第2話 罅割れる日々。(9)

 9.

 放課後、透哉はプールを訪れていた。

 昨日、矢場に言いつけられた通り掃除をするために。

 プールサイドに上がるとすでに十数名の生徒たちがプールの中で清掃に励んでいた。

 各々道具を手にかびやコケと格闘している姿は掃除と言うより労働。どうやら矢場に目をつけられたのは自分とホタルだけではないらしく、クラスも学年も違うメンバーが一日限りの連合軍として結集していた。


(ここに混ざって掃除するのか……)

「よく来たわね御波。これ持ってあんたはあの辺を頼むわ」


 矢場はげんなり模様の透哉を目ざとく見つけるとプールの一角を指し、即座に作業を割り当てる。 矢場は担いだ掃除道具の束からデッキブラシを引き抜くと透哉に手渡した。


「弁慶かあんたは」


 矢場の背の大量の掃除道具にそんな言葉が漏れた。


「かっこいいでしょ? さ、ごちゃごちゃ言ってないで掃除始めなさい」

「へいへい」


 まだ高い太陽の下、透哉は裸足でプールの底に降りるとこびりついたコケをブラシで丹念に擦り始める。


(下らないな。俺って……)


 額に滲む汗を拭いながら己の律義さを自嘲する。

 昨日の放課後、矢場にプール掃除を任命されたから律儀に参加しているわけではない。本当は直前でボイコットするつもりだった。


『もしサボったら魔力学の点数マイナス百点だから。余った分のマイナスは他の教科からランダムに追加で引かれるから気を付けるのよ?』


 と言われ、強引に参加させられている。


「もっと体重乗せないと汚れ取れないわよ?」


 矢場がプールサイドから激を飛ばす。


(クソったれが)


 心中で毒づきながらデッキブラシの柄が軋むほどの力で擦る。

 透哉の耳には矢場の檄など届いていない。

 昨晩の園田の言葉が呪詛のように蘇る。


『学園に在席しているだけで君の居場所はどこにもないのだよ』


 今透哉が行っているのはプール掃除でも何でもない。無意味な慣れ合いなのだ。

 園田の指す管理対象には教師連中も含まれている。だから矢場との約束も反故にしてしまえば良かったのだ。

 自分が管理するのは学園と言う水槽であって中の魚とじゃれ合う必要などないからだ。

 生徒としての籍以外のすべてを捨てて、当初望んだ通りの孤独を選べばいい。切り捨てる部分と知って執着する自らの滑稽さに憐れみさえ覚えてしまう。


――今からでも捨てられる。


 もうじきこの学園は一人の女子生徒の失踪と言う事件に見舞われる。どのみち壊れる日常ならば早い方がいい。

 透哉は掃除半ばでデッキブラシを床に放り投げた。音を聞きつけた矢場がすぐさま駆け寄ってきた。


「どうした御波、もう疲れたの?」


 矢場がからかうような口調で尋ねる。その笑みが今の透哉には不快でしかなかった。


「ところで御波?」

「何だよ?」


 矢場は透哉の態度など気にも止めず、顎をしゃくってある方向を指した。顎を使ったのは単純に両手が掃除道具で塞がっているからだ。


「何であの辺りだけ干乾びてるの?」


 皆が精を出して磨いているプールの一角。コケで湿地と化した他とは違い、全くと言って水気がなくなっていた。

 原因は不明だが、例によって嫌な予感がした。


「よく来たなブラザー! そうさ、俺様の仕業だ!」


 自ら名乗りを上げた原因がプールサイドを素足で爆走してくる。


「注水」


 透哉は素早くプールサイドに上がると備え付けの蛇口にホースを取り付け、容赦なく豪々吾に向けて放水した。


「プールサイドを走るな」

「んごばごぼごぼ!?」


 透哉は豪々吾の苦悶の声には耳を貸さず溺れて動かなくなるまで放水を続けた。


「鎮圧完了」


 透哉は蛇口を閉めるとホース内に残った水も余すことなく仰向けで白目をむいた豪々吾にぶっかけておく。ホースを片付け、何食わぬ顔で掃除に戻ろうとして、唐突な寒気を覚えた。


