中編

「……んぅ」

 あれから、私は薄暗い部屋で目覚めた。先ほど食事を食わされた部屋だ。

 部屋にはさっきの私の吐しゃ物も残されたままだ。匂いが部屋に充満してひどいことになっている。

「……痒い」

 さっき水を摂取し過ぎたせいで気持ちが悪い。けど、もう吐くものすら胃に残っていない。

 しかも、今日はお風呂にも入っていないので身体の至る所が痒い。

 私は元々肌が弱いので、すぐに痒みが起こる。

「お風呂……なんて入れるわけ、ないか」 

 私は強めに爪を肌に立てて掻いた。

 すこし血が滲むけど、こんな状況だからか全く気にならない。

「お、目覚めた? お腹いっぱいになった途端に眠っちゃうなんてだらしないなぁ。食べて寝たら牛になっちゃうよ」

 男は突然、部屋に入ってきた。片手には缶ビールが握られていた。

 この家にも、まともな飲み物はあるんだ。この際、お酒でもいいから飲みたい。

「……っ」

「ああ……そんな爪を立てて掻いたら駄目だよ、僕の優姫ちゃんが傷だらけになっちゃうだろ」

 男は私の血の滲んだ肌を見て言う。

 先ほどまでのお前の虐待に比べれば、こんな傷は気にもならないというのに。

 私は歯を食いしばった。

「だって……痒い。お風呂も入ってないし」

「あれ、お風呂入りたかったの?」

 男は下種な笑みを浮かべてそう言った。背筋が凍る。

 今度こそ、油にでも沈められてそのまま焼き殺されてしまうかもしれない。

 そう考えると、とても入浴をしたいだなんて言い出せなかった。

「……いいです。あなたの家のお風呂なんて怖くて入れません……」

「あはは! そんな怖がらないでよ、ちょっと悪ふざけをしただけじゃない。仲良くしようよ」

 男がゲラゲラと笑った。

 きっと、次は私をどうやって嬲ろうか考えているんだ。そう考えると、一時も気が休まらない。

「けど、優姫ちゃんが嫌と言うなら強要はしないよ。お風呂はまた今度にしようか? おやすみ……」

「えっ……」

 しかし、男が私に入浴を強要することは無かった。

 意外だ。力ずくにでも浴場に連れて行かれ、油か硫酸に沈められるのかと思った。

 私はホッとする。こんなことで安心している時点で、異常だ。


「……っすぅ」

 その後、奇妙な安心感からか、私は無防備にも部屋の隅でいつの間にか眠っていた。

 現実逃避のためでもあった。眠っている間は現実から逃げられる。またいつも通りの夏休みに戻れる気がする。

 そして、目が覚めたらいつもの家のベッドの上なんてことを期待する。

「……ん」

 けど、そんなことはない。目覚めたのは、汚物と汚臭に塗れたあの男の部屋。私は少し泣きそうになる。

そして深夜にもかかわらず、隣の部屋から微かに音が聞こえた。

 ……お湯をやかんで沸かしてる音? でもなんでこんな時間に。

 部屋の隅の古びた時計では時刻は午前2時。あの男がコーヒーでも飲みたくなってお湯を沸かしたのか。

 すると、突然部屋の襖が開かれた。

「……っ? あ……」

 いきなり顔に光を照らされ、眩しい。私は目を逸らした。

「……ああ、起こしちゃったか。できれば寝ている間に済ませたかったんだけど……仕方ない」

 立っていたのは男だった。片手にはやかん。やかんからは湯気が立っている。

 だが、なぜ私のところに。寝ている間に何を済ませるつもりだったんだ。

「できるだけ動かないでね? 動かれると時間かかっちゃうから」

「……えっ?」

 男はそう言って私の身体を押さえつける。その上、手錠やらロープで手足を拘束し始めた。

「なにっ……止めて! 一体何を……」

 男は黙々と拘束を続ける。しかし、前とは違い口はテープで拘束されなかった。

「じゃあ、少しの間おとなしくしてね」

