四人目を更に蹴飛ばして、いまだ股間を押さえて蹲る一人目の上に重ねたアルスロッドがそちらを振り返った。
「あ……」
何と声をかけてよいか分からず半端に口を開けたオルダートに、ひょい、と片眉上げたアルスロッドが無感動な顔のまま尋ねる。
「何?」
「いや、とんでもねえとこ見つけちまったから助けようかと思って……」
何とも間抜けな台詞である事は自覚しつつ、正直にオルダートは答えた。無意味に頬など掻きつつ、更に正直な感想も付け加える。
「あんた、強いなあ……」
すると、ふ、とどこか呆れたような溜息をかすかに漏らし、アルスロッドは素っ気なく一言答えた。
「一足遅かったね」
「――はあ」
そーっすね……。と心の中でオルダートが呟いている間に、何事も無かったかのようにアルスロッドはくるりと背を向けた。アルスロッドにのされた連中のうめき声の向こうへと、革靴が規則正しく床を蹴る、無機質な音が響き始める。
「お、おい、待てよ!」
「……まだ何か?」
ちらりと視線だけを戻してアルスロッドが問う。その取り付く島のなさっぷりにいささか引け腰になりながらも、オルダートは更に会話を続ける努力をしてみた。
「こいつらどうすんだ?」
「放っとけば?」
一刀両断である。
今まで二年間同じクラスで、全く会話をした事がなかった――というか、クラスの中に彼とマトモに会話をした経験のある者の方が少ない――相手にここまでつれなくされては、流石に次の手は打てない。肩を落としたオルダートをよそに、進行方向に視線を戻したアルスロッドは一言付け加えた。
「僕を助ける気があったんなら、見なかった事にしてくれるとありがたい」
そのままスタスタと去っていく細い背中を眺め、オルダートは一つ、大きく溜息をついた。全く、妙な所に出くわしたものである。
「はあ……まあ、いいか」
とりあえず自分もさっさと退散する方が賢明だろう。そう判断したオルダートは、アルスロッドとは逆方向へと歩き出した。
オルダートたちの通う士官学校は全寮制の四年制である。入学年齢はほとんどの者が十三歳で、今年十六になるオルダートたちは三年生だ。一、二年の間は全員共通の基礎課程を学び、三年からはそれぞれの専門課程を選択することになる。
それに合わせて寮でも部屋替えがあり、それまでの窮屈な大部屋から二人、ないしは三人の部屋に移ることが出来る。この上級生部屋はそれまでのすし詰め部屋とは天と地の差がある、至れり尽くせりの場所なのだが、その代わり基礎課程の修了試験はなかなかに厳しいものであった。
特に数ある職種コースの中でも、機甲専科は軍の花形であり、人気も高い。また、技能としても非常に高度なものが要求されるため、配属のためには修了試験において相当の成績を収めなければならなかった。
その試験を見事パスし、機甲専科への進学が決まったオルダート・リーアウェールはこの日、寮の玄関ホールに貼り出される新しい部屋割りの表を見るため急いで帰寮した。周囲の同学年も思惑は同じであるらしく、帰り着いた寮の玄関ホールはすでに学生達でごった返している。それぞれに浮かれ騒いでいる彼らを掻き分け、掲示を見ようとつま先立っていると、不意に肩を叩かれた。
「おう、オルダ! おっせーじゃん!」
振り向くと目の前に、短い金色の癖っ毛が踊っている。オルダートの一番の友人、クルト・ナイザスの頭だ。小柄な彼はいつも好奇心一杯に目を丸く開いて、楽しい事を探しているような少年だった。収穫期の小麦畑を思わせる見事な金髪に、そばかすの目立つ少し低めの鼻、くるくると良く動く空色の目が愛嬌を醸している。
「お前らみんな早すぎなんだよ。クルトはもう見たのか?」
多分友人のものまで含めてチェック済みだろう。そういう行動はすばやい奴だ。そう思いながらもオルダは尋ねた。クルトの相棒は誰なのか知りたかったからだ。
「あったり前だろ、ついでにお前のもちゃーんとチェックしといてやったぜ! 俺の新しい相棒はディーロ・エスペランザって奴。クラスとか別だったし、さっき初めて話したんだけどさ、フツーにいい奴っぽかったぜ。頭よさげな感じ。あ、お前の相手は自分で確かめろー? 感想は俺がしっかり聞いてやるからさ!」
