第2話 罅割れる日々。(2)

 2.

 朝からいい天気だ、梅雨には珍しい快晴の空を見上げながら透哉は思った。

 登校の準備を済ませプレハブ小屋を離れておよそ十分。

 自分の中で折り合いをつけたとは言え、昨晩からのもやもやした気分が晴れる気配はない。そのせいかのんびり腰を据えて朝食を摂る気分になれず、今は歩きながら申し訳程度に紙パックの牛乳を胃に流し込んでいる。

 朝食を抜くのは憚られたが始業時刻が差し迫る中そんなことは言っていられない。


「……!」


 曲がり角に差し掛かると透哉は何かを思い出したように足を止めた。

 民家のブロック塀の切れ目、夜ノ島の主要道路に入るための曲がり角である。塀で遮られて透哉がいる場所からでは道路は見えず、車両の通行は確認できない。

 迂闊に飛び出せば交通事故に発展しかねない危険な場所……なのだが、透哉が足を止めた理由はそこではない。


「……大丈夫か?」

 

 塀に張り付くように歩き、角から車道を覗き見る。スパイと言えば格好もつくが、どう見ても不審者にしか見ない挙動である。


「よし、今日はいないみたいだな」


 普段ならそこで待ち伏せしている人物の不在にほっと胸をなでおろす。それも束の間、頭上から熱気と聞き覚えのある声が降ってきた。


『……いさまー!』

「――上っ!?」

「お兄様~! 空から、おはようございまーす!」


 見上げた先、透哉の目に飛び込んできたのは軽く見積もっても一メートルはある巨大な火の玉。小型の太陽に見えなくもないその火の玉はあろうことか透哉目が掛けて降下してきた。


「野ノ乃!? ちょっと待てーー!!」


 航空機のように鋭角に滑り込んでくる火の玉に叫びつつ、透哉はその場から飛びのいた。

 火の玉は着陸した途端に形を失い、シャボン玉のように弾けて無数の火の子となって周囲に散乱する。

 雨水を含んだアスファルトから上がる蒸気の向こう、炎のヴェールの奥から飛び出したのは一人の少女。ローファーの踵から摩擦による火花を上げながら、透哉の前を豪快に滑って通過すると勢いを殺しきれずに突き当りのごみ集積場に突っ込んで爆発した。

 透哉はその光景を呑みかけの牛乳をずるずると啜りながら眺めていた。

 ほどなくしてゴミ山の一部が盛り上がりポップコーンのように弾け跳ぶ。

 その下から燃え盛る少女、七奈野ノ乃なななのののは顔を出し「ん――っ!」と頭の上にバナナの皮が乗っていることにも気づかず寝起きのように体を伸ばして凝りを放出する。続いて肩や顔に付いたゴミを落とし、ついでのように制服の襟やスカートの裾を手早く直し始める。

 どうやら燃えるゴミの日だったらしく半端に熱を加えられた生ゴミが放つ異臭が立ち込める。加えてカラス除けのネットもところどころ焼き切れていてプラスチックの焦げた匂いまでも混ざり込む始末である。

 そんな悪臭の坩堝と化した場所に立つゴミ溜め少女、野ノ乃は何事もなかったように小走りで近づいてきて、今朝一番の笑顔で挨拶をする。

 バナナの皮を頭に乗せたままで。


「おはようございます。お兄様っ!」


 学園指定の黒いスカートと純白のブラウスに身を包み、襟元の黄色いリボンと一緒に栗色のポニーテイルをひょこひょこと揺らす姿は子犬のようである。

 しかし、一連の流れを見ていた透哉としては今すぐ段ボールに詰めて山中に捨てたい気持ちになる。外見は可愛い部類に入るとは思うがバナナの皮を頭に乗せた珍妙な少女にときめく趣味はない。


「野ノ乃、とりあえず死ね。後、臭いからこっちくるな帰れ」

「爽やかな朝には似つかない辛辣なお言葉!? と言うか死んだら帰れませんわ!?」

「じゃあ、帰って死ね」

「お兄様酷い……でもあたしはそんなところが」


 透哉の取り付く島もない言葉に悲しみの色を見せたのはほんの一瞬。野ノ乃はたちどころに酒にでも酔ったようにトロンとした表情になり、透哉に熱い視線を送る。

 透哉にとって野ノ乃は一つ下の後輩にあたり、この四月の入学式にこの角で偶然出会って以降、一方的に言い寄られているのである。以前付きまとう理由を尋ねたところ、「運命です!」と断言されそれ以上深入りするのは止めた。


