狂った妹の殺し方-痕-
柘榴
前編
「ゆうちゃん、ボールこっち!」
昼下がりの公園。
4人の子供が元気よくサッカーボールを追いかけていた。
「おー! じゃあ行くぞ」
その中の一人、今年小学校に入学したばかりの塚原 祐介だ。
走るのが得意で、いつもボールの主導権を持っていると言っても過言ではない。
「あっ」
「あーもう、お兄ちゃん蹴り過ぎ……」
しかし、ボールの扱い自体はあまり得意ではなく、こうして見当違いの方向にボールを蹴り飛ばしてしまうことも多い。
そんな兄を見て、妹の塚原 杏奈がため息をつく。まだ4歳とは思えないほどしっかり者だ。
「あー……俺取ってくる」
「もー、早く取って来てよお兄ちゃん!」
兄に厳しいように見えるが、それは兄が好きだからこそである。
すぐに調子に乗ってしまう性格の祐介が心配で、ついつい口うるさくなってしまうのが杏奈の愛だった。
「あはは……ゆっくりでいいよゆうちゃん」
そんな兄妹の微笑ましい様子を見ているのが、私である。
「……優姫ちゃんはお兄ちゃんに甘いんだから」
倉田 優姫。それが私の名前だ。
「そうかな?」
「そうだよ、あんまり甘やかすとお兄ちゃんが駄目になっちゃうんだから」
今は夏休みということでこうして午前中から公園で友達のゆうちゃんとあんちゃんと楽しく遊んでいる。
2人とは家が近く、物心つく前から遊んでいたと両親が言っていた。
普段は私の兄である和彦も一緒に遊んでいるんだけど、今日は所属するサッカークラブの試合だそうだ。試合は午後からなのでこの後、お昼を食べたらみんなで応援に行く予定だ。
「はは、あんちゃんも本当にゆうちゃんの事が好きなんだね」
「そっ……それは、お兄ちゃんだし」
あんちゃんは顔を赤くする。
私はみんな大好きだ。
あんちゃんも、ゆうちゃんも、兄さんも大好きだ。
この4人ならただボールを追いかけまわして、泥だらけになるだけで心の底から笑い合える。
「おーい取って来たぞ……ってなんで顔赤いんだ杏奈」
「何でもないっ」
あんちゃんはとても可愛い。私と違って女の子らしくて、なによりゆうちゃんを一番に思っている。
そんなあんちゃんにいつも説教されてるゆうちゃんも、いつもみんなを笑顔にしてくれる太陽みたいな存在。
そして、和彦はそんな私たちを年上として引っ張ってくれる頼りになる自慢の兄だ。
「何でもないよ? じゃ、ボールも戻って来たし再開しようよ」
「あっ!」
私はゆうちゃんのボールを奪い取り、蹴り飛ばす。
ゴールなんてない。ただみんなでボールを追いかけて、疲れたら休む。それだけなのに楽しい。
こんな日がずっと続いたらいいのに……
けど、それはこの日で終わることになる。
なぜなら、私はこの日に誘拐されたのだ。
「はぁ……はぁ……ゆうちゃん随分遠くに飛ばしたなぁ」
ボクはゆうちゃんの飛ばしたボールを探して、公園の森の部分まで歩いてきた。
僕の身長の何倍も大きい木ばかりで、辺りが暗くてちょっと怖い気がしたが、今更ボールを諦めることもできない。
「あっ」
その時、やっと草木に埋もれているボールを見つけた。
ここから30メートル先くらい。ボクは走ってボールを取りに行く。
みんなを待たせているし、早く戻らなきゃ。そんな思いが僕を急がせた。
「……?」
しかし、ボクがボールの目の前に辿りついた時、ほぼ同時にこちらへ走ってきた男がいた。
「ふぅ、やっぱ走るのは辛いなぁ。こんな暑い中ボール遊びなんて最近の子供は……」
そう言いながら男は何の躊躇いも無くボクらのボールを拾い、持ち去ろうとする。
「あの……そのボール」
「……ああ、これ君の?」
わざとらしくボクの方に振り返る男。
醜く太ったその男は全身汗まみれ。その上何日も風呂に入っていないような汚臭が熱気と共にボクの方へ漂ってきた。年齢もボクの両親と同じくらいなのかもしれない。
正直、1秒でも早くこの男から離れたいと思った。
「……はい」
「返してほしい? ねぇ」
男は気味の悪い笑みを浮かべながら言う。
返してほしいもなにも、元々そのボールはボクたちのものだ。
「返してほしいです」
「んー、どうしよっかぁ」
男の子供を馬鹿にしたような態度にムッとする。
こんな男の相手はしたくないが、ボールを奪われたまま帰ることもできない。
「あの……みんな待ってるので早く返してくれませんか」
「いや」
即答だった。大人の発言とは思えないような幼稚な返答。
「あの……本当に」
「じゃあ、僕の車にもっといいボールがあるんだ。それを持っていくといいよ」
「あの……」
男はボクの声など無視し、勝手に自分の意見を押し通そうとしてくる。
新しいボール何てどうでもいい、ただこの男からボールを奪い返して逃げてしまえればそれでいいのに。
「ほら、こっち」
「あっ!」
男は突如、ボクから逃げるように走り出した。
ボクもそれに気づいて追いかける。
「待って!」
「ははっ、こっちこっち!」
男は挑発するように逃げる。
しかし、速度自体は男が太っているためか大したことはない。子供のボクでも十分追いつける。
そう勘付いたボクは全力で男を追った。
しばらくすると、男は草むらを抜けたところで突然立ち止まった。
そこには、恐らく男のものと思われる黒いワゴン車が停められていた。
「ほーら、ボールはこの中だよ」
男は黒いワゴン車のドアを開け、座席に腰を下ろす。
これが男の車なのだろう。
「……返してくださいっ、他のボールなんていりません」
「いいから、こっちに来なよ。ほら」
男は挑発的な態度でボクを誘う。
ボクは苛立っていたが、ボールを取り返す事だけを考えて車の中に入る。
子供だとからかっているのだろうが、今はどうでもいい。
ただボールが取り返せればよかった。
ボクはさっさとボールを取り返すため、ワゴン車の車内に足を踏み入れる。
「あの……さっきのボールは」
暗い車内を見渡しても、先ほどのボールは見当たらない。
「あの、いい加減に!」
ボクが男に苛立ちをぶつけようとした瞬間だった。男はボクに飛びかかり、身体を押さえつけた。
すごい勢いで後頭部を座席のクッションに押し付けられ、口元に指を一気に突っ込まれる。
「んーっ! ん!」
「ほら、暴れんなって。へへ、最近の子はちょろいなぁ! 知らない人に着いて行くなって親に教わらないのかなぁ」
男はニタリと笑った。
最初から、最初からこれが目的だったのか。
男の緩み切った表情を見て、確信する。これは誘拐だ。
「んー! んー!」
口の中に指を突っ込まれながら、ボクは必死に助けを呼ぼうとする。
誘拐される恐怖より、このままゆうちゃんとあんちゃんを待たせることの方が心配だった。
「うるさいなぁ」
しかし、その抵抗が男の癇に障ったのか、思い切りわき腹の辺りを殴られた。
「っあ!」
ボクは声にもならない悲鳴をあげた。
今ので確実にアバラの骨の数本が折れただろう。
男は小学校に入ったばかりの幼い子供に対し、暴力を振るえるだけの残虐性を持ち合わせていた。
「泣けば済むと思わないでね、君はこれから僕の玩具なんだ」
「っぐ……っう」
私はわき腹に広がる鈍痛に悶えていた。
車が揺れるたびに痛みがひどくなる。
「~♪」
そんな中、私のうめき声など気にもせず鼻歌交じりで男は運転をしている。
「うっ……う」
わき腹の鈍痛、突然暴力を振るわれた恐怖が急に湧き上がって来て、私は情けないことに涙が止まらなくなった。
しかし、顔の半分以上をガムテープで覆われているためうまく泣けない。
「あ、さっきの痛かったかなぁ? ごめんねぇ! あんまり暴れるから手加減できなかったよ!」
男が私のうめき声に気付いた。
謝ってはいるが、そんな感情がこの男にあるとは思えない。
「んーっ……んー!」
「え? なに」
「んー!」
私は涙を流しながらガムテープを剥がしてほしいと懇願する。
しかし、それはこの男に伝わっているかは分からない。
「うるさいなぁ、もう1回殴るよ?」
「っ……!」
男は笑顔のまま握りこぶしを私に見せつけてきた。
笑顔のまま、まるで冗談のように言ってくるのが怖かった。冗談のようでも、この男が殴ってくることが予想できたからだ。
「んー……? なんか苦しそうだなぁ……、あっそっか息が出来なくて泣いてるのね!」
しかし、以外にも私の訴えが伝わったのか男はあっけなくガムテープを剥がしてくれた。
「っ……はぁ! はぁ……はぁ」
一気に酸素が体内に流れ込み、むせ返る。
「顔真っ青だねぇ、でももう家に着くし我慢してねぇ」
それを見て、指を指しながら笑う男。
「家って……なに! 早く帰して! じゃないと……」
ここまで来たら、もうボールなんてどうでもいい。はやく帰りたい。
ただ、その一心だった。
「……何ってこれからの君の家だよ」
男は徐々に車の速度を緩め、駐車の体制に入る。どうやら目的地に着いたのか。
手足を縛られたまま転がされているので、窓の外は見えないがロクな場所ではないだろう。
「違う! ボクの家はこんな場所じゃない! お母さんとお父さんとお兄ちゃんがいて、毎日ゆうちゃんとあんちゃんが遊びに来る暖かい家、あんたなんかの……」
ガムテープが剥がされ、ある程度自由になった私は、若干強気になっていた。
明らかに私の立場が不利なのは変わらないが、先ほどより多少は優位になった気がしてつい怒りに任せて大声をあげてしまった。
「……」
男は黙ったまま、困ったなぁといった表情だ。
「あんたと一緒にいるくらいなら……死んだほうがまし! だからっ」
「……じゃあ死んでみよっか?」
その瞬間、男が一瞬で笑顔になった。
それと同時に、私の鼻の辺りに思い切り拳が打ち込まれた。
「っぐぅ!」
突然のグーパンチに防御すらできなかった私は、正面から衝撃を受ける。
鼻の骨が変な音を立てて、変形してしまったのが痛みで分かった。
「顔は何回殴ったら死ぬんだろう、ていうか僕の手も痛いなぁ。バットとかの方が良いかな」
「ひっ……」
男は私の悶絶の表情を観察しながらつぶやいた。
「あ、金づちでもいいかなー」
「やっ……」
私は一瞬、その絵面を想像してしまって恐怖で背筋が凍った。
そんなもので殴られたら、ひとたまりもない。死ぬかもしれない。
私は認識した。今この男に自分の命が握られていることに。
「冗談だよぉ、ジョークジョーク! 別に君を殺したくてさらったんじゃないんだ」
冗談に聞こえない。いや、冗談ならどれだけ良かったことか。
事実、私の鼻は暴力で砕けて鼻血を垂れ流している。
「だからさ、僕の玩具になって?」
男は、そう言って私を車から引きずり下ろし、軽々と私の身体を担ぎ上げた。
そして、自分の住処であるボロアパートの一室を目指した。
「はい! 今日からここが君の家だよ」
連れられて来たのはボロアパートの一室。
アパートの外観と比例して部屋の中もかなり古びた様子だ。それに比べ、この男が食い散らかしたコンビニ弁当残骸や元はなんだったか分からないような汚物やゴミがそこら中に散らばり、部屋の空気を汚していた。