期待通りに一の質問で四も五も答えてくれた友人に笑いながら、オルダは若干減り始めた人ごみの中を進んだ。後ろではクルトが妙に期待に満ち満ちた視線をその背中に送っている。やんちゃ小僧、という表現がぴったりと当てはまるこの友人のその意味深な視線にオルダは気付いていない。
「エスペランザって、あのエスペランザか?」
部屋割り表の前に立ち、自分の名前を探しながらオルダは尋ねる。エスペランザといえば旧十貴族、いわゆる名門貴族の家柄のはずだ。
「さー、まだ本人からそう聞いたわけじゃねえけど、そうなんじゃねーの? お前知り合い?」
「知り合いならこんな質問しねーよ。……あー、くそ、何処だー?」
悪態をつきつつ、部屋割りを端から辿っていく。半ばを少し過ぎた頃、オルダはようやく自分の名前を見つけた。
「二一五号室、オルダート・リーアウェール……アルスロッド・カーシェ!?」
一瞬目を疑い、もう一度見直す。やはり、そこに書かれている名前は変わらない。呆気にとられて口を開閉していると、すすす、と後ろから口許へ、マイク代わりと思しき丸めた冊子が伸びてきた。
「一言どーぞ」
いしし、と表現できそうな笑いと共にコメントを求められる。それに振り向こうと横に流した視線の先に、彼は立っていた。およそ一月ほど前、四人の男子を軽々とあしらっていた新しいルームメイトだ。上ばかり見ていたため気付くのが遅れたらしい。
アルスロッド・カーシェ。彼はオルダたちのクラスの有名人である。
華やかとか豪奢とかいう表現が似合う部分はないが、すっきりと整った面立ち。人より抜きん出た学力と身体能力。休憩時間は必ず勉強しているか、何か硬そうな本を読んでいるかで、友人はいない。ガリ勉の域を超えたそのストイックさと、超弩級と言って差し支えない愛想のなさ、そして何よりも、その素性の知れなさで知れ渡っている人物だ。
カーシェ、とは実は、エスペランザと同じく旧十貴族の一つに数えられる名家である。そしてそれ以上に、現在幽閉されていると噂されるこの国の指導者、ゼノン・カーシェの姓として有名だ。
そんな理由もあり、彼の素性に対する噂は留まる所を知らず、南部の孤児説から元首の隠し種説、挙句正真正銘のカーシェ家嫡男説まで諸説紛々といった様相を呈している。確かに、南部の貧しい生まれと言うには気品がある、というかプライドが高そうに見えるのも事実だ。
ちらり、と藍色の目で一瞬こちらを見ると、彼はそのまま背を向けた。一言の挨拶もなしである。どうやら歓迎はされていないようだ、とオルダはボンヤリその背中を視線で追う。同じくアルスロッドの背中を追っていたクルトが、オルダを振り返って気の毒そうに笑った。
「ドンマイなー。一ヶ月我慢すれば、部屋替え考慮してもらえるはずだし」
ぽんぽん、と慰めるように肩を叩かれる。
実は、この部屋割りで決まる相手はオルダたち機甲部隊志望の生徒にとって、ただ寮の部屋が同じというだけの存在ではない。彼らは寝食のみならず、訓練や学業成績まで共有する相棒――一種の運命共同体となるのである。つまり、日常の生活や訓練を共に行い、その成績評価も二人一組というわけだ。
その組み合わせは国の管理に働くスーパーコンピュータネットワーク、『ディアナルーン・シリーズ』がそれまでの成績、身体能力、素行や心理・適正テストの結果から弾き出す。即ちここで同室になる相手とは、国のマザーコンピュータに「同学年・同進路志望者中で最も相性の良い相手」と太鼓判を押された相手なのだ。
「ああ、うん……」
彼が機甲部隊希望と知れた時、その相棒が誰になるかはクラスでは注目の的だった。正直オルダートも興味があったのだが、まさかそれが自分だとは夢にも思っていなかったのだ。かの変人と組まされるなど、こちらも希代の変人であるか、学年一適応能力があるとディアナルーンにお墨付きを貰ったようなものである。
とりあえずこれ以上玄関ホールに用もないので、部屋に向かって歩きながらオルダートは考える。