「まぁー! お兄様! こんなところでも出会えるなんてやはりあたしたちは運命の赤い、いと――もがが?」


 透哉は神がかった速度で片づけたばかりのホースを蛇口につけ直すと、野ノ乃の鼻をつまんだ上でノズルを口に突っ込み、


「ふぉにいさま、こんふぁところでむりやりくふぁえさせるふぁんて――ごばばばば!?」


 蛇口を全開まで捻った。

 直ちに気を失った野ノ乃はどこか幸せそうな顔で鼻と口から水道水を垂れて白目を剥いて倒れた。


「兄妹そろって水が弱点なんだな」 

「御波、よくやった」


 背後からの称賛の声に振り返ると遅れてきたホタルがいた。手には透哉同様に掃除用具が握られていて、柄の先で気絶した野ノ乃の鼻をつついている。


「意図したわけじゃない。条件反射だ」

「それはそれで恐ろしいものがあるな……とりあえず私も掃除を始めるとするか」

「何で長靴履いてんだ? そんなに濡れるのが嫌なのか?」


 透哉は肩幅に足を開き意気込むホタルに率直な意見をぶつけた。


「私が素足でこんなところを歩いたらみんな感電してしまうだろ」


 するとホタルは呆れたような口調で長靴の爪先で濡れたプールサイドを軽く叩く。

 改めて見るとホタルが握っているのはデッキブラシではなく竹箒だった。プールの中ではなくプールサイドの掃除を頼まれたらしい。


「感電……こんな危険人物を水回りの作業に加えるって何考えてんだ担任は」

「んなっ! 危険人物とは納得がいかん。ちゃんと長靴を履いているだろ! 絶縁体を甘く見るな!」

「ほら、二人ともサボってないで働く働く!」


 矢場は立ち話を続ける二人に改めて檄を飛ばす。


「あ、済まない先生。御波が私を危険人物扱いするのが気に入らなくて抗議をしていたのだ」

「長靴あるなら大丈夫よ。さぁ、続き続き!」

「マジか、長靴すげーな」

「そうだろそうだろ。では、掃除を始めるか」

 

 透哉はボロ雑巾と化した七奈兄妹をせっせと隅に寄せるホタルを横目に、投げ捨てたデッキブラシを拾うと床掃除を再開した。

 自らが破りかけた日常を取り繕うように――


(捨てようと思えばいつでも捨てられる。それが今である必要はない)


