第3話『はんこください』
翌日、朝。
「えい」
「ぎゃー!」
太郎はヴァルキリーに首を半分斬られて目を覚ました。
「斬新な起こし方をするじゃないか、これも北欧クオリティーか!」
「北欧も広いですから。主にフィンランドで流行した起こし方です。目が覚めるとヴァルハラ! という」
「痛みがないけど死ンだな~って気になってるから不思議な剣だなあ君らのそれ。アーティファクトっつーんだろう?」
「日本ではそれでも通じますよ? 魔道具魔剣の類いですね。傷口が塞がらない呪いの剣とかもありますけど」
「それは堪忍」
血も出ないし汚れないので、顔を洗ってそのまま出社に。
「お食事は?」
「あんな起き方したんだからまだに決まってるじゃないか。こちとら朝はしっかり食べる派なんだ。……ああそうか、三食付きだったっけ」
「ええ、ですから朝食はヴァルハラで用意させていただきます」
「助かるなあ。どうしても外食になることも多いからさあ」
「北欧料理と思いきや、実は日本食や日本洋食なんですよ? 皆さんこっちが長いですし、食材その他も買い出しが楽ですから」
「ロシア挟んだ隣の国なのになあフィンランド」
「横に長いですからねえ」
などと話しながらも、天馬――鞍の腰の部分には外交官ナンバーが立てられている――に揺られつつ、永田町は国会議事堂上空の異次元へと降り立つ。厩舎は記憶のままだが、その横には実に数十袋のゴミ袋が積まれているではないか。掃除は順調に終わったらしい。
「けっきょく朝までかかりました。私は平気ですが、フレイヤさまは心労がたたりお部屋でお休み中です」
「幼女に徹夜はきつかっただろうなあ」
多少同情はするが、それ以上に太郎は執務室の綺麗さに驚いた。あの魔窟がここまで綺麗になっているとは思わなかったのだ。同情どころか見直したい気持ちだった。
「いっかい始めると徹底的なんですよ、ああいうタイプは」
とヴァルキリーもにっこりだ。
そこで荷物を下ろすと、備品として据えられたノートパソコンを広げる。さすがに古いタイプだが、ゲームをしないならそれほどひどいスペックではないだろう。しっかりと有線で繋がっており、OSも最新の状態。アップデートまではやっておいてくれたのだろう。
「あ、それは私が。フレイヤさまがヨダレたらして船をこいでたものですから。――ほかは分かりかねましたので、ソフトなどに手はつけておりませんが」
「いやいや上出来。ありがとうヴァルキリー」
「いえいえ」
その後に食堂に。時間が早かったこともあり、ほかのエインフェリアたちと同じ釜の飯を食うことになった。広いが定食屋と行った体の店構えだった。というか、店だった。厨房では忙しそうに鎧の上から割烹着を着けた「……あれはあれで何かに目覚めそうなスタイルだな」といったヴァルキリーたちがテキパキと動いている。あの金髪銀髪栗毛に黒髪のひっつめ髪の戦乙女たちはイカにも色っぽい。さすがだった。
「夜宴はいつもここなんですよ?」
「へえ、ここでやるのかあ。夜宴といっても、みんな帰るんだろう?」
「宿舎が地上にありますからね。ヴァルハラも広いのですが、通いであることが経費削減の条件というか、あくまで拘束時間が引っかかってしまいまして」
「そうだろうなあ」
いかにも北欧の戦士なエインフェリアたちが一斉に太郎を見る。
「おお、フレイヤさまを制した文官の長のお出ましだ!」
「おおおお」
歓迎の色に驚く太郎だが、大きい声というか良く通る声で挨拶をする。
「おはようございます、今日からこちらで働くことになりました一士太郎です。執務室で事務全般をこなします。何かありましたら、ぜひ。よろしくお願いいたします」
瞬間、戦士たちは戦乙女含め皆一斉に立ち上がり、食事と給仕の手を止め、居住まいを正し「おはようございます。こちらこそよろしくお願いいたします」とオジギをする。日本式だ。
そして、次の瞬間には太郎を交えての朝食が始まった。
「いやあ、部長には期待してます」
「部長? ああ、そういう肩書になるんですか」
バイキングなエインフェリアにそう肩を叩かれ、太郎はなるほどと得心した。さて、暫くはこのヴァルハラの荒療治になりそうだなとあの幼女の顔を思い出す。
「ところでフレイヤさまは?」
と太郎。階級は会社とは少し違うのであろうかと、さま付けで呼ぶ。バイキングの中でもいっそうたくましいエインフェリア――どうやら戦士長らしい――彼は少し考え、「泣きながらシャワーを浴びて、掃除をして、明け方に自室に戻ったらしい」と言う。自室はこの城にあるそうだ。どうやら住み込みの管理職らしい。色々あるのだろう。
「今日は金曜日だ。昼には起きて買い出しの陣頭指揮を執るだろう。……聞いたが、今日中に用意しなければならない繁雑な事務が溜まりに溜ってるそうで?」
「そうなんですよ。もう、なにから手を着けたら良い物やら。とにかく食事を済ませたら、一気にやってやろうかと」
「頼もしい」
と、そこに「朝食でございます」と、太郎付きの秘書ヴァルキリーがお盆を持ってくる。炊きたてのご飯に、焼き鮭と味噌汁、そして山盛りのザウァークラウトだ。ザウアーは酢の物だが、お新香と思えばこういうのも面白い。太郎の口に合うかと恐る恐るのぞき込むヴァルキリーに「いただきます!」と頬張り、美味いとひとつ頷く。
「よかった」
その明るい笑顔に、太郎の顔もほころぶ。
「酒が欲しいところだが、そこは夜だけなんですよ部長。ああ、私のことは課長で」
「エインフェリア課長?」
「エインフェリアは、一介の戦士という意味です。エインはアイン、『ひとつの』。フェリアは……こっちで聞こえの良いのはファイター、つまり『戦士』ですわ」
太郎のおかわりを盛りながら、ヴァルキリーも会話に加わる。
「じゃあ、課長で」
「おう」
楽しい食事だった。
この気持ちの良い戦士たちのためにも、良い職場にしなくてはならない。
あと、半分ぶった切られた首だが、何故か上手いこと食事は文字通り喉を通るのに驚いた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
片付けは厨房の持ち回り戦乙女に託し、トイレを済ませて執務室に。長であるフレイヤは寝かせておこうと、まずは溜まりに溜まった雑務を前に、始業時間の鐘が鳴る前ではあるが腕まくり。
「さあ、やったるか!」
「お手伝いいたしますわ」
するとまあ出るわ出るわ。
提出すべき書類の数々がだ。
どうやらこの日本神連合という、八百万の神様や妖怪魑魅魍魎に至るまでの怪異たちの組織があって……というのも驚きだが、世界各地に国連のようなものがあって、そこに参加してるそうで、まあ大使館というのも言い得て妙、神秘が集まって神秘が神秘であるような世の中を維持していこうと、こうして人とあんまり変わらない世知辛い仕組みの中を動いてるらしい。
実にファンタジーだったが、実に事務的だった。
「ヴァルハラ日本支部の家賃!? そうか、賃貸という形で日本に還元? ああ、空間使用料とかか。えーと、登記簿と……登記簿あるのかよ、まああるよな。で、納税証明書……ってこれは代理でも取りに行けるな。経審? ああ、そうかこういうのもあるのか。活動内容が著しい環境側面に…………ISO!? あいえすおー!? マジで!? ISOのいくつよ! 環境ってことは……」
「一九〇〇一ですね。……あそこに」
「ほんとだ、会社方針貼ってあるし」
提出するためのあれやこれや、それを一個一個確かめる。
「うわー助かる! 運営に関するシステムは日本神連が用意してくれてる! ああ、ログインして……会社登録だぁ!? KAMIサインカード? ああ、これか、開けてもいねえし。これ、ブラウザから……JAVAか、これで……いけるか……?」
そうしているうちに、印刷と書き込みを手書きとヴァルキリーとの連携で次々とこなしていく。ISOという国際審査基準の登録などの更新こそ先だが、審査基準に満たしているという証明などで、保証金は大きく左右される。ここは踏ん張りどころであるし、システム屋だがこのような思考はお茶の子さいさいである。あくまで分量が分量なので手が止まることはなかったが、昼が過ぎ、お茶の時間が過ぎ、一息ついた頃には書類の山ができていた。
「疲れた……」
「お茶です」
「あんがと」
おにぎりとお茶で遅い昼食を済ませ、太郎は一息ついた。
あとはフレイヤに彼女と会社の
「そういやフレイヤさまは? 買い出しの指示と言っていたが」
「金曜日は買い出しの日なのです。まあ食材の保管ができるとは言え、人も多いですし、冷蔵庫も業務用とはいえあの人数の胃袋を支えるには、週一の買い出しが最低でも。サイフですから、フレイヤさまは」
「まあそうだろうなあ」
お腹も満ち、一息つく。
しかし、そろそろ帰ってきても良い頃だろう。太郎の首の傷も塞がってきている。指で触ったりほじくったりしても痛くはないのだが、ほかの部分は生きてる頃と変わらず感覚があるのが面白い。
「遅くない?」
「……遅いですね。あ」
何かを思い出したかのようにヴァルキリーが手を叩く。
そして窓を開け――良い空気が入ってくる――厩舎の方をのぞき込む。
「買い出し部隊は帰ってきてますね」
「ああ、じゃあ戻ってくるか」
一安心したが、四時を回るとそれどころではなくなってくる。電子納品で事が済むのは、確認の電話を考えれば遅くとも六時だ。定時が五時だが、ことがことだけに残業も考えなければならない。
「自室かな?」
疲れているところを済まないと思いつつも、「呼んできて貰えるかな」とヴァルキリーに申し出る。幼女とは言え女の子の部屋に行くのは気が引けたからだ。
「承知いたしました」
「たのむよ。あ、はんこほしいって。それだけで良いから」
再度頷くと、ヴァルキリーは出て行く。
上手くことが運び、すんなり受理されれば――とはいえ、わざと不備を入れての再提出の手間時間込みでの見込みだが、上手く間に合うはずだった。大きく伸びをする。これでしばしこのヴァルハラの存続は決まることになる。そう言うより、無くす理由がなくなることになる。
「たいへんです、太郎さま」
「どうした」
慌てて戻ってきたヴァルキリーがのほほんとしていた太郎に助けを求めると、さすがに太郎も腰を浮かせる。
「フレイヤさまが
「なんでだ!」
「いえ、天岩戸はあくまで通称なのですが、自室の扉に魔法の鍵を掛けて閉じこもっているのです。外界から隔絶されたプライベート空間故に、こちらからの問いかけにも答えられませんし届きません。どうしましょう太郎さま! このままでは書類の提出が!」
「なんで閉じこもる必要があるんだ!」
「おそらく予約してまで今日買ってきたドエロいゲームをヘッドホンで聴きながらニヤニヤ徹夜で攻略するつもりでしょう」
「金曜だもんな」
太郎も思い至る節があるだけに、座り直して膝を打つ。
「よし、電源を物理遮断しろ。そうすれば――」
「総電源を断てば可能かと。しかしそうなるとここのシステムも復旧まで半日はかかるかと。書類の電子納品が……」
「ああ」
どうにも静かだと安心して作業をこなしておいて、これか。
昨日は幼女にやらせすぎたかと罪悪感を感じていたが、ドエロいゲームを購入し遊戯できると言うことは少なくともこのお話に十八歳未満の登場人物はいませんというナニでアレなソレである。
「フレイヤさまはロリババアですから」
「……ほう」
ゆらりと、太郎は立ち上がる。
その背には、社鬼畜のどす黒いオーラが満ち始める。ヴァルキリーはその姿に息が熱くなる。興奮の極みだった。
「部屋は?」
「最上階です。そこの尖塔を上に2フロアほどです」
「行ってくる」
太郎は上半身を揺らすことなく、まるで水面を往く舟のように部屋を出る。柳生新陰流に伝わる歩法、
果たして尖塔を上る太郎が見たものは、観音開きの大きな大きな扉であった。主神オーディンは巨漢であったと聞くが、荘厳な両開きの扉には明らかな魔法がかかっており、むやみに手を触れると電撃が落ちる仕組みとなっているようだった。
そのような完全な要塞と化した部屋の中で、フレイヤは着替えたままの下着姿のまま、暗い室内、ゲーミングチェアの上でアドベンチャーゲームに登場している少女の立ち絵とセリフと曲を、30インチの画面とヘッドホンで誰にも邪魔されることなく没頭しているではないか。
仕事をしようとは毛ほども思っていない。
あの新入社員の邪魔もしないが、こちらも仕事はしない。する気はなかった。頑張って作業をしているのを尻目に自室に引っ込み、今日はこのゲームのサブヒロインルートをまずはコンプリートするまで寝ないと誓っていた。金曜夜のお楽しみである。
ドオオオオオオオオン!!
そんな中、外界から隔絶されているはずの部屋にも響く轟音と振動。どうやら誰かが部屋の扉に仕掛けた雷に触れ、死んだようだった。どうせ時間には生き返る。どうせあの太郎だろう。いい気味だった。
エロゲを再開する。
これで心置きなく遊べるというものだった。
日本を離れても、まあ少し苦労するがダウンロード販売も通販もある。ナニを気にすることがあろうか。良い時代だった。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
「………………」
さすがに二発目が落ちるとは思ってはいなかった。
フレイヤはさすがに息をのんだ。あの社鬼畜の、あの怨念のすさまじさを思い出す。キュっと膀胱が染みるように収縮するが、ニヤりと笑う。あの雷は、神の一撃。二発喰らうとは大したものだったが、もう死んだだろう。雷神トールのお墨付きだ。
「うーん、やはり金松由花の声は脳を溶かす喃。ああ、
ズドオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
フレイヤの表情が、消えた。
辺りは一気に静かになる。聞こえてくるのは、たったいま外したヘッドホンから漏れる、明るく楽しいBGMだ。しかし、フレイヤの背中を流れるのは、冷たい冷たい汗である。
そのときだった。
コンコン。
ドアのノックの音だ。
「ひっ」
隔絶された外界からの、小さい、小さい、ノックの音である。
「一士です……イラッシャイマスカ……フレイヤサマ」
聞こえた。
どこから!?
息を潜める。
「イラッシャイマスカア」
ヘッドホンからだ!
コンコン。…………ドンドン!
と、ノックの音が強くなる。
フレイヤはヘッドホンアンプを消音にし、ディスプレイを消し、真っ暗になった部屋で息を潜める。
なんだ、今のは!
ミシィイイイ……。
背筋の凍る軋み音。どこからだ。扉からだ。北欧の一級品オーク材を使った豪奢な魔法の扉が、外側からの圧力で大きくたわみ始めたと見るや、バキィ! という乾いた音と共に…………腕が生えていた。真っ黒な腕が。肉の焦げる臭い。太郎の腕だった。
「いるのか? そこに」
地獄の響きだった。
扉に空いた隙間から、真っ黒な肉塊が覗き込んでくる。神の雷に三度も打たれた、焼け焦げた太郎の頭だ! その赤黒いのは瞳だ! タンパク質が真っ白を通り越し破裂しているが、その血まみれ肉まみれのソレは、どろりとした視線を覗き込ませている。
無音で真っ暗な室内を見回しているが、視力は戻ってはいないらしい。
口を押えて息を潜めるフレイヤがガタガタと震えているが、気がついた様子はなかった。
次は頭を傾けて、耳。
動きを止めるフレイヤ。
首をかしげる太郎。
「おかしいな。いないと困る。いるはずだ。いなければ殺す」
「ひィッ」
耳も聞こえていないのだろう。フレイヤの悲鳴にも気がついていない。
そしてフレイヤは後悔していた。
日本のビジネスマンを! その怨念を! 日本という国の魂の比重を!
「かくれて……イルノカナァ?」
次は顔を正面から。
クンクンと、鼻を鳴らす。
臭いは、鼻は生きているのか。
息を潜めるフレイヤ。じっと明るく見える一点、扉に開いた光源でうごめくどす黒い肉塊を、ガチガチと鳴る歯を抑えながら、椅子の上で体育座りとなる。自分を抱きしめる。冷や汗が、脂汗がにじむ。
そのときだ。
「ミツケタ」
首がこちらを向いた。
「ぎゃああああああああ!!」
椅子からずり落ちたフレイヤは腰を強かに打ち、しかし痛みに悶えることもできずに腰を抜かしたまま荒く浅い息を吐きながら、机の下に身を隠す。やり過ごさなければ。やり過ごさなければ。
なあに、相手は鼻だけの肉塊。隠れていれば、やり過ごせる……。暴力沙汰になれば、今は遠ざけているが護衛の戦乙女やエインフェリアに始末させれば良い。ここは治外法権なのだ……。
そう考えて自分を鼓舞するが、ガチャリと伸ばした腕で内鍵が外され、見るも無惨な肉体の太郎が入ってくる気配に、「おかあちゃん!」と涙目になる。
「デテオイデェ。ホシイモノガアルンダヨォ」
か細いが良く聞こえる声だった。あの声だった。太郎の声だった。
引きずる音は脚か零れた内臓か。
びちゃり、びちゃりとした音は出血も伴っているからであろうか。
「クレヨォ……」
その脚が、机の前で止まる。無駄にマホガニーの豪奢な机は鉄壁となるも、あの太郎である。下から数センチ空いた隙間から、太郎の脚が窺える。猛烈な電撃が脳天から脚に抜けたのだろう。革靴は靴下共々はじけ飛び、素足だった。真っ黒な、真っ黒な脚だった。
息をのむ。焦げ臭いというレベルじゃなかった。死の匂いだ。
その隙間から、ふと足が遠のく。
去って行く気配に、ひとつ息をつくと、フレイヤはその下の隙間から様子を伺おうとして見てしまった。
「イタ」
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!」
数センチの隙間から、タンパク質の塊となった赤黒く黄色に光るその両目を! じっと見てくるその双眸を! 首が床に埋まっていなければそうとしか見えない角度で見据えてくるニタリとした目を!
「ひいいい! ひいいいいいい! ひいいいいいいいいいいいい!!」
抜けた腰で這い出し、力の入らぬ四肢で文字どおり
「クダサイヨォ……クダサイヨォ……」
命をか!? もはや息もできぬ恐怖に辛うじて首を回すと、倒れ伏した太郎であった肉塊が、びちゃりと這い寄ってくるのが見えた。
ずるり、ずるりと、びちゃり、びちゃりと、醜悪そのものの悪鬼が、フレイヤに這い寄る。
クンクンと鼻を鳴らしながら執拗に位置を確かめつつ、びちゃりと首を巡らす。
「アレ? ナニガホシカッタ? ナニガ? ……ナニヲ?」
首をかしげる。
その体が、フレイヤの足先に触れる。
「ココカァアア!!」
「がひゃッ、あああ…………………………っ、~~~!」
もはや悲鳴にもならなかった。
おぞましい何かが、這い寄ってくる。下着しか着けていない自分の体をよじ登るように、肉塊がぬるりと焼けた熱さのまま。
フレイヤは舌を噛みながら耐えていたが、盛大におしっこを漏らして気を失う。目玉は裏返り、血がにじんだ泡を吐き、執拗に痙攣を繰り返している。
「コノにおい――」
おしっこの湯気を吸い込みながら、太郎は彼女の耳元に這い登ると、失った意識の奥底にも届く声で聞く。
「はんこください」
「はい、そこまで」
ヴァルキリーが太郎を優しく抱え起こすと、速やかにフレイヤの机の鍵を開け、実印その他を取り出す。
「部長、ありました。これで間に合いますわ!」
「おお、そうか」
五時の鐘まで間がない。
意識がはっきりした太郎は改めて立ち上がると、痛みや苦しみに耐えて辺りを見回した。
「自室も魔窟だな。まあいいか、プライベートだし。あ、いいや、それより急ぐぞ。判子はこちらで押そう。代表がこの
「承知いたしました」
「ではフレイヤさま、良い週末を。残務がありますので私はこれで。ゆっくりお休みください。気がついたらお風呂と着替えとお掃除をお忘れなく」
太郎はもう一度肉塊となった自分を鼓舞し、フレイヤの耳に己が口を寄せると、静かに一言呟いた。
「ミテルカラナ……」
ビクンと返事をするようにフレイヤが痙攣する。
それを見ると満足したかのようにふたりはいそいそと部屋を後にする。
ファンタジーは日帰りなのだ。
土日は少しだけ休みだ。
彼女は思い知った。
よかった。ファンタジーは日帰りなのだと。
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