驚きも戸惑いもしているが、オルダートは決して、アルスロッドの事が嫌いなわけではなかった。むしろ、興味を持っている。一ヶ月前の喧嘩を見てからはなお更だ。
腕が良いのは実技の成績から分かっていたが、意外と喧嘩慣れしている……というか、そういう下世話なやりとりに慣れている。その事がオルダートの興味を惹いていた。温室育ちのプライドの高い天才、よりはとっつきやすそうに感じたのだ。
「けど、歓迎されてない臭いよなー……」
誰に対してもあんなものだ、と言われれば納得してしまうかもしれないが、それでも少しショックだった。むしろ自分の方が相手に敬遠されているのかもしれない。
「ま、明日部屋替えして、もう一回ゆっくり話してみて、それからかな」
わりあい楽天的で大味な少年オルダート・リーアウェールは、そう呟いて一旦この事に対する思考にピリオドを打った。
下級生の暮らす大部屋では、一部屋に十人以上が詰め込まれる。よって個人のスペースなど自分が眠る二段ベッドの一画と勉強机以外にはほとんどなく、そのベッドも狭いものだ。そうなると必然的に持ち物も少なくなる。元々校則で持ち物は厳しく制限されているが、とにもかくにも置く場所がないのが現実というものであった。
それでも机の抽斗の中や作り付けの本棚、クローゼットやベッドヘッドなど、あらゆる場所を活用して物を置いている者ならばそれなりに荷物は大量になる。しかし、そんなに物を溜め込むような金銭的余裕も、そんなに大量の物を活用している時間的余裕もなかったアルスロッドの持ち物は非常に少なかった。そして実際、新旧の部屋を三往復しただけで彼の部屋替えは完了してしまったのだ。
大部屋の中では空気扱いされている。それを良い事に学校が終わるとすぐに帰寮し、さっさと一人で作業を済ませたアルスロッドは、ふかふかと高級そうなソファに身を沈め、改めて新しい部屋を見回した。春先のまだ少し低い太陽が、柔らかい夕日を差し込ませている。部屋替え時間は放課後から夕食後の自習時間までだったはずだが、日が沈む前にほとんど済んでしまった。あとはそれぞれの荷物を所定の場所に収めるだけだ。
部屋は基本的に左右対称で、正面には南に面した大きな窓がある。その窓の前には何故かガラステーブルとソファが用意されており、外の景色を望みながら寛げるようになっていた。部屋の中央は二人の共有スペース、ということなのだろう。それから部屋の両サイドにそれぞれ勉強机、作り付けの本棚とクローゼット、ベッドなど個人スペースがあった。
そして呆れた事には、トイレ、流しとコンロ、小さな冷蔵庫に浴室まで併設されていた。大部屋時代はそれらは全て、階に一つの共有物だったものである。上級生部屋の物凄さは噂で小耳に挟んでいたが、まさか風呂場まで付いているとは思っていなかったアルスロッドは、しばらく絶句した。
大部屋の生活に何ら不自由や苦痛を感じなかった――そこはアルスロッドの寝泊りして来た場所のなかで、二番目くらいに上等な所と言えたからだ――人間としては、ナニをそこまで、とすら思ってしまう。
そんな事をつらつらと考えながら、手持ち無沙汰にアルスロッドは、この部屋のもう一人の住人を待っていた。彼の私物はいまだ、共有スペースと思しき部屋の中央の床の上に積まれたままである。なぜなら、部屋の入り口がある左手側と、浴室に続くドアのある右手側、どちらの机やベッドを使えば良いか分からないからだ。下手に先に決めてしまって、後で文句を付けられるのも面倒くさい話である。
不意に外の廊下が騒がしくなり、床に荷物を置く音の直後に入り口のドアノブが回された。
「サンキューな、お疲れさん」
朗らかな少年の声が開いた扉の隙間から飛び込んで来る。それに答える声が外から三々五々に聞こえると、複数の足音が遠ざかって行った。本格的に扉が開き、同居人となる少年が顔を出した。
「あ、もう来てたのか。……って言うか、もう荷物運び終わってた?」
中央の床に積み上げられたアルスロッドの私物に目を留めて、オルダートが尋ねる。
「ああ」