 男は優しく微笑んだ。

 すると、やかんに入った熱湯を私の太ももの辺りに勢いよく注いだ。

「あああああああああああっ! 熱い! 熱いよっ!」

 私は熱さに悶える。

 自分の肌が、爛れていくのが良く分かった。肌が焼け、肉が爛れる。

「ほら、身体が痒いって言ってたろ? だからお風呂の代わりにお湯で拭いてあげようと思ったんだよ」

「いやぁ! やめてぇ! 痒くないっ、もう痒くないですからぁぁ……っ」

 私は芋虫のように床を蠢く。だが、男の悪戯は容赦なく続けられる。

 なぜ男が私の口を塞がなかったか。それは私の悲鳴を聞くためだとこの時、確信した。

「こらこら、夜中に大声出しちゃだめだよ。いくらこの部屋が防音仕様だからって」

「あああっ……あ」

「身体は清潔に保たなきゃ。熱湯殺菌? ちゃんとしなきゃね毎日」

「っ……!」

 こんなことを、これから毎日……?

 確かにお風呂は毎日必要だけど、こんなのなら一生いらない!

「女の子は綺麗じゃないとね。そのためならちょっとくらい熱くても我慢できるだろ?」

「っ! ああああああああっ……あ、ぁ……あっ」

 今度はお腹の辺りに熱湯を注がれた。

 痛い、熱い。太ももとお腹がもう私の身体じゃないみたいに感覚が失われていく。

 

 その夜、男による『入浴』は明け方近くまで続けられた。


「はぁっ……はっ……」

 ようやく地獄の熱湯地獄が終わった。やかんの熱湯がやっと空になったのだ。

 男が気が済んだのか私を放置してどこかに消えてしまった。

 体中の皮膚が爛れ、水膨れが至る所にできていた。

「うぅっ……あ……」

 私は無意識のうちにその爛れた皮膚に爪を立て、掻き毟っていた。

 痒くて痛くて堪らないのだ。水膨れが潰れ、皮膚が破れ血が流れようとも手が止まらない。

 このまま肉を抉って骨まで届きそうだった。

「優姫ちゃん?」

「ひっ……」

 襖の間から突然、男が顔を出す。

 どうやら私の微かな声を隣の部屋から聞き当てたらしい。手には、何故か工具箱。

「あーあ……またこんなに掻いちゃって。また腕の皮膚がボロボロじゃないか。女の子は肌を大切にしないと駄目だって言ったのに」

「……っご、ごめんさい!」

 私は震える手を押さえつける。

 なにが悪いかは分からなかったが、反射的に謝る。また言いがかりをつけられて何かされる。

 よく見ると、私の腕はもう人の腕とはいえないほど醜く傷ついたものだった。

 赤黒く爛れ、至る所から血が流れ出している。

 すると、男は私の両手を掴み、いきなり手錠をかけ始めた。

「いいや、優姫ちゃんは悪くないよ。悪いのはこの手なんだから」

「えっ……いやっ……なにっ、外して! もう掻かないから! 外してください!」

 私は男に縋りつき、訴えるが男は全く聞き入れない。

 また地獄が始まるんだ。私が目を覚ましたからまた痛めつけに来たんだ。

「うーん、でもこれじゃあまだ足りないなぁ」

 すると、男は工具箱を漁り始める。そして、あるものを取り出した。

「これで、余計なものは取り除いちゃおうか? ねぇ、優姫ちゃん」

 握られていたのは、ペンチだった。

 そのまま男は私の腕を思い切り踏みつけ、身動きが取れないようにする。

 私の腕に男の全体重がかけられている。ほとんど力が入らない。

「いや! やだやだやだっ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」

「ほら、暴れない。一回で剥がれないと余計に痛くなるよ、我慢しなきゃ」

 男は私の爪をペンチで挟み込む。冷たい金属が私の爪を捲り取ろうとしている。

「っひ! はっ……ああっ」

「いくよ、せーの」

 バチン!