――誤魔化して先延ばしにした。


 その後プール掃除は滞りなく進み五時を回ったところで解散となった。

 生徒たちが一人、また一人とプールを去っていく中、透哉は矢場の指示で掃除道具をロッカーに押し込んでいた。

 施錠を終え振り返ると人気の失せたプールサイドにホタル一人が残っていた。


「鍵は閉めたか?」

「……今終わった」

「先生は急な電話で職員室に戻った。鍵は私が預かろう。校舎にまだ少し用があるからついでに持っていく」

「任せた」


 透哉はホタルの行為に素直に甘え鍵を差し出す。

 そして、つい余計なことを口にしてしまう。


「具合はもういいのか?」

「どういう意味だ?」


 ホタルは首を傾げた。

 手渡した鍵がチャリンと音を立てる。


「昼休みの後のことだ。ずっとトイレに――」透哉はハッとして口を噤み「食器の片づけ押し付けて慌てて食堂を出て行っただろ? 体調でも崩したのか?」

 無理やり言い直した。


「……片づけを押し付けたことは悪いと思っている。でも、何故私がトイレにいたことを知っているのだ?」


 僅かな間を経て低いトーンで聞き返された。

 流耶を介して得た『ホタルがトイレにこもっていた』と言う情報は本来透哉が知りえない情報なのだ。

 完全に墓穴を掘った。

 まさか馬鹿正直に「流耶に聞いた」などと言えるはずもない。

 活路を見出せぬまま三十秒ほどが経過したころ、ホタルの方が口を開き、愁いを帯びた瞳で語りかけてきた。


「……草川流耶に聞いたのか?」

「――――っ!!」

「御波、お前は草川流耶の仲間なのか?」


 透哉は動揺の余り自分の名前さえ忘れそうになった。

 それは例えるなら赤の他人に意中の人間を言い当てられたようなとっ拍子もない衝撃。

 もう全て手遅れだった。誤魔化すことはできなかった。

 透哉は動揺を押し殺し、覚悟と共に答えた。


「敵対しているつもりはないが仲間と言う響きには抵抗がある」


 ホタルは何も言わず透哉を見ていた。

 その目がやはりお前だったのかと暗に語っていた。


「初めてお前と出会ったときから疑問に感じていたことがあるのだ。寮生ではないお前がどこから学園に通っていたのか」


 質の悪い答え合わせだ。そう思うと透哉の中に黒い感情が沸き起こった。


「当初は実家に住んでいる、そう思っていた。しかし、お前が帰っていくのは民家さえない山の方角。尾行してもいつの間にか見失う。それも決まって同じような場所、旧夜ノ島学園の付近でだ。これは何かある、そう確信した」


 既に腹は決まっているのだ。園田の命令だからホイホイ動くつもりはないが、これは自分が求める結果への必要動作なのだ。

 幸いこの場には自分とホタルの二人しかいない。

 透哉は黙って聞き続け、期を窺っていた。

 そして、


「御波、お前があんな所に住んでいるとは思わなかった」

「――っ」

「最後に確認する――お前が十年前の事件で生き残った〈悪夢〉なのだな?」


 ホタルのその言葉が引き金になった。

 もうこの場で殺すしかない。

 透哉は踏み出そうとして違和感を覚えた。それは顔面で蜘蛛の糸を切ったような些細ながらも不快な感触。

 ホタルはいつの間にか脱いだ長靴を手に持ち、素足でプールサイドを踏みしめていた。

 同時、足元に閃光が走った。

 ホタルを中心に紫電が蜘蛛の巣状に拡散し、濡れたプールサイドを這うように制圧していく。

 呼応するように周囲の電灯が不自然に明滅し、直後に連鎖爆発した。


「――今この場でお前を殺すのは骨だな」

 

 ホタルは一言だけ告げると透哉が体と周囲の異変に気を取られている内にプールサイドから姿を消していた。

 ホタルが放った電撃は透哉にとっては軽くしびれる程度だったが一般的な致死量としては十分な威力を持っていた。

 向けられた明確な敵意、しかし、透哉は驚きも慄きもしなかった。

 むしろ、都合がいい。そう思った。

 問題は完全に先手を取られていた点。


「向こうからくるなら話は早い。殺せばいいんだからな」


 取り繕った日常はあっさりほころび、崩れた。

 そして、更なる崩壊をこの時すでに招いていた。

 ホタルの追走を試みようとした透哉の耳にうめき声に似た音が掠めた。


(なんだ?――まさかっ)


 透哉は些細な疑問を抱き、即座に浮かんだ予感を杞憂とすべく追走を中断して駆け出す。

 プールサイドの柵を飛び越え、裏に回り込むと悪い予感は現実としてあった。


(クソ、巻き込んだっ――え?)