淡々と頷いて、アルスロッドは相手の姿を改めて眺めた。
オルダート・リーアウェールは、アルスロッドと対照的な人物と言って差し支えない。もっとも、成績の部分に関しては彼も非常に優秀な部類に入るのだが、その他の容姿、性格、雰囲気といったものはアルスロッドとは真逆と言って良かった。
同級生の中でも頭一つ抜きん出た長身と、まだ少年の物とはいえ、それに釣り合うだけの体躯。焦茶色の短髪に、穏やかで人当たりの良さそうな栗色の目の、なかなかに見栄えのする少年だった。あと五年もすれば、女性から引く手あまたの美男に化けるだろう。
人好きのする性格で友人も多い。面倒見も良いため、ごく自然に周囲の信頼を集めるタイプの人種だ。これまで二年間、同じクラスだったので意識せずとも目や耳から彼の情報は飛び込んできたが、とりあえずマイナスの評価を目にした事はなかった。そして学力成績も上位、実技成績も優秀で、恐らく彼とアルスロッドが対戦すれば体格差もあり、アルスロッドが負けるだろう。全く、たいしたものである。
しかし、こんな相手を指定されるとは、自分はよほど優秀と判断されたか、よほど問題児と判断されたかのどちらかだろう。ここまで出来た人間でなければアルスロッドの相手は務まらない、と言われたのであれば笑えるものがある。
――しかも、この相手は恐らく……。
「な、なあ、カーシェ」
友人達と共に廊下に運んで来た荷物をせっせと室内に入れていたオルダートが、不意に声をかけてきた。ぼんやりとその作業を眺めていたアルスロッドは、当の相手に意識を引き戻す。
「何?」
オルダートは荷物を全て中に入れ終えたのか、所在無げに入り口に立っていた。どうやら既にしっかりと、苦手意識を持たれているようである。
「や、ええと、俺どっち側使えばいい?」
ああ、と頷いてアルスロッドは立ち上がった。
「好きな方を選んでくれ。僕はどちらでもいい」
意外そうな、困惑したような表情を一瞬見せたオルダートは、じゃあ、と呟きながら部屋を見回した。下手に遠慮を重ねる人種ではないらしい。そちらの方がやりやすい、とアルスロッドは内心頷く。
「そんじゃ、こっちの奥側使わせてくれ。わりい、遅くなっちまってさ」
オルダートは浴室に近い側を指してそう言った。
おおかた、他の友人達の荷物運びを先に手伝っていたのだろう。教室内での会話からそう判断して、アルスロッドはいや、と軽く首を振った。そのまま自分も荷物を納め始める。そろそろ夕日は西に傾き、南に面した窓からは入ってこなくなっていた。そろそろ食堂が開く頃だ。
しばらく二人、無言で荷物を片付けていたところ、ドンドンと扉を叩く音がして、クラスメートであるクルト・ナイザスの声が廊下から聞こえてきた。
「オルダー! 飯食いにいこーぜー!」
「おう、ちょっと待ってくれー」
元気に返したオルダートが、手に持っていた本を適当に本棚に詰める。ばたばたと部屋から出て行こうとして、思いついたようにアルスロッドの方を振り返った。
「あ、カーシェも一緒に食わねえか?」
義理堅い男だ、と感心しつつも、面倒なので断ることにする。
「遠慮する」
そっか、と言った同居人の、眉を八の字にした表情はなんとも情けなくて、愛嬌があった。
新しいクラスは選択した専門課程ごとに分けられるので、オルダートの相棒となったアルスロッドはもちろん、同じ機甲隊志望のクルトとその相棒の少年も同じクラスとなる。クルトはその新しい相棒、ディーロ・エスペランザと共にオルダの部屋の前まで来ていた。
「あ、俺は二組のオルダート・リーアウェール。オルダでいいよ。よろしくな」
笑って右手を差し出す。相手の少年はオルダートとクルトの中間くらいの背丈で、黒髪を一つに束ねている。意志の強そうな太めの眉と少しきつい目元が、オルダートの名を聞いて驚きに見開いていた。
「ディーロ・エスペランザだ……。まさか、あの『リーアウェール』……だよな?」
呆気にとられたような言葉に苦笑する。自分の名は、彼が本当にエスペランザの関係者なら知っていて当然のものだ。自分はおそらく、二年ぶりにこういった反応の嵐に遭うのだろう。そうオルダートは内心溜息をついた。