「それより、時間も差し迫っておりますので、ご、御一緒に……御一緒に参りましょう!」


 野ノ乃は時間を確認するとあくまで丁寧な後輩を装い、興奮で息を荒げながら先を促した。獲物に飛びかかる直前のオオカミのような様に危機感を覚える。


「いや、俺は先に一人で行く。お前は今から帰って後から遅刻して来い」


 後輩の、しかも女の子からの誘いを透哉はあっさりと断った。この丁寧さの裏に潜む本性を知っているので素直に受け止めることができない。


「いいえ、無理ですわ! お兄様の後を付け回し痕跡を辿るのがあたしの日課! 毛の一本、皮膚のひとかけらでも手に入れて見せますわ!」


 野ノ乃はぶるりと身悶えし、丁寧で可愛らしい後輩の仮面をマッハで脱ぎ捨て、ストーカーとしての本能から叫ぶ。


「テメェ、そんなことする気だったのか!? おちおち唾も吐けないじゃねぇか!」

「お兄様の唾ぁ!?――そんな素敵なものがどこに!?」


 それを聞いた野ノ乃はうっかり小銭の音に反応してしまった人のように周囲を血眼で見回しながらゴキブリのように地面を這い回る。今日び守銭奴だってそんな必死な顔はしない。


「ちょっと待て、野ノ乃! お前手に何持ってやがる!?」


 暴れる野ノ乃の手を掴み確認する。間違いない。野ノ乃の手には弁当などに入っている魚の形をした醤油さしが握られていた。


「いやん♪ これはお兄様への愛の忠誠を示すものですわ!」


 醤油さしを抱きしめながら身もだえする変質者は頬を染めながらオレンジ色に燃え上がる。その熱で頭上のバナナの皮がスルメのように反り返る。

 透哉は野ノ乃の積極性溢れるストーカー行為に本気で被害届を出そうかと考えてしまう。


「とりあえず、熱いから魔力を抑えろ」


 透哉は衰える兆しの見えない変態発言を軽く流し、野ノ乃の体から溢れるオレンジ色の魔力、それに起因して発生する炎を指して言った。野ノ乃は魔力を炎に変質させる能力のエンチャンターである。


「あふれる魔力はお兄様への愛と同じでとめることができません!」


 ビシィっと透哉を指さして言い放つ。同時に魔力もゴウっと燃え上がる。


「……」


 野ノ乃の決めポーズを黙殺した透哉はゆっくりと踵を返し去っていく。


「あ、れ? お兄様……え? なにも無視しなくても……まさかこれが放置プレイ!?」


 変態的解釈には耳を貸さず透哉は先を急ぐ。


「ジェットハグ!」


 背後から聞こえた不穏な言葉に透哉は体を反転させながら横にずれる。

 直後、野ノ乃が足の裏と背後を爆破し無理矢理得た推進力に乗って透哉の居た場所を熱風と共に貫いた。結果すごい勢いで電柱に熱い抱擁をする野ノ乃。少し不憫な気もしたが人型に煤けて煙を吹いている電柱を見るとそんな気はたちどころに失せた。


「そ、そんなことより……お兄様?」


 抱擁と同時にどうやら顔面を電柱にぶつけたらしく鼻が赤い。赤鼻のちっとも懲りていない野ノ乃は電柱から離れると何故か急にたどたどしい口調で話しかけてきた。普通なら健気な後輩女子に見えるその仕草も変態ストーカー少女が相手では気遣う必要はない。

 透哉の慧眼が悪事を働く兆候と看破する。

 野ノ乃が落ち着きなくちらちらと何かを見ている。

 どうすればここまで自然に不審さを全開で振る舞えるのか。


(いったい何を……コイツ)


 まるで成人雑誌コーナーをチラ見する中学生のような挙動。その視線の先には透哉の右手があって、さらにその手には飲み終えた牛乳の紙パック。

 そして、僅かに歯型が残ったストローの先端に野ノ乃の視線は釘付けになっていた。


「お兄様はポイ捨てとかされない方ですの?」


 余りに不自然かつ露骨な誘導に清々しささえ感じてしまう。もしうっかり手を離そうものなら獲物に群がるピラニアみたいストローをガジガジする姿が容易に想像できた。


「あたし、もう我慢できませんわ!」


 狩猟本能(ストーカー魂)全開で紙パックめがけて跳躍する野ノ乃。それの危機から紙パックを守護するために透哉は腕を振り上げる。


「ふふ、隙ありですわ! お兄様っ!!」

「陽動か!?」


 野ノ乃は振り上げられた腕には見向きもせずがら空きになった透哉の腰にがっちりと抱き付く。


「う、うぅっく……くふっ……ぐふふふふふふぅうう!!!」


 ようやく訪れた悲願の時に野ノ乃は精一杯キモい声を上げてくねくね悶え歓喜する。


「もっと、もっとですわ! お兄様! もっとお兄様に……ハァハァハァ! んぐぐうぅ!?」


 身の危険を感じた透哉は猛進する野ノ乃の額を抑える。


「は・な・せ・!」

「お兄様! お兄様!? どうしてあたしを受け入れてくださらないのですか!? は、これも新しいプレイの一つ!? そう考えれば、これはこれで……いい!!」


 野ノ乃が暴れた拍子に鼻の穴に指が突き刺さる。


「ふごぁ、ぶひひぃ!? ふぁ、お兄様の指があたしの濡れた穴の中に……」

「妙な言い方するな!」


 指を引き抜くと透明なアーチが出来て朝日をキラキラと反射する。


「これが二人の初めての共同作業――」

「うわぁ、ばっちい」


 透哉は嫌悪感むき出しの声で言って鼻水の架け橋を爪先で軽く切り、飛び込んできた野ノ乃の顔面に足がめり込む。


「……すまん、今のは全面的に俺が悪い」


 鬱陶しく思っていても顔面に蹴りを突き刺そうとは思っていない。ゆっくりと足を下ろすと鼻血を吹いた野ノ乃が幸せそうな顔で固まっていた。


「照れ隠しに顔面スタンプとはお兄様ってばシャイなんですわね」


 前向きかつ変態的解釈で靴跡のくっきりついた顔で恍惚の表情。頭上のバナナの皮は尚も健在。無駄な抵抗を放棄した透哉はひどく憔悴した声を漏らす。そんな透哉に野ノ乃は再びしがみつく。


「もう、いやだ……」


 女の子に抱き付かれてその上胸まで押し付けられているのにウザさしか感じないって逆にレアだよなーとか思ってしまう。


「……熱い」


 なんだか急に頭痛がしてきた透哉だったが、きっとそれは天気のせいだろう……そう思うことにした。へばりついた野ノ乃をどうするかと透哉が額に手を当てて考えていた時だった。


「全く、朝から暑苦しい奴らだな」


 突然の声に振り向くと呆れ顔のホタルが立っていた。走ってきたらしく額には汗が滲んでいた。


「!」


 ホタルの顔を見た瞬間、透哉は心臓が飛び出すかと思った。嫌でも昨日の出来事が脳裏をよぎり、咄嗟に言葉が出てこなかった。


「おはよう、御波」

「お、おお、おはよう」


 思いのほか普通にあいさつされ、透哉は拍子抜けした。


「なんだ? 変な奴だな」


 挙動不審な透哉を見ながらホタルは首を傾げた。


「というか、なんなんだ……その腐乱したチワワのような顔は」


 透哉に抱きついたままの野ノ乃の顔を汚い虫でも見るような目で見る。ホタルの比喩ではない見たままの評に透哉は思わず苦笑する。


「つーか、いい加減離れろ!」


 透哉は野ノ乃の顔面に再度靴底を見舞い、蹴りはがす。


「でゅふ? あたしとしたことがはしたない」


 野ノ乃は「ほほほ」と笑ってごまかし手の甲でよだれを拭う。ホタルは嫌そうに野ノ乃から視線を外すと透哉に言う。


「それにしても、女子の顔面に容赦なくキックする奴なんて初めて見たぞ」

「あいにくこれ相手に手加減は命取りだ」


 一発目は不可抗力だったが、二度目ともなればそれほど抵抗はなかった。慣れって怖いなぁ、と思っている透哉の前では野ノ乃が土に汚れつつもうれしそうにしている。


「しかし、それ以上は止めるべきだ。そいつがいくら頑丈なドMでもさすがに死にかねん」

「あら、ホタルさん心配なら不要ですわ。あたしにとってはご褒美みたいなものですから死んだりしませんわ」


 野ノ乃は靴跡の付いた顔で不遜に笑う。


「いや、貴様が死ぬのは歓迎するがそのせいで御波が罪に問われるのは不憫だなと思っただけだ」


 売り言葉に買い言葉もここまでいくと一芸だなと透哉は思った。


「お前はもっと女としての節度を弁えるべきだな」


 懲りずに透哉に手を伸ばす野ノ乃を見かねたホタルが呆れたように言う。


「全くこんな往来で男に抱きつくなど……」


 根本はそこではない気がするが透哉はあえて口は挟まない。


「……」


 反省したのか、野ノ乃は名残惜しそうに、けれどすんなりと透哉から手を引いた。透哉は「ふぅ、」と安堵のため息をつく。妙に汗ばんでいた。それが単純な熱さによるものなのか、女の子にハグされたことによるものかは、分からなかった。


「まぁ、ホタルさんに女のなんたるかを教わるとは思ってもみませんでしたわ」


 透哉に向けていたデレデレの笑みが挑発的な笑みに変わる。


「どういう意味だ?」


 ホタルは露骨に顔をしかめた。


「まずその喋り方ですわね」

「なっ!」

「加えてそのサーキットのような平坦な胸!」

「なな!」


 ガーンと言う効果音が似合いそうな顔でホタルは自分の胸元も見下ろす。


「おい、二人ともそのぐらいに」

「お前は黙っていろ!」


 ホタルは仲裁に入ろうとした透哉を一言でぶった切るとチラチラと自分の胸と野ノ乃の胸部を見比べたのち――盛大に負け惜しみを口にした。


「お、お前だって対して大きくないではないか!!」

「あら?」


 反応の仕方は優雅に取り繕ってはいるものの、野ノ乃の額にはうっすらと青筋が浮かんでいた。


「お兄様、ちょっとお手を拝借」


 そういうと野ノ乃は透哉の両手を取って、片方を自分の胸に、もう片方をホタルの胸に押し付けた。


『え』


 野ノ乃のありえない行動に透哉とホタルの声がハモる。

 透哉は恐る恐る目を向けると感電した猫のように髪の毛が逆立つホタルと目が合った。


「えーっと、サーキットというか、滑走路で……ぞぼらぁ!?」


 透哉のフォローにならないフォローにホタルの拳がさく裂した。

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