ウェンディゴ・カーニバル

坂子

ウェンディゴ・カーニバル

 彼の好物は柘榴だ。彼はとんでもない偏食家である。あとはそう、料理がとても上手で、それからとても整った顔立ちをしている。もう五年も一緒に暮らしているのに、私が彼について知っていることといえばそれくらいだ。それ以上でもそれ以下でもなく、またそこから無闇に外れたりもしていない。ただそこまでの関係だった。




 夕闇が迫るパリのモンパルナスは、所狭しと並ぶ市場の活気で溢れている。菓子店、シャルキュトリー、パン屋、フロマジュリー。おもちゃ箱をひっくり返したみたいに色とりどりな露店たちは、それでも乱雑に散らかることなく不思議と調和した印象を与えていた。今日のディナーは子羊肉のポワレ、エストラゴン風味。今朝彼から告げられたメインディッシュの名前を頭の中で反復しながら、人の合間を縫って歩く。手土産にワインでも買って帰ろうかと思案したが、それよりも一際目立つ青果店の果物たちに目を惹かれた。


「お嬢さん、買っていく?」


 恰幅のいい店主の女性が愛想良く問いかける。トラピッチェ・エメラルドの瞳。この通りがおもちゃ箱なら青果店はさしずめ宝石箱といったところだろう。そうですね、と下手くそなフランス語でさんざん迷ったあげく小ぶりの林檎を三つ買うことにした。彼と違って料理の組み合せなどなにも分からないが、とりあえず林檎を買っておけば間違いがないだろう。


「あ、そうそう、これおまけね。今安いから」


 そう言って紙袋に詰め込まれたのは熟した柘榴の実だった。鮮やかな赤い果肉が市場の照明を受けてちらちらと輝いている。私は柘榴が嫌いだった。彼女には申し訳ないがおそらく持って帰っても生ごみがひとつ増えるだけだろう。心中を悟られないように丁重なお礼を言ってその場を後にした。自分がきちんと笑えているかが不安だった。

 先ほどのダゲール通りから十分も歩けば、やがて閑静な住宅街が見えてくる。はじめの賑やかさこそ失われたが、そこは暖かな生活の光で満たされていた。少し奥に行ったところにあるのが私たちの家だ。


「ただいま」


 少し間延びしたおかえりの声がリビングの奥から聞こえてくる。それから肉の焼ける音。私はそちらにゆっくりと近付いていって、先ほど受け取った柘榴をこっそり抜き取ったあとで彼に話しかけた。


「林檎」


 頭の位置に紙袋を掲げてみせる。キッチンでスキナーナイフを振るっていた彼はこちらを一瞥して微笑んだ。淀んだ脂と新鮮な血液、残酷で濃い死の香りがする。今日のディナーは子羊のポワレ。私も無理に笑顔を作った。料理中の彼には近付きたくなかった。


「買ってきたの。ダゲール通りの青果市で、美味しそうだったから」


「いいね。それじゃあデザートはタルト・タタンにしようか」


 ほらやっぱり、林檎で正解だった。日の目を見ない罪なき果実はあとで窓から投げ捨ててしまおう。彼にも柘榴にも罪悪感を覚えるが、どうしても私は好きになれない。柘榴の実は血の色をしている。


「もうすぐできるから、君は座っていて」


「うん。でもその前に着替えてくるね」


 嘘だった。服はちっとも汚れてなんかいない。ただあのキッチンに長く居たくなかっただけだ。彼が料理をするあのキッチンに。

 彼は優しい。私は彼のことを愛している。彼もたぶん、私の事を愛している。けれど彼は博愛主義者だ。誰だってきっちり愛することができる。朝にはメニューが教えられていた。今日の子羊は、朝から決まっていた。その事実を考えるたび背筋が寒くなる。彼の心臓は氷でできているように思えたが、それを正気でやっているというのだから度し難い。


 さして意味のない着替えを終えリビングに戻ると、テーブルには豪勢な料理がずらりと並んでいた。これを五年間毎日続けているのだから彼の腕はやはり大した物だ。おもちゃ箱でも宝石箱でもなく、私はこの料理たちを展翅標本のようだと思う。美しくて派手だ。価値もきっと高い。けれどそんな美辞麗句じゃ誤魔化せないくらい、底の方にはとても残酷で冷徹なものがある。


「いただきます」


 オニオングラタンスープにサラダ・ニソワーズ、卵のココット焼きと子羊肉のポワレ。スープからメインディッシュまで全て揃ったディナーはこの美食の街に相応しい。彼は自分の料理を味わうというよりも、私が食べ物を咀嚼し嚥下していく姿を眺めている時間の方が長かった。むかし彼は、人が本能的な欲求を満たす姿は官能的だと言っていた。


 食べることは生存本能だ。また食べることは殺害衝動でもある。そして食べることは、何より愛することだ。食事はしばしば究極の愛などと謳われる。けれど私は違うと思った。究極なんて崇高なものじゃなくたって、たとえそれが本能のままの苛烈な性愛だろうが、食べることは愛することだ。私は生きている。この比類なき愛情に包まれながら、夥しい数の絶望に見送られて、私はいまここに立っている。


 子羊肉のポワレを切り分けて口に運ぶ。羊の味などするはずもなかった。あえて表現するなら、少し苦い豚肉の味だ。私の嫌いな柘榴の味。



彼の好物は柘榴だ。

 彼はとんでもない、偏食家だ。




【ウェンディゴとは


ウェンディゴとは、カナダ南部からアメリカ北端のインディアンたちに伝わる精霊の呼び名である。精霊は氷の心臓を持つとされる。または、ごく限定された部族のみに見られる精神疾患のことを指す。初期症状としては気分の落ち込みと食欲の低下、病が進行すると周囲の人間が食べ物に見えはじめ、人肉以外の食物を一切拒絶するようになる。】

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