「おう、不肖の嫡男だ。エスペランザだろ、どっかで会った事あったか? 俺全然家の行事とか出ないし……」
むしろ今は出奔中に近い。そう、心の中でだけ付け加える。それにディーロは、口の片端と片眉をわずかに上げた。少し皮肉っぽい笑い方をする奴だな、とオルダは胸の中で感想を述べる。
「いや。俺も家のほうにはほとんど関知しないからな。庶子の次男だ」
素っ気ない口調はオルダの新たな相棒殿と相通じるものがある。似た者同士でつるんでいると、その相棒同士も似通ってくるのだろうか。クルトを見ながらそんな他愛のないことを考えた。オルダと目の合ったクルトがにっか、と得意そうに笑う。
「ま、そーいうこと。オルダは俺と同じクラスで、いっつも一緒に飯食ってんだ。これからディーロも一緒なー! って、ところでオルダ、お前の相棒は? やっぱ全然脈なし?」
それにオルダは、とりあえず部屋の前を離れて食堂に向かって歩き出しながら答えた。
「すげなく断られたよ。まあ、予想はしてたけど」
クルトがディーロを引っ張るようにそれに続く。何処となく一歩退いた印象を受ける黒髪の少年は、どうやらクルトの少々強引な親愛表現に戸惑っている様子だ。
頭の後ろで手を組んで溜息をつくと、クルトの勢いに圧され気味らしいディーロが首を傾げた。
「どんな相手なんだ?」
「すっげープライドの高い、ガードの固い秀才美人!」
「それがお前のカーシェに対する認識か……」
嬉しそうに、オルダを遮って答えたクルトに笑う。ディーロは益々不可解そうな表情をした。確かにこれだけでは他クラスの生徒には分からないだろう、とオルダは説明を付け加える。
「アルスロッド・カーシェって奴。多分学年で総合トップくらいの成績を取ってるから、名前くらい見たことあるんじゃないか? でも、無口で無愛想で、クラスにも親しくしてる奴いないんだよ」
「ま、それを気にしてる感じでもないしなー。ってか、周囲には興味ナシ、みたいな? 俺らなんかと馴れ合う気はない……って感じかも」
階段を降り、渡り廊下で繋がった食堂へと入る。点呼も兼ねて全員で一斉にとる朝食と違い、夕食はそれぞれが食堂の開いている間に食べれば良い。オルダたちはトレイに、厨房と食堂を仕切る棚に陳列された今日の夕食を乗せ、椀にスープをよそって空いたテーブルに陣取った。
「けど……そんなに悪い奴じゃないと思う」
突然漏らしたオルダに、残りの二人が眉を寄せた。フォークやスプーンを取り上げた手を一旦止めて、オルダの方に目を向ける。
「カーシェ、って奴の事か?」
そのディーロの問いにオルダは頷く。
「そら別に悪かないだろうけどさ。悪い奴してるとこ、見たことねえし」
ただ、良い所を見せたこともないだけで。そう、もぐもぐとパンを頬張りながらクルトは続ける。実際には「悪い奴」だという噂はそこかしこに、バリエーション豊かにあったりもするのだが、この友人は基本的に自分の目で見たものしか信じない。よって愛想のないアルスロッドに苦手意識は持っていても、それ以上の悪感情は抱いていないのだ。こういう所はクルト・ナイザスという男の長所だろう、とオルダは常々思っている。
「まあ、な」
自分も夕食を口に運びながらオルダは頷いた。そうしながらついさっき、部屋での事を思い出す。
「んー……こう言っちゃ失礼かもしんねえけど、俺が荷物運ぶまで片付け待っててくれるとは思わなかったんだよな……」
「どゆこっちゃ?」
唐突な話の展開に、付いて行けなかったクルトが口をへの字に曲げた。怪訝そうに眉を寄せるクルトの横で、ディーロは何が言いたいのか分かったらしく僅かに頷く。このディーロという少年、クルトよりもかなり察しが良い人種らしい。
「お前らはどっちが入り口側になったんだ?」
新しい部屋の入り口側と奥の水周り側、どちらを誰が選んだのか、という問いである。
「あー、俺」