 

〈悪夢〉である自分、それを討つために現れたホタルの争いに一般の生徒を巻き込んでしまった。

 それだけでも今の透哉にはのっぴきならない状況だというのに、


――見慣れた金髪がうつぶせになって倒れていた。


 先に帰宅したはずの豪々吾だった。

 恐らくホタルの放った電撃の余波を受けたのだろう。豪々吾の服は所々焦げていて煙を吹いている。

 透哉は慌てて駆け寄ると肩を揺すって意識の有無を確かめた。


「おい! 大丈夫か!?」


 透哉は気づかない。

 友人を気遣う余りに見落とした失態に。


「……ん? ブラザーか、なんとかな」


 透哉の声に豪々吾は薄く目を開き、擦れて弱々しい声で返事をした。

 透哉はひとまず安堵し、改めて豪々吾の容体を確かめる。

 腕には焦げた跡がいくつもあり、頬の火傷からは出血している。感電して痺れているせいか動きはぎこちなく小刻みに震えている。

 幸い命に別状はなさそうだったが早急に手当てする必要がある。


「すぐ保険しつに――」

「だが、焦ったぜ」


 弱々しい声はそのままに、透哉の言葉を遮ると豪々吾は強引に体を起こし始めた。

 まるで長年放置した機械を動かすように手足の節々を軋ませながら。


「帰ろうとしたらブラザーと源が二人で話しているのが見えた。もしや決闘でも始まるのかと思って来てみれば急に体が痺れてこの様だ」


 自嘲気味に言ってよろよろと立ち上がる豪々吾。


「おい、無理すん、な……っ」


 透哉が支えようと差し出した手を豪々吾が弾いた。


「え?」

「……本当なのか」


 怒りを押し殺したような声だった。


「源との話は本当なのか?」


 拒絶された手の意味、


「お前は〈悪夢〉だったのか!?」


 眼前の友人の変貌、


「お前は、俺たちを騙していたのか!?」


 怒声のわけを悟り、

 容易く壊れた今を知る。

 

 ホタルの動向を探るあまり失念していた。

 この学園での生活の中で自分に課せられた最も重要な事柄。

 それは自身の素性の秘匿。

 それを、知られた。

 それも決して知られたくない、極少数の友人に。

 課せられた使命の破綻。

 築き上げた日常の崩落。

 

『だってそうだろ? 君は常日頃から自分が〈悪夢〉であることを黙り偽り、友人たちと過ごしているのだろ? 欺くことで今の定位置を獲得しているのだろ?』

『――っ!?』

 

 園田の指摘は的確だった。

 偽りの土壌の上に生えた牙城は所詮、砂上の楼閣に過ぎなかった。

 声の枯れた弾劾を浴びながら園田の言葉をもう一度脳内で反芻する。


「聞いてんのか? おい!?」


 半ば放心状態の透哉に豪々吾は憤りを露わにして掴みかかる。


「……っ」

「何とか言えよぉ!」


 掴まれた胸倉には目を向けず、怒声を発する豪々吾の顔を透哉はただ、見ていた。

 口から出る乱暴な言葉とは裏腹に、引き千切られそうなほど皺が寄ったシャツを握った豪々吾の手はなぜか震えていた。

 厳しい剣幕で迫り、激情に任せて叫ぶだけだった豪々吾の手が感電による痙攣とは別の理由で震えていた。


(何であんたの方が泣きそうな顔をするんだ……)

「なぁ、黙ってないで答えろっ!」


 語彙の荒々しさとは真逆の弱々しい声で豪々吾は透哉に食いかかる。


「さっき源と話していたことは本当なのか? お前が〈悪夢〉だってのか!?」


 まるで信じがたい事実に抗うように。

 信じたいからこそ憤っているのだ。


「……」


 豪々吾の縋るような声にも透哉は黙秘を続けた。


「おい、何とか言えよ! 嘘だって言えよ!」


 友の潔白を切望する豪々吾に応える言葉を見つけられない。

 同時、『俺は〈悪夢〉だ、人殺しだ』と告白する勇気もない。


「答えろ! 御波透哉! お前は、本当に人殺しなのか――!」

「……」

「ぐっ!――こたえ、ろ」


 終始無言を貫き通した透哉は拳から力を抜くと気絶して崩れ落ちた豪々吾を地面に寝かしてプールを後にした。


「悪いな。これでお別れだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る