「嫌……帰してよ」
私は部屋の汚臭に耐えきれず、口元を抑えながら半歩下がる。
だが、それ以上は動けない。何故なら余計な抵抗をすれば今度こそ金具で顔面を潰されると思ったからだ。この時点で既に私に逃亡の意思は無かった。
「ほら、帰ってきたら手を洗ってうがいをしなきゃ。風邪ひくだろ?」
そんな私を尻目に、男は無邪気な笑顔で私に言う。
この男は自分が悪事を働いている自覚が無いのだろう。それが余計に悪質だ。
そう思いながらも渋々男の命令に従い、玄関の横の洗面台に向かう。
手を洗いながら、ふと前の鏡に映る自分の顔を目にする。
腫れた目、おかしな方向にひん曲がった鼻、そして止まらない鼻血。顔中に乾きかけた血がべったり着いていた。
「……っ」
自分の顔だが、戦慄した。
他人の暴力で、人の顔はここまで形を変えてしまうのだと思うと背筋が凍った。
洗面台から戻ったが、未だに鼻血が止まる様子はない。仕方なく男に話しかける。
「あの……ティッシュ、もらえませんか」
「……ん? やっぱり風邪ひいた?」
「いや……鼻血が止まらなくて」
男は一瞬、理解に苦しんだ様子だったがすぐにティッシュ箱をこちらに投げてくれた。
お前が殴ったせいで血が止まらないことが理解できないのか。
「ああ、適当に詰めといて」
男はそっけなく言った。どうせ大した怪我じゃないだろ、と言いたげだ。
「……あの」
「ん?」
ティッシュを鼻に詰め、私は大きく、深呼吸をした。
「どうしたら、私を帰してくれるんですか? お兄さんの言うこと、ちゃんと聞きますから……だから早く帰してください」
この発言がどれだけ危険なものか。
こんなことを聞いて男の気を悪くしたら今度こそ殺されるかもしれない。けど、聞かずにはいれなかった。
けど、もし帰れるなら……。
「どうしたら……か。さっきも言ったかもしれないけど、僕の玩具になってくれたらだよ」
「その、玩具って」
「そのままの意味だよ? 君も玩具で遊んだことがあるだろ? 君にはその役目を全うしてほしいんだ」
男はケロっとした様子で言った。
まるで君はそのためだけに生まれてきたんだと言いたそうな様子だ。
「……意味分からないっ」
「だからー、こういうことだよ」
すると男はいきなり私の首に手を掛け、一気に締め上げる。
「っが!」
突然の窒息に悶える私。
「あっ……が」
息ができない。
息ができないことがこれほど辛く感じられたことはない。そのくらい強い力で締め上げられていた。
「人間はどのくらい首を絞まられると気を失うのかゲーム! みたいな」
「あっ……おぅ……」
男は無邪気に言うが、私の視界は灰色になりつつある。
脳に酸素がいかなくなってるからだろうか、声も遠い。
「つまり、玩具っていうのはこういうこと! 僕の気が向いた時に僕の好きなように遊んでくれて僕の思い通りになってくれる存在だよ?」
「あっ……っ」
そのうち手足が痙攣し始め、口からは涎が垂れ始めた。
「勘違いしないでほしいんだけど、友達と玩具は違うよ? 玩具に気を遣いながら遊ぶ子供はいないよね? だから、僕が君に気を遣うことも無いんだよ」
「っ……」
そして、一気に視界が暗転して私は気が遠のいた。
男が首から手を放すと、勢いよく床に倒れ込む。
「ああー、記録は……1分持たなかったかぁ。ちょっと強く締めすぎたねぇ、ごめんごめん」
男は軽く手を合わせ、謝る。例えるなら待ち合わせに5分遅刻してしまった程度のレベルの謝罪だ。
「これから、僕の気が済むまで玩具として頑張ってもらうよ~。僕の気が済むのが10日後なのか、10年後なのかは分からないけどね~」
そう言いながら男は無邪気に笑い始めた。
「おーい、起きてるかぁ」
私は男の野太い声で目を覚ました。
目を覚まし、まず呼吸ができることに安堵した。あれから気を失い、数時間は失神しているらしい。窓の外の景色が夕焼けだった。
「あ……」
もう、兄さんの試合は終わったんだろうな。
ごめんね、兄さん。ゆうちゃん、あんちゃん。私は心の中で大切な人たちに謝る。
「さっきはごめんねぇ、まさかあんな直ぐに飛んじゃうとは思わなかったんだよ」
男の声が耳に入り、現実に引き戻される。
この男に公園から誘拐され、そして監禁されていること。
「い、いえ……」
腐りかかったコンビニ弁当と、汚臭をまき散らすゴミ袋に囲まれたこの男の部屋。
今日からこんなところにあの男と閉じ込められるなんて考えただけで卒倒しそうになる。
しかし、男の口からは意外にもまっとうな言葉が発せられた。
「そのお詫びと言ったらなんだけど……ご飯を用意したんだ、お腹減ったでしょ?」
「え、え……」
「食べ物ならいくらでもあるからね、いっぱい食べて!」
男は笑顔でそう言い残し、何故か窓を開け、ベランダへと姿を消す。
そしてすぐにベランダから男が戻ってくる、黒いゴミ袋を抱えて。
「おまたせ~」
そしてその男はゴミ袋を上下に大きくゆすったり、横に振り回し始める。
まるで、中の『何か』をかき混ぜようとしているようだ。
中には何が入っているのか……。
「よし、これで調理は完了」
男は、乱雑に中の『何か』を床にぶちまける。
「……っ!」
私は、これが何かを判別することはできなかった。
今まで見てきたもので、一番醜悪でおぞましい物体と言っても過言ではないだろう。
「……どうかな? 半年はベランダに放置してたコンビニ弁当のミックス! いい感じに日光で温まってると思うんだけど」
耳を疑った。半年? 食べ物を半年を外で放置していたのか。
いや、もうそれは食べ物ですらない。生ごみでもない、悪意の固まりだ。
「……これを、本当に食べるんですか?」
私は恐る恐る男の顔を見ながら言う。
「……嫌かな」
「いや、嫌とかじゃなくて……こんなの食べたら」
「食べたら? お腹いっぱいになるよ」
男はにこっと笑った。
知っている、この男の笑顔は最終警告なのだ。これを無視すれば次は何をされるか分からない。これ以上の地獄を味わうことになるかもしれない。
そう考えれば、これを食うだけならマシに思えてくるほどだ。
「こんなのっ……食べ物じゃないっ」
「……好き嫌いは良くないよ? 優姫ちゃん?」
「っ? なんで私の名前……」
「ちゃんと調べてるに決まってるじゃん。だから君の好物のから揚げ、ハンバーグ、生クリームを半年もかけて天日干しで温めてあげたんだから」
好きなものだから、全部混ぜた。
男の恐怖すら感じる幼稚さ、浅はかさに私は心の底から恐怖した。
なぜなら、この男にとってはこれは悪事ではない。少しばかりのいたずらだ。
「だからさ、食べれるよね」
この男の目的が見えてきた。
私に少しばかりの『いたずら』を続け、私がどこまで耐えられるのか。もしくは壊れるのかを観察したいのだ。
それは子供が好奇心で蟻を踏み殺すのに近い心理なのかもしれない。
「っ……うぅっ、いただ……き、ます」
私は震える手で『食べ物』を鷲掴みする。とりあえず、この男の言うとおりしよう。そうして満足してくれれば、私は帰れるはずだ。
そのためなら、このくらい……。
「うっ! うぅっ」
吐くな! 吐くな! ここで吐いたらこの男は私に失望する!
そうすれば、また帰るのが遅くなるぞ!
私は食べ物を租借しながら延々と繰り返した。
「ほら、ちゃんと溢さないで。食べ物は粗末にしちゃダメだよ」
それを見て、嬉しそうにはしゃぐ男。
この男からしたら、私が美味しそうに食べているように見えるのか。
「-っ……っず、ぁ……っぐぅ」
「ほら、から揚げなんか美味しそうだ! もっといっぱい食べてよ!」
すると男は恐らく半年前までは『から揚げ』だった物を3つほど掴み、それを私の口へ押し付けてくる。
「ううぅうぅ! んーっ! んっ!」
男は無理やり私の口をこじ開け、汚物を私の中に押し込んでくる。
「ちゃんと噛んで、まだ食べ物はいくらでもあるんだから」
駄目だ。
なんとか耐えてきたけど、もうこれ以上は我慢できない。
口がふさがり、骨折した鼻だけで必死に私は呼吸する。だが、呼吸のたびに鼻は激痛を走らせる。
もう、無理……。
想像以上の苦しみで涙が止まらなかった。
「う、うえっえええ……」
「あー……」
もう限界は超えていた。
私は胃の中の全てのものを床にぶちまけた。もう、なにがどの食べ物だったかも判別がつかない。
「げほっ! げほっ……かはっ!」
私は激しく咳き込む、まだ喉が焼けるように痛い。
「……床、汚しちゃったねぇ」
「……え?」
男は、仁王立ちしていた。
男の顔にも、私の少量の吐しゃ物がかかっていた。
「ああ、ごめん。食べ過ぎたから喉が渇いたよね? こっちにちゃんと用意してあるよ」
「……っや」
あの地獄のような食事の後、男は水分補給だと言ってうずくまって泣いていた私を叩き起こした。
そしてそのまま首根っこを掴まれ、部屋を引きずり出される。
「いやっ……もういやっゆるして」
「大丈夫だって、熱湯とか腐った水とかじゃないから。ちゃんと冷やした美味しい水だから」
「……っ」
小柄な私を引きずっていた男の足が止まった。ここが、男の言う水の飲める部屋なのか。
この男の用意するものがまともなわけがない。次は何を飲まされるのか。
私は針を千本でも飲まされるほどの恐怖を感じていた。
「ほら、水はここにある。立って」
男は私を引きずり起こす。私は改めて自分のいる場所を目を見開いて再確認する。
そこは、浴場だった。薄暗く、妙に寒い。
「……なんで」
「見てよほら、こんなにたくさん用意したんだ」
男が浴槽のブルーシートを引きはがす。
そこには浴槽いっぱいに水が張られていた。
「っ……」
「ほら、夏だから冷水だよ。当然全部飲んでくれるよね?」
男は満面の笑みで言った。もちろん、やってくれるよね? という顔だ。
確かに普通の冷水なのかもしれない。ただ、この男は私にこの浴槽の水を全て飲み干せと言っているのだ。可能なわけがない。
「……いやっ、無理」
私はその場で座り込み、泣き始める。
腐った飯を食わされた後は、浴槽の水を飲み干せと言われる。なんなんだここは。なんなんだこの男は。私は……なんでこんなところにいるんだ。
本当なら、今頃家でお父さん、お母さん、兄さんと美味しい料理を食べて、ゆっくりお風呂に入っていたはずだったのに。
「何で? 夏なんだからいっぱい水分取らなきゃ。しかもキンキンに冷えてるからね」
「の、飲めませんっ……のめ」
「ああ、遠慮なんかしないで。ほら!」
私の言葉を無視し、男が私の髪を鷲掴みにし、水の張られた浴槽に私の顔を無理やり沈める。
「っ……ぁがっ」
水に押し込まれ、呼吸ができない。悲鳴をあげられない。手足にも抵抗するだけの力は残っていなかった。
男の力は更に強まり、浴槽の底まで身体ごと沈められる。
「……っ! っ……!」
「ほら美味しいかい優姫ちゃん! 熱中症になったら大変だからね、こまめに水分は必要だよ」
「っ……! っ!」
男はまるで娘の熱中症を気遣う父親のようだ。
私の空っぽの胃に冷水が流れ込んでくる。今までに体験したことのないような不快な感覚だった。
「うーん、なかなか浴槽の水が減らないなぁ。これ全部飲み終わるまで何分かかるかなぁ」
私がこの浴槽の水を飲み干せないことをこの男は知っている。
だが、それを楽しんでいる。無力な私が、どう抗うかをこの男は楽しんでいる。
ここで、このまま溺死した方がいいのかな。私は本気でそう思った。
「優姫ちゃん大丈夫―? なんか段々力抜けてってるけど」
「……」
既に私に抗う余力など無かった。ただ、男の力のによって人形のように水に沈められるだけだった。
水に沈められて数十秒程だったが、私の意識は徐々に遠のく。
このまま、死ねるといいなと思いながら私は失神した。
「あーあ、満腹で寝ちゃうなんて贅沢な子だなぁ」
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