残念そうにクルトが答えた。寮では夜に二時間半の自習時間がある。その間、ちゃんと勉強をしているかどうか、二、三度舎監が見回りに来るのだ。そしてもしサボっていた場合、当然入り口に面している机の方が発覚しやすい。よって、並程度に不真面目な者なら、部屋の中でも出来るだけ奥側を選びたがるものなのだ。
「コインで賭けて俺が勝った」
ディーロが淡々と付け加える。
「俺はカーシェが『好きなほうを選べ』って言ってくれたから、奥取らせてもらったんだけどよ。まあ、別に入り口側を嫌がりそうな奴じゃねえけど、正直……こっちの意見を聞いてくれると思ってなかったんだよな」
オルダたちのようなそこそこ不真面目な者の間では当然の配慮なのだが、彼本人がそういった事を気にしない人間なのはほぼ間違いない。にもかかわらず、それを尋ねてきた事が何となくオルダは嬉しかったのだ。
「ふーん、ナルホド。ま、頑張れ!」
納得したのかしないのか良く分からないが、素晴らしい笑顔でクルトは、激励の言葉をオルダに賜った。
部屋に戻ったオルダをまず出迎えたのは、既に完璧に片付けられたアルスロッドの個人スペースだった。その主はすぐには見当たらず、部屋に入ると奥のほうで水音がする。どうやらシャワーを使っているようだ。
「まずは会話から、だよな」
クルトに言われたからではないが、頑張ってみようとオルダは気合を入れる。こういうものは最初が肝心なのだ。交わすべきタイミングで会話を交わしておかないと、後になればなるだけ気まずくなる。まずは自己紹介からか、と同学年の、しかも男相手に無駄に緊張してオルダは会話の計画を練った。
シャワーの音が止み、ガタン、と浴室の扉を開ける音がする。とりあえず本棚に納めるべく、まだ床に積んであった教科書類を抱えつつ、オルダはアルスロッドが出てくるのを待った。
しばらくして、部屋着兼寝間着兼体操服であるトレーナーを着込み、肩にタオルをひっかけたアルスロッドが出てくる。片手には洗濯物を放り込んだカゴを抱えていた。話しかけるタイミングを計っているオルダの方を見遣り、一拍置いて彼は言った。
「お風呂、お先に」
「……あ、ああ」
予想外の言葉にぼんやりと頷いてから、我に返ったオルダは口許が緩むのを自覚した。本当に予想外、である。まさかそんな普通な挨拶をしてこようとは。しかもどうも、それをすべきか否か、一瞬悩んだらしい気配まである。
俄然勢い付いてオルダは、アルスロッドに話しかけた。
「えーと、改めて俺、オルダート・リーアウェールな。オルダでいいよ。出身はなんつーか、まあ、リーアウェールって姓で分かると思うけど首都だ。よろしく」
カゴを抱えたまま立ち止まり、アルスロッドは自己紹介を始めたオルダを見る。オルダの行動が意外だったのか、軽く目を見開いていた。しばらくしてから、普段の抑揚のない表情に戻って答える。
「……アルスロッド・カーシェ。出身はシェトラールだ」
「! やっぱ、ホントにシェト出身なのか」
シェトラールと言えば、貧しく治安の悪い南部地方の中でも、最も悪名高い街の一つである。そこは国家の権力の届かない無法地帯……否、別の秩序が支配する別の国と言っても過言ではない状況だったはずだ。
「そちらこそ本当にあの、リーアウェールの人間か。十貴族トップの」
頷いたアルスロッドが尋ね返してきた。僅かに眉根を寄せて怪訝げな表情を見せている。
そう、リーアウェールとは旧十貴族のうち、最も由緒ある名門二家の一つであり、現在でもこの国において比類なき影響力を持つ家だ。十貴族とは、近年まで帝政を布いていたこの国において皇帝を支えた貴族達のうち、皇家と血縁を持った名家十門を指す。特にリーアウェールは、帝政が覆されて他の貴族家が没落するのを尻目に、やり手の当主がうまく時流を読んで新政府に味方し、挙句貴族でありながら商売で成功してしまったため、現在でもとんでもない発言力を国の中で有しているのだ。
「はは、まあな。……一応、隠すことでもないだろうから言っとくと、嫡男だ」
「…………」
流石に驚いたらしいアルスロッドが押し黙る。それまでとは一転、オルダの方が珍獣扱いの様相だ。
「確か、リーアウェールの嫡出子は一人と聞いたことがあるが」
「おう。俺だけだな」
現在の当主夫妻、ゲルナードとエヴァリーズの間の男子はオルダただ一人である。上に姉が一人居る事は居るが、いささか彼女も訳ありで、正面切って嫡子とは公表されていない。
「何故、こんな所に居る?」
直球の質問に笑いが洩れた。アルスロッドの声音には呆れの色すら見える。変に動じないその様子に、ますます自分の中でのアルスロッドの評価が上がっていくのをオルダは感じた。
「オヤジが嫌いだから」
同じく直球で返すと、相手は呆れたような、面白がるような表情で眉を上げた。
「成る程な」
士官学校は全寮制。外部との接触はかなり制限され、さしものリーアウェールの影響も届きにくい。学費もかからず、南部に行くような危険もなく、出奔先としては理想的だったのだ。
「アルスロッドは……アルスでいいか? アルスは何の縁で……?」
失礼かもしれないとは思ったが、気になるのでさっさと尋ねておくことにする。シェトラールなどから、この首都にやってくる人間はごく稀なのだ。同じ国にありながら、それだけ首都を中心とした北部と、南部の間には隔たりがある。北部の人間は比較的裕福な者が多く、南部の貧しい人々を蔑む傾向があるし、逆もまた然りであった。
「ああ。死んだ親の知り合いがこちらにいて、たまたまその人物に拾われたからだ。士官学校に居る理由は、とりあえず士官になりたいからだな」
「ふうん、そっか……」
南部出身の孤児として、軍人として上を目指すのは並大抵の事ではないだろう。この国の権力は北部の人間に集中しているので、当然南部出身の者が出世しようとすれば風当たりは厳しい。いつも黙々と勉強しているのは、それを覚悟しての事なのかも知れない。
家出先に士官学校を選んだだけで、軍人になる事に特に野心はないオルダは何となく、引け目と羨望のようなものを感じた。
そんなオルダの様子を見ていたアルスが不意に動く。カゴをクローゼットにしまい、真っ直ぐオルダの方に向き直った。クローゼットを閉める音の余韻を残して、一瞬部屋に静寂が落ちる。
アルスが、藍色の目でオルダを射抜く。その視線の強さにオルダは驚いた。
「一つ、言っておきたい事がある」
それまでと何ら変わらぬ平静な声のまま、アルスロッドが前置きした。
「俺は、白襟を着る。お前は、俺とこれから二年間組む覚悟があるか?」
白襟とは、その年の卒業生のうち、卒業成績が極めて良かった者十名にのみ許される襟色だ。他の卒業生は一般士官候補生として、青襟の軍服を着ることになる。いくら機甲専科が士官学校全体の中でトップエリートであったとしても、学校全体で上位十名に名を連ねるのには相当の努力と才能が必要になるだろう。
自分は何が何でも白襟を着てみせる。お前は、自分と一緒にそれをする心積もりがあるか。そう彼は尋ねてきたのだ。機甲専科は二人一組。成績も両者のものを総合して評価されるのだ。つまり、アルスが白襟を着られる成績を取る為には、オルダも同じだけの成績を取らなければならない。
「な、なんでまた……」
流石に即答できず、オルダートは尋ね返した。突拍子もない話に、相手の顔色を窺う。
「上に行って、やりたい事がある」
きっぱりと言い切ったその目は静かで強く、掛け値なしの本気であることが伝わってきた。絶句するオルダの返事をしばらく待った後、アルスは、今度は部屋の出入り口に向かって歩きながら付け加えた。
「ペアの組替え申請受付がある一ヵ月後までに答えを出してくれ。無理と思えば申請を出して欲しい。その場合はすぐに同意する」
今まで何度かしたように、ちらりとオルダの顔を見遣り、そのまま部屋から出て行く。恐らく食堂に向かうのであろうその背中を、オルダは呆然と見送った。
----------
一話に置いている「爪を磨く」と微妙に設定が違うのは、あの話を書くにあたって面倒な設定を全て削ったからです。
本来はなんというか…異世界人型ロボット軍記物的な…なんでしょうねダンバ〇ン的な話です。ダン〇イン…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます