第2話 罅割れる日々。(3)

3.

 四時限目終了のチャイムが鳴った。

 授業に身が入らないのはいつものこと。しかし、今日はいつも以上に上の空だったことを今になって自覚する。


「あー、四時間目は現国だったんだ」


 透哉は一時間開かれずに終わった現代国語の教科書を机に突っ込む。

 サクッと授業のことは忘れ(それ依然に何も覚えていない)気分を昼食モードに切り替え……ようとして、やはり隣の席のホタルのことばかりが気になってしまう。

 今日は今朝からこの調子でホタルから目が離せないのだ。と言っても色恋に悩む思春期の青少年的なものではない。

 色気どころか私情さえ挟まれない危惧と言う名目の監視。こちらの警戒を気取られないように自然を装いながら、いつ牙を剥くとも限らない敵対者との精神的な距離を測り兼ねていた。

 日常への意識が疎かになっている中、ふと、見落としていた違和感に気付いた。それは今朝の邪気のない喧騒に紛れて埋もれていた。


(あれ、源って……寮と逆の方から来なかったか?)


 唐突に背筋を這う寒気に透哉は思わず身を震わせた。

 学生寮とは逆の方角、そこには旧夜ノ島学園を有する丘陵がある。

 深く考えるまでもなかった。尾行されていたのだ。

 透哉が恐る恐る隣のホタルに目をやるとびたりと正面から視線が激突した。窒息しそうなほどの衝撃と共に透哉は身を引いた。

 ホタルの目に宿る敵意、その余りの剣幕に慄き――


(……?)


――透哉は首を傾げた。

 向けられた敵意が妙に柔らかく感じたのだ。殺伐としたこととは違う、言い替えるなら小さな子供が拗ねているようないじらしさ。

 ホタルが小声で漏らす。


「――女の敵め」


 ホタルは些か異なる種の敵意をむき出しにしながら透哉を威嚇し、薄い胸を両手で覆う。


「……っ」


 今朝の一件を言っているのだろう。リアクションとしては正しいけれどなにか違う。触ったのは透哉とは言え、透哉も被害者と言えば被害者なのだ。

 口に出すこと憚られたので透哉はにへらっと曖昧に笑ってごまかした。


「……御波、いつか覚えておけ」


 ホタルは何気に怖いことを呟きながら顔を背ける。透哉はそんな些細な応酬に安堵しつつ、ホタルに対する無意味な警戒を解いた。

 今はまだその時ではないのだ。

 お互いがどんな事情や秘密を抱えていたとしても、壊れるその瞬間までは隣人であり、友人なのだから。

 兎にも角にも昼飯を食べよう、改めて切り替える。

 廊下の方に目を向けると食堂へと移動する生徒の本流が見えた。食堂での混雑を避けるため窓から飛び降りて先回りしようかと考えていると足元から声がかかった。


「御波! お昼ご飯やね!」


 見ると頭の上に皿を乗せ尻尾をぶんぶん振る松風がいた。その仕草は完全に飼い主に餌をせがむ犬畜生そのものだ。


「玉ねぎでいいか?」

「死んでしまいます。止めてください」


 透哉としてはもちろん冗談なのだが、松風は途端に真顔で(その上標準語)言う。

 自称魔犬と言いながら弱点が犬と同じなのはいかがなものだろう。そう思いつつ机の横に吊るしたビニール袋から犬用の缶詰を取り出すと慣れた手つきで皿の上に開封して食べやすいように少し潰してほぐしてやる。

 もうこの時点で食堂での混雑は確定してしまったが、仕方がない。餓死した松風に祟られでもしたら迷惑この上ない。


(こいつに祟られてウザい思いするくらいなら、並んで待つ方がマシだな)

「うわぁい! おおきに御波!」


 透哉の中で大変友達思いな打算が張り巡らされているとも知らず、松風は皿に顔をめり込ませる勢いで貪る。こうして見ていると本当にただの犬にしか見えない。


「すっかり餌やり係が板についているな」


 取り出した二つ目の缶詰を机の上で転がしている透哉にホタルが言う。


「板につくも何も、万場一致で俺に押し付けてるだけだろ?」


 透哉は半眼で隣からの声に言い返す。

 透哉のこのクラスでの役目それは犬の世話。楽なので特に不満があるわけではないが素直に受け取るのが癪なので一応意見する。


「まぁ、愚痴るな。適任者なんだから仕方がない……ぐっ」


 その感情を噛み殺したような声が聞こえたのは透哉が缶詰のプルタブをいじって暇つぶしをしているときだった。


「ん?」


 声がした方を見るとこの世の終わりのような顔をしたホタルが鞄を開いた状態で固まっていた。透哉は何が起こったのかなんとなく察しがついたが、ひとまず声はかけず成り行きを見守る。


 ガタンガタン、ゴトンゴトン!


 電車でも走っているのではと思うぐらいの轟音を奏でながらホタルは机の中を豪快に漁り始めた。少し怖くなったので目を逸らせると中身を綺麗に平らげた松風が皿を丁寧に舐めていた。


「御波! おかわりおかわり!」

「おう、分かった今――っ」


 がし。

 缶詰を開けたら食堂に行こう、さっさとこの場を去ってしまおう、そう思って席を立った透哉のシャツを何者かが掴む。恐る恐る振り返ると犯人は予想通りホタル。

 ギロッ。


「ひっ、源!?」


 透哉が思わず悲鳴を上げるほど凄まじい目でホタルがこちらを睨んでいた。数分前とは違い明らかに殺気立っている。


「御波? 妙な声出してどしたん?――ッヒィ!? じょぱー」


 殺気に満ちたホタルの顔を見た松風は恐怖のあまり漏らした。


「おい、クソ犬! テメェ! 人の机の上でなに粗相してやがんだ!?」

「細かいことは後にしてくれないか?」

「細かくねぇ! 俺の机の上が犬の小便まみれだ!」


 透哉の言い分には耳を貸さず、ホタルは透哉の肩を掴み強引に振り向かせる。

 そして、透哉の耳元でぼそりと囁く。


「……慰謝料だ」

「――――は?」


 一瞬言われた意味がわからず、透哉は素っ頓狂な声を上げた。


「今朝私の胸を触ったことに対する慰謝料を昼食一回で勘弁してやると言っているんだ!」

「……んあぁ?」


 正直理解が追い付かない。それより早く机を掃除したい。ぼやぼやしている間にも犬の小便は机の端から零れ落ち、下に水たまりを作り始めている。


「雑巾だ! 早く掃除しないとっ!」


 飼い主(?)の責任として後始末を試みる透哉をホタルとその食欲が阻む。

 ホタルは透哉の肩から手を離し、今度は透哉のシャツの襟を両手でつかむと飢えた獣のような形相で迫る。

 そして、ホタルは透哉の襟を掴んだまま神社の鐘楼を鳴らすかの如く豪快に前後に振り回す。


「早くするのは食事の方だ! 出すのは食った後だ!」

「え、いや……ちょっと待て、意味がうわぁぁああぁぁ!?」


 透哉の抗議の声は悲鳴に変わり、クラス中に響き渡った。


「ええい! 行くぞ、いいからお前は金を出せっ――!」


 ホタルの極めつけの言葉にその時二年五組の教室内にいた面々が凍りついたのは言うまでもない。

 そして、透哉の机周辺が臭くなったのは言うまでもない。

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