 肉から爪が剥がされた。一瞬の出来事だった。

「あああああああああああああああっ!」

「お! 綺麗に一発で剥がれた! やっぱ爪が小さいからかなぁ」

 激痛が走る。元々爪があった部分にはむき出しの肉が。

 空気に触れているだけで痛みを感じる。

「痛い! 痛い! もう掻きませんからぁ!」

「じゃあ、2枚目いくよー。頑張れ優姫ちゃん」

 必死に叫び、助けを請う私を完全に無視し、男は次の爪をペンチで挟み込む。

「やめてッ……」

 バチッ!

私の声は聞き入れられず、爪剥ぎは継続される。

「あぁッ……が」

「あら……途中で爪が割れちゃったよ、優姫ちゃんが動くから」

 しかし、1枚目のように綺麗に爪は剥がれていなかった。

 根元の方の爪がまだ残っており、そこから割れたままになっていた。

「あ……う」

 声も出なかった。全部剥がれるよりも半端に割れている方が痛い。

 こんなことなら掻くんじゃんなかった。けど、今更後悔しても遅かった。

「うーん、優姫ちゃん辛そうだね。じゃあこれはどうかな? 剥がすじゃなくて割る方」

 男は工具箱からトンカチを取り出した。せめて痛みを和らげてくれるのなら、それすらありがたい。

 私は黙って頷いた。せめて、痛くないほうがいい。

「じゃあ、いくよー3枚目」

躊躇いなく爪にトンカチが振り下ろされる。

ドスッ!

爪どころか、指ごと潰されてしまうんじゃないかと思うほどの威力だった。

「ッ……がァ」

「おー綺麗に割れた! 粉々だよ」

 男は嬉しそうにはしゃぐ。

 痛みが和らぐなんて考えた自分が馬鹿だった。これじゃ爪と一緒に指が潰される。

「じゃ、このまま残り7枚も終わらせよっか。大丈夫! 優姫ちゃんならきっと我慢できるよ! ボクが付いてる!」

 だが、今更遅い。

 私はただ目をつぶってこの凶行が終わるのを歯を食いしばって待った。

 今すぐにでも気を失いたい、それをただずっと願っていた。


 それから、男との地獄の共同生活は続いた。

 朝、昼、晩の食事は全て男の食い残した腐りかけのコンビニ弁当。吐いたら吐しゃ物を無理やり食わされるので私はなるべく味を感じないようにして食事を流し込んむようにした。

 入浴は許されず、身体は常に痒かった。けど、もう掻くための爪は全て私の指には無かった。全てペンチとトンカチで破壊されたからである。

 そして男の気が向くと殴る、蹴るなどの暴行が始まる。それは3分で終わるときもあれば、3時間ずっと殴られ続けた日もあった。

 男は基本的に家にいた。働いている様子も無い。つまり一時も気が休まることが無いのだ。

 そんな毎日が、どれほど続いただろうか。一か月? 二か月? それすら判別できなくなっていた。


「……っあ……」

「優姫ちゃんちょっと太ったかな、顔が大きくなったみたい」

 男が気を失いかけている私の首を掴み上げて言う。 男の裏拳が思い切り顔面に命中し、その勢いで後頭部から倒れ込んで脳震盪のような状態になっていた。 

 殴られ続けた私の顔は腫れ上がり、顔の原型を留めてすらいなかった。

「ぁ……っ」

「あー暇だなぁ」

 次はわき腹に拳が打ち込まれる。

 痛みは感じるが声は出ない。もう叫ぶことにすら疲れたのだ。

「……っ」

「もう悲鳴も出なくなっちゃったかな? 慣れるって怖いね。最初の頃はあんなに泣き叫んでたのに」

「……」

 身体はほとんど動かなかった。火傷のせいか、それとも骨折のせいか。一番の原因は精神的な疲労のせいだろう。頭もまったく働かない。

「……つまんないなぁ。泣いてくれないとおもしろくないよ、分かるかな」

「……」

 男は私が苦しみ、泣き叫ぶことを喜びとしている。

 だから、せめてもの抵抗として私はできるだけ弱音を吐いたり、泣き叫ばないようにしようと決心したのだ。

「ふーん、反抗期かな。まぁいいよ、僕との生活に慣れてきてくれた証拠だもんね。じゃあ明日からは少し遊びにアレンジを加えるとしよう。ちょうど色々道具も届いたことだしね」


 だが、その決意は明日にはすぐに破られることになる。

 私は明日、左目を男に奪われるのだ。


「ほーら、朝だよぉ。目覚ましの熱々コーヒーだよぉ」

「……っくッ」

 眠っている私の背中に熱湯で作ったコーヒーが注がれた。この熱さに慣れてしまったのか、それとも皮膚が麻痺しているのか既に耐性が備わっていた。 

 私は、声を出さない。男へのせめてもの抵抗だ。

「優姫ちゃんが口の中切れててコーヒー飲めないっていうから、身体で味わってもらいたくて早起きしちゃったよ? どう? 目は覚めたかな」

 私の口の中は確かに毎日殴られているせいで傷だらけだ。常に血の味がするし、歯も何本か根元から折れた。

 けれど、だからと言って身体に浴びせてほしいなど言った覚えはない。

「……ッ」

「……ふーん、だんまりか。いいよ、まだ目が覚めないみたいだね」

 男はもう一度、私の背中に熱湯コーヒーを浴びせる。

「っぐぅぅッ……う」

 慣れたとはいえ、同じ個所に何度も熱湯を注がれるのはやはり厳しい。声が少し漏れてしまう。

「どう? ちょっとは目覚めた?」

「……っ」

 私は、苦悶の表情を浮かべながらもそっぽを向く。

「……そうか、そこまで僕と話をするのを拒むのか。いいよ。じゃあ好きなだけ眠るといいよ」

 すると意外なことに男は悔しそうな表情を浮かべ、そのまま部屋を後にした。私を甚振ることを諦めたのだ。

 ……勝った。初めて勝った。男を諦めさせた、この私が。

 じわじわと喜びが心に広がる。私はどんな痛みを受けても屈しなかった。その結果、私は勝った。男に勝った!

 その小さな喜びを胸に感じながら、私はそのまま目を閉じた。

 もう、何をされてもあの男には屈しない。そうすればいつか……。そんなことを夢見ながら眠りに落ちた。


「……よ、う……おは……う」

 眠っていると、男の声が微かに聞こえた。

 私は無視をする。さっきの勝利で少しだけ気が強くなっていた、男の呼びかけにも全く応じなかった。

 男は何度も私の身体を揺さぶるが、それでも無視する。

「……無視、するんだね。なら、仕方ないね」

 そういって、男は大きくため息をついた。それはどこか嬉しそうに聞こえた。

 その瞬間、私の左眼に今まで感じたことのない衝撃と激痛が走った。

「っひ! いッ……目ッ……めぇ……あ、があああああああああッ……」

「いつまでも目を開かないから、ついついハサミで左目を貫いちゃったよ。でも良かったよ? あと5秒目を開けるのが遅かったら右目も潰す予定だったからさ」 

 あまりの激痛で飛び上がる。目を開けようとしても左目は開かない。

 そうだ、ハサミが突き刺さっているのだ。なんとか右目を開くと、血だまりが床にできていた。

「ぐぅッ……あッ……あ」

 こんな状況でも、声を出してはならないと私は口を塞ぐ。

 駄目だ、屈するな。

「はは、ここまでされても僕を喜ばせないために叫ぶのを我慢してるんだね。痛いだろうに痛いだろうに……けど、健気で美しいなぁ」

「はっ……あ……」

 けれど、今までとは比べられないほどの激痛。無意識に声が漏れていた。

「我慢するのは勝手だけど、あんまり僕を退屈させないでよ。次は本当に足の小指から一本ずつ切り落としちゃうかもよ」

 男は、呆れたように言った。呆れているようだが、怒っている。

 私が悲鳴をあげなかったからこの男は退屈になった。だから私の目を潰した。

「じゃあ、もう一度聞くよ。痛い? 怖い? 苦しい? 優姫ちゃん」

「……たい」

 男の問いかけに私は無意識に口を開いていた。

 もう、我慢できない。私の負けだ。負けでいいから……助けて。

 私の決心は、この時壊れた。あんなに強く誓ったのに、駄目だった。

「痛いッ! 苦しいよぉ……もう嫌! 助けてっ……もう、こんなの嫌……誰か! 助けてよッ!」

 私は泣き叫ぶ。今まで一番みっともなく、惨めに泣き叫ぶ。

「いいね! やっと正直になれたじゃないか。君のその表情が好きなんだ、僕は!」

 男は興奮気味に叫ぶ。

「痛い、痛い! 目が……私の目が……なん、でぇ」

 もう抵抗する気などなかった。私の心は完全に折れた。

 もう抵抗もしないから、だから、私の左目を返してっ……。

「僕を退屈にさせたからだよ。もう一つの目を潰したくなかったら、ちゃんと僕のために付き合ってね? 分かったね優姫ちゃん」

 私は再認識した。

 悲鳴を抑える程度じゃこの男には抵抗もできない。この地獄は終わらない。

 ここは、逃れようのない本物の地獄だ。


「うっ……ぐぅぅっ……っず」

 私は左目の耐え難い激痛に成す術も無く、声を殺して泣いていた。

 左側の視界は血で汚れていて、何も見えない。 

「ああ、こんなに汚しちゃって。これで拭いといてね」

 私の血で汚れた床を見て、男が薄汚れた雑巾をこちらに投げてきた。

 左目からはポタポタと血が流れ、畳に血の跡を広げ続けている。

「綺麗にしないと、晩御飯抜きだからね」

 男はそう言って私の前から立ち去る。

 私は目の前に広がる血の染みを雑巾で擦り始めるも、全く落ちる気配がない。

 もう畳に血が染み込み始めていて、雑巾なんかじゃ落とせない。

 それを見て、気分が悪くなってきた。何で自分の流した血を自分で掃除しているんだ。

 そんな異常な光景に吐き気さえ覚えてきた。しかし、吐しゃ物で更に床を汚したくはないので、私は必死に耐える。

 もう顔中血と涙でぐちゃぐちゃで、気持ちが悪い。

 不思議と左目を失ったことに対する絶望感は少なかった。その代り、激しい憎悪と怒りが私の中に充満していた。

「……ころ……、殺してやる……」

 私は落ちない汚れを雑巾で擦りながら念仏のように唱えた。

 今の怒りをぶつけるように、乱暴に雑巾を擦りつける。

「殺す……殺してやる……」

 あの男を殺してやりたい。同じような苦しみを与えて殺してやりたい。私の中にそんな感情が芽生え始めた。

 けど、できるのか? できるわけがない。私がどんなに抵抗しても、あの男に敵うことは無かった。私が武器を持っていても変わらないだろう。

 もしかしたら寝込みでも襲えば殺せるのかもしれない。

 けど、こんな時ですら私は人を殺すことに怯えていた。自分がこんな目に遭っていても、それが殺人の理由にはならないと幼いながらに理解していた。

 殺してやりたい、けどそんなことをしたら私もあの男と同じだ。人間じゃなくなくなってしまう。

 私は、人間のまま家に帰りたい。

「……嫌、嫌……帰りたい……帰りたいよぉっ……」

 帰りたい。

 あの男を殺して、人殺しとして家に帰りたくない。そんな私を、ゆうちゃん、あんちゃん、兄さんは受け入れてなんてくれない。

 私が人殺しになれば、もう昔の関係には一生戻れない。

 それなら、私は人間のままこの地獄を抜け出して見せる。

 人間のまま、再びみんなの元に帰ろう。

 私は、誓った。


 あれから、どのくらいの時間が経っただろう。

 数えたことは無いが、外の景色を見れば分かる。雪が降っていた。

 私がさらわれた夏から、既に冬に季節は変わっていた。つまり半年まではいかなくてもそれに近い時間が流れたことになる。

 日常は、相変わらずだ。腹が減れば腐ったものを食い、暇つぶしに殴られ、痛めつけられる。

 ただ殴られることもあれば、煙草の火を押し付けられたリ、カッターで切り付けられたり、浴槽に沈められることもあった。

 すごいのが、人間はこんな状況でも慣れてしまえばなんとかなってしまうことだ。最初は何度も殺されると思ったが、案外死なない。痛みはもちろんあるが、前ほど苦痛ではない。

 恐らく神経か脳が麻痺してしまったんだろうけど、痛みが和らぐのならそれでもいい。

 そして、一番の慣れ。それは私の心がこの地獄に慣れてしまったことだ。

 受け入れてしまうことにした。この地獄のような日常をだ。


「ほーら、今日は特性ディナーだ。多分去年くらいのおにぎりなんだけどね、部屋の隅に埋もれてたからおにぎりの中の具に虫が湧いちゃってさ、かなりレアだよこれ」

 男が異臭を放ち、白っぽく変色したおにぎりを私の前に置いた。

 今までの食事の中でも、かなり危険なものであることは明白だった。

「……わぁ、おいしそぉ、私が、食べていいんですか」

「もちろん、どんな虫が湧いてるか当ててみてよ」

 しかし、私は拒否しない。むしろ食事ができる喜びを男に伝える。

 世の中には飢餓で苦しんでいる人が沢山いる。それに比べて私は腐ったものでも食べられる。なんて幸せなんだ、

「んっ……ふぅ……よくわかんないけど、白くてちっちゃい奴」

「蛆かな?」

「んー……」

 私はただむしゃむしゃと腐った米と蛆を口に押し込んでいく。

 味わうな、味を感じる前に胃に押し込んでしまえ。そうすれば普通のおにぎりと変わらない。少しばかり腹痛に耐えれば生きていける。

「はは、そんな急いで食べないで。食いしん坊だなぁ優姫ちゃんは」

 男は、ペットに餌をやるように無邪気な笑顔だった。


「ねぇ、浩二さん」

「なんだい?」

 私は煙草を吸う男……糸田 浩二に話しかける。

「私……ううん、ボクね」

「僕?」

「うん、ボク。浩二さんの真似だよ。もう昔の『私』じゃなくて、『ボク』として浩二さんと一緒にいたいの」

「ボクっ娘とやつか。いいね、可愛いよ優姫」

 下品な笑みを浮かべ、男はボクの口の中に煙草の灰を落とす。

 舌に鋭い熱を感じる。

「へへ……あったかい」

 私はそのまま口を閉じ、灰を飲み込む。 

 糸田は征服感に酔っているのか、ボクの頭を優しく撫でてくれた。

 

「浩二さん、身体が痒くてまた掻いちゃいました。優姫は悪い子です……だから、この悪い爪に罰をください」

 深夜、ボクは隣の部屋でゲームをしていた糸田に甘える。

 入浴は数日に一回の熱湯だけだ。身体が痒くなるのは仕方ないことだった。

 前に剥いだ爪も半年でかなり修復してしまい、また身体を無意識に掻いてしまうのだ。

「また掻いちゃったんだね。優姫の爪は悪い子……また壊さなきゃ」

 糸田は枕元に遭ったトンカチで、私の爪と指を容赦なく叩き潰す。

「……っ!」

「我慢して、これは優姫ちゃんを悪い爪から守るためのことなんだ」

 痛い。けど、これは試練だ。こんな痛みくらいで負けちゃダメなんだ。 

 半年前なら泣き叫んだだろう。けど、今は違う。今のボクは強いんだ。この程度の痛みどうとうない。

「うん……っ、分かってる……っ」

 絶え間なく振り下ろされるトンカチ。爪は何度も何度も砕かれ、跡形もない。

 作業的に糸田は私の爪を砕いていく。糸田は夢中だった。

「っ……ん」

「……10枚全部終わったよ、よく頑張ったね。もう優姫を虐める奴はいないよ」

「……うんっ、ありがと……浩二さん」


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