深夜、爪を磨く

歌峰由子

深夜、爪を磨く

 そいつの指は、男としてはすんなりと長い。

 女のように華奢ではないが、整った形と、白く張りのある肌をしている。


「何? オルダ」


 手の主が俺の名を呼んだ。

 天鵞絨張りの一人掛けソファにゆったりと身を沈め、箔押し装丁の本をめくっていたそいつの手が止まる。

 小首を傾げた肩を、さらりと長い亜麻色の髪が流れた。

 その指先をいつの間にか見詰めていた俺は、かけられた声に「ああ」と生返事を返す。


 懐古趣味で装飾的な時計の針が真上を向く時間、

 屋敷の二階にある俺の部屋には夜の空気が満ちていた。


「――爪」


 まるで独り言のように続ける。相手の耳に届いてほしいような、欲しくないような。

「つめ?」と復唱する柔和で少し高めの声が響く、皆が寝静まった居館の奥。

 この季節はただの飾りな暖炉の前で揺り椅子を漕ぎながら、俺はなおもその指先を目で追っていた。

 つい、と白い手をかざしてそいつは己の爪を見遣る。


「ああ、少し伸びたかな」


 確かめるように手を裏返し、指を曲げるそいつ

 ――中性的に整った容貌の青年と俺は、十年来の親友だ。

 青年の名はアルスロッド。俺の名はオルダート。

 寄宿学校時代に寮で同室になったのが縁で、今もこうして親しい付き合いが続いている。

 アルスロッドは現在家でのんびりしているらしいが、

 俺は政府関係者として、そして広大な領地を持つ領主として走り回る日々だ。

 先日も外国へ視察に行かされた。


「キャシテ土産に買って帰ったんだが……」


 そう言って俺は揺り椅子から立ち上がった。壁に据えたチェストの抽斗を開ける。

 先日仕事で行った異国の街は、ガラス細工の盛んな場所だった。

 取り出したのは、丁寧に包装されたガラス製の爪やすりだ。

 普通、男相手に選ぶ土産ではない。


 それを承知の上で、俺はその爪やすりを持ってアルスロッドの傍らへ歩み寄った。


「アルス、お前に」


 そう言って差し出せば、本を小卓の上に置いてアルスロッドが包みを受け取る。

 長い指が器用に動いて、丁寧に包装を剥がした。

 持ち手部分に色鮮やかなの装飾が入った、ガラス製の爪やすりがあらわになる。

 へえ、と小さく感嘆の声が上がった。


「綺麗だね。ありがとう」


 藍色の目を細めて礼を言った後、アルスロッドがくすりと笑んだ。

 色ガラスで花を描いた柄に視線を落とし、その感触を確かめるように撫ぜている。


 髪よりも少し濃い色の睫毛が、白い頬に長く影を落としているのを俺は見下ろす。

 ゆるく笑んだ淡い色の唇と、繊細に装飾をなぞる指先は端正に整って美しい。


「だけど、お前にしては随分洒落た土産だね」


 からかう声音に、うるさい、と口を尖らせた。

 そのままアルスロッドから爪やすりを取り上げ、俺は言った。


「やってやる。指出せ」


 やすりを追って視線を上げた藍の目が軽く見開かれる。

 だが何を言うでもなく『親友』は、俺にそのすんなりとした手を差し出した。





 俺はアルスロッドの手を取り、跪く。まるで騎士が貴婦人にするように。


 左手の小指から順に、形の良い爪に丁寧にやすりをかけていく。

 縦幅が長く、綺麗な弧を描くオーバル型の爪は、曇りなく磨き上げられていて艶々と光っている。

 厚すぎも薄すぎもしない爪の先が、左右均等でなだらかな山型になるように。

 角を落として、形を整え、ささくれないように。先が薄くなり過ぎず、割れにくいよう気を遣って。


 すぐ目の前に指先を捧げ持ち、吐息がかかるほど近く顔を寄せる。


 しどけなくソファに身を預けたアルスロッドは、息を密やかにして動かない。

 時折僅かに身じろぐたび、俺は咎めるように指を捕えた手に力を込めた。


 藍色の視線が、その削り取られる爪の先に注がれているのを首筋で感じる。

 だが、決して顔は上げない。言葉も交わさない。

 指先を、俺のつむじを睥睨しているであろう美貌を脳裏に思い描きながら、ひたすら爪を整える。


 あらましに形を整え、やすりを休める。ふっ、と息を吹きかけ粉を飛ばせば、ひくりと指先が引き攣れた。

 その反応に妙な充足感を覚える。


 俺はこうして、月に一度アルスロッドの爪を手入れする。

 この関係を、『親友』の括りに入れて良いのか分からない。他に特別、何をするわけでもない。

 だがいつの間にか、こいつの爪を削るのは俺の役割になっていた。

 俺は毎月、必ずこうして「アルスロッド」を削る。


 爪を削る間は無言だ。行われるのは、どちらかの家に泊まった日の深夜。

 しんと静まる夜の気配に押し包まれて、息をひそめ、ただ無言でこの行為を共有する。


 どんな流れで、俺がこいつの爪を磨くことになったのかは覚えていない。

 ただ切っ掛けはやはり、手入れの行き届いた指先に視線を奪われたことだった。


 十年前。俺達は十七歳で、共に国立寄宿学校の生徒だった。

 進級時の部屋替えで相部屋となった相手、このアルスロッドは当時、

 すれ違う相手の目を引くほどの美少年だった。

 単に持って生まれた容姿が美しいだけではない。

 十七歳男子としてあり得ないほど、身づくろいの丁寧な奴だったのだ。


 当時は短かった亜麻色の髪をいつも丁寧にくしけずり、

 香油を馴染ませて痛まないように手入れしていた。

 透けるように白く薄い肌も、

 香草の浸出液で作られたローションで肌理を整えられてこそ、真珠のように輝いていたのだ。

 歯も同様。そして、爪もだ。


 それまで遠巻きに見るだけだった美貌の同期生の、その身づくろいの熱心さに俺は驚いた。

 その象徴が、クリームを塗り込まれてささくれひとつ見当たらない指先と、

 鏡面のように磨き上げられた桜貝のような爪だった。

 剣術や馬術など実技訓練も多いため薄く柔い手のひらとはいかないが、

 日々怠らず手入れされた手は独特の美しさを保っていた。


 忙しい日々の中、夜の隙間にできるほんの束の間の休息時間、

 アルスロッドは爪にやすりをかけていた。

 椅子の背もたれに小柄な身を預け、立てた片膝を肘掛け代わりにして手元に視線を落とす。

 形が崩れないように、少し削っては角度を変えて、照明にかざして矯めつ眇めつ爪を眺める。

 そしてまた削る。

 それまで爪なぞニッパーで切るものだと思っていた俺の目に、

 それは酷く優雅で頽廃的な行為として映った。


 普段の勉学や実技訓練を嫌っているかといえば、決してそうではない。

 それどころか学年主席を争うほど、文武両道に優れた少年だった。

 生まれついての華奢で小柄な骨格や女と見まがうような容貌など、

 きっと全く興味が無いか、あるいは邪魔なのだろう。

 そう勝手に思い込んでいたほど、教室で見る姿は禁欲的で自制的だったのだ。


 その彼のあまりに意外な姿に、思わず俺は訊いた。『何故そんなに熱心に手入れをするのか』と。

 その問いに視線を上げたアルスロッドは、藍色の目を細め、細い眉を寄せて少し考え込んだ。

 そして形の良い唇でこう言葉を紡いだ。


『習慣、かな』


 裕福な貴族の嫡男である俺と違い、アルスロッドは南部の貧しい

 ――そして闇の深い街の出だった。

 十二歳で縁あって首都住まいの一家に養子に入ったが、

 それまでは路上生活も同然の貧しい暮らしをしていたそうだ。


 その彼が幼くして、丁寧に髪をくしけずり肌や爪を磨いた理由は愉快なものではない。

 だが好奇心旺盛な盛りだった俺にとって、『背徳の街』『徒花の街』と呼ばれた彼の出身地とその職は、

 本人の容姿とも相まって嫌悪感よりも艶めかしさへの憧憬を呼ぶものだった。


 美しく、美しくその身体を磨いて、香草の香りを湿った肌に含ませ。

 薄荷の茎を噛んで吐息を染め、紅い花びらで爪を装う。

『商品』としての己を磨く行為を、もはや必要でないのに熱心に行う姿は、何故か酷く淫靡だった。





 爪の稜線を整えるとガラスを裏返し、今度は面を磨く。

 細く引きのばされた楕円型のやすりの先端を、甘皮に沿わせて滑らせる。

 前回の手入れから伸びた爪の付け根が、縦縞を作って曇っていた。


 一本一本指先を手に取り、丁寧に、小刻みに磨いてゆく。

 凹凸を削ぎ落し、鏡面のような艶が出るまで。


 敏感な指先の、中でも繊細な爪の付け根を何度も何度も擦る。

 冷たいガラスの先端で甘皮の縁を突き、爪の際へ押し込む。

 生え際の溝にやすりの縁を這わせ、指を傷つけないよう注意深く押し引きして磨いてゆく。


 愛撫するように優しく繊細に、神経の集まる敏感な場所を擦り、なぞり、押す。


 綺麗に手入れされてささくれひとつ見当たらない、潤いのある柔らかな指先だ。

 爪の際を繰り返し責めていると、

 刺激されすぎて過敏になった神経が音を上げたのか、ひくりと指先が逃げようとする。

 捕えている己の指に力を込めれば、じわり、と爪が赤く充血した。


 一枚磨き終えて、充足の息を吐く。出来栄えに満足し、

 労わるように爪の生え際の薄い皮膚を、指の腹で撫ぜた。

 それにふっ、と息を詰める気配がする。こそばゆいのだろう。

 悪戯心を起こし、捕まえたままの指先をそろりと撫ぜて揉んでみた。


 腹側をくすぐり、生え際の皮膚をなぞり、磨いた爪の感触を確かめる。

 そのまま脇を辿って、指の股に人差し指を押し込んだ。薄い皮膚が柔い感触を返す。

 少し湿って熱い。気を良くして柔い肉を捏ねていると、不意に手を振りほどかれた。


「やめろ」


 非難の声が降ってくる。その語尾は、湿り掠れて震えていた。


「わるい」


 顔を上げず口にした謝罪は、全く悪びれずに響く。

 そのまま再びアルスロッドの手を取ると、仕方なさそうな溜息が聞こえた。口の端が勝手に緩む。


 次の指を捕え、敏感で柔く、薄い皮膚をなぞる。


 ごくりと喉が鳴り、知らず俺は唇を舐めて湿していた。


「変な趣味だね、お前」


 呆れた声音でアルスロッドが言う。否、呆れた声音を装っている。


「お互いさまだろう?」


 言ってやれば、捕まえていたはずの薬指が逃げて俺の唇を掠めた。

 磨かれた爪が唇を撫で上げ、滑らかな感触を残す。


「だまらっしゃい」


 その言葉に反論せず、俺はもう一度逃げた薬指を捕えた。視線は上げない。


 こうして月に一度、深夜、俺は跪いて爪を磨く。

 余計な会話はしない。視線も合わせない。それは暗黙の了解だ。





 それを破ってしまえばもう、きっと引き返せない。




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『あたかも18禁であるかのような雰囲気を目指した

性描写一切なしの短編小説を募集する創作小説競作企画』

というものに参加させて頂きました。


この二人のお話は形にならないままずーっと温めていた(ら冷えた)のですが、ウチの一等BL組としてひとつ形にしてみました。

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