第四話

 あれから三ヶ月以上が経った。

 結果から言うと、私が三ヶ月で死ぬ事はなかった。あの生命バンクは本物だったのだ。最初は半信半疑で契約を交わして寿命を借りたが、今になってようやくミコトさんの言っていた事は本当の事だったのだと実感する。

 今日は精密検査の結果が出る日だ。精密検査なんてやっても無駄だと思っていた頃が懐かしい。これではっきりする。本当に寿命が延びたなら、私の病状は良くなっているはずだ。今日はそれを確かめられるのだ。

 正直、寿命が延びた実感はない。体が軽くなった感じもしない。病気で苦しいのは相変わらずだ。なんだろう、嫌な予感がした。私の鼓動は急に早くなる。水色の入院着の上から胸を摩る。大丈夫、何も心配する事はない。きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせた。


 私は先生に呼ばれ、診察室にいた。先生と向き合う形で座り、隣には母もいる。

 母は深緑のカーディガンを羽織り、黒い長めのスカートを履いていた。その服に水色のスリッパは似合わない。そんな事を考えて気を紛らわした。

 白衣を着込んだ先生は、手に持った書類をじっと見つめて眉間にしわを寄せていた。


「涼野さん。精密検査の結果についてですが……」

 先生が重々しく口を開いた。


「本当に、今生きているのが奇跡ですよ。病状は悪くなっている一方なのに」


「え……良くなってないんですか?」

「……残念ながら。本来ならば体がとうに手術が出来ないほど限界を迎えているのに、結衣さんは今生きている。不思議ですよ、狸に化かされた気分です」


 私の問いに先生はそう答えた。

 思考が追い付かない。つまり? 私の病気は全然良くなっていないという事なのか? 死んでもおかしくないのに、生きているという事なのか?


 そんなのまるで――化け物だ。


 精密検査の話は全く耳に入らなかった。私は引き続き入院する事になっているが、果たして良くならないのに入院する必要があるのだろうか?

 今の私の体では、手術が出来ないらしい。もう私は病気を治す事すら出来ない。このままずっと、生き地獄を味わうのだ。

 きっと私は絶望的な顔をしているのだろう。


 病室のベッドで先ほどの事を考えていると、母が病室に戻ってきた。

「ごめんね、飲み物を買うのに時間がかかっちゃって」

 私とはうって変わって、母の表情には曇りがなかった。むしろ晴れ晴れしていると言っていい。何故さっきあんな話をされたのに、母はこんなにも明るいのだろう。


「結衣? どうしたの? 元気ないわね」

「母さん、なんで母さんはそんなに元気なの?」

「……? どういう事?」


「私の病気は全然良くなっていないって……むしろ悪くなっているって……先生が言ってたでしょ……!」


 私は母に腹が立った。つい語気が強まってしまう。この母の態度が気に食わないのだ。私の病気は悪化しているのに、平然としている母が。


「でも、結衣は生きているでしょう?」


「え……?」


 母はキョトンとした顔で続ける。

「病気が悪くなっていても、結衣は生きているでしょう? これからもっと悪くなっても、借りた寿命分は生きていられるでしょう? あと……七十年ちょっとかしら? 結衣は生きていられるのよ? どうしてそんなに暗い顔をするの?」


 私は苛立ちをを隠せずに母に反論する。

「病気が治らなきゃ意味がないの……! 七十年もずっと病気に苦しめられなくちゃいけないの? そんなのまるで拷問よ。死んだ方がマシよ!」

「結衣! 死ぬなんてそんな事言っちゃいけません! いいじゃない、生きているだけで十分幸せでしょう?」

「違う! 私はこの苦しみから解放されたいの。病気が治らなくちゃ、生きていたって意味がないの!」


 どうして母は私の気持ちをわかってくれないのだろう。こんなの母の自己満足ではないか。私の気持ちを無視した、自分本意な考え方ではないか。それに私がこのまま生きるという事は、母に多大な迷惑をかける事にも繋がる。私の気遣いに何故気付いてくれないのだろう。このまま死んだ方が母のためにもなるのに。

 これ以上母と話をしても無駄だろう。私は反論するのを諦めた。


 もう、いいや。


「……出てって」

「え? 結衣、今なんて?」


「ここから出てって! もう母さんと話したくないの!」


 怒りを露にして母に怒鳴る。母に怒鳴るなんて初めてだ。母は肩をビクッと震わせ驚いていた。実の娘から怒鳴られるなんて、思いもよらなかった事だろう。

 母は悲しげな表情を浮かべ、無言で病室を出ていった。


 母がいなくなった。病室に静寂が訪れる。私は肩を上下させ、息を荒げてドアを見つめていた。

 頭を掻きむしる。病気はもう治らない。私はこの先、生きて生きて生き続けて、地獄のような苦しみを味わうんだ。そう思うと絶望しかない。

 徐にベッドから降りて、病院のスリッパを履く。おぼつかない足取りで病室から出た。その時の私の表情は、この世の終わりみたいな重々しい表情をしていた事だろう。


 ふらつきながら廊下を歩き、階段を上る。人には誰とも会わなかった。外が曇っていたので、病院の廊下や階段はいつもよりも暗かった。まさに絶望の淵に沈んだ私にはぴったりだ。手すりに掴まってゆっくり階段を上った先には、屋上があった。

 ドアノブを回すと簡単に開くドア。屋上には本来鍵がかかっているはずなのだが、今日は何故か空いていた。

 そのままゆっくりと導かれるようにして、屋上に入る。フェンスの前まで足を進めて立ち止まった。


 ――もう、生きていたくない。疲れた。


 風が気持ちいい。下を見下ろすと街が見えた。点々とした建物や道路が見える。人までは見えなかったが、車が走っている様子などは見渡せた。


 そのままゆっくりフェンスを上る。フェンスの向こう側に立つと、急に風が冷たく感じた。

 そうして、ゆっくり、倒れ込むようにして。


 ――落ちた。


「生きたいと言っていたのに……全く、人間というものは面白いですねえ……」

 落ちる時に、そんな声が聞こえた気